11:内科医学の冊子
緋澄は医務官を退官しているが、許可をもらって“民草医”として医療を行っている。
医務官と民草医との違いは明確にある。医務官は国から任地を定められ、その任地の医療を担う。上級士族である場合は宮廷医となる道もある。医務官は国から給金をもらって生活している。しかし、民草医は治療した相手から直接金をもらい、生活している。ならず者や秘密裏に行いたい処置があるものは民草医を利用することが多い。
緋澄は那覇を中心に診療を営んでいた。
那覇は港町であったことから、多くの海人が訪れ、傷の手当てをしに彼女の下にやってきた。緋澄は医術の中でも特に外科を専門としており、海人だけではなく、他の疾患を持つ患者についても外科手術を行っていた。また、患者からは珍しい食べ物や畑の農作物をもらうことで治療費としていた。貧しい者からは払えるものを、富めるものからは金銭をもらうことによって、緋澄の治療は成り立っていた。
緋澄の住むロウビャカ山の麓の家に居候させてもらうことになった。二人は緋澄の前で正座する。
「香月のところで食医学と産科医学はみっちり学んできていると思うからね。内科医学だからな。内科医学は李医学を根底にしていて、それに合わせて生薬処方・鍼・指圧を行っていくんだ。内科医学は李医学、外科医学は西方医学と思っておくこと。全く別物なんだ。これは知っているかい?」
「いえ、わからないです」と珞は答え、文修は「聞いたことはあります」と自信なく言った。
「そうだわな。ちなみに李医学のことを学んだことはあったかい?」
二人は首を横に振った。
「ふむ。本来ならばワシが教えて、それを実践していくのが良いのだけれど、あいにくそんな時間はないんだ。でも、何も触れていない状態から始めるには医学は非常に難しいものであるんだよ」
ぶつぶつと緋澄はそう言うと、紙と筆を取り出した。
「ここは焦ってはいけないね。ワシの悪い癖だ。許容できる範囲でゆっくり行こう。その代わり、ちゃんと毎日勉強するんだよ。最初の方さえゆっくりしていけば、後半はつながるようになる。李医学を身につければ、鍼、生薬、指圧も言っている意味が分かってくる。焦りは禁物だ」
緋澄が呟く「焦りは禁物」。それは珞に言っているのではなく、自分自身に言っているようであった。医務官科に合格させるためには、安穏としているわけにはいかないのだ。早く実地を経験し、自分一人でやれるようにしなくてはならない。
「二人とも、焦ってはいけないのだが、正直時間がない。ゆっくりしたいと伝えたが、ゆっくり教えている時間もないんだ。わかるね」
珞と文修は頷いた。
「確かにゆっくり学んでいては時間がかかります。食医学のように、知識を覚えてから、実践するようになれば、全くもって時間が足りません」
緋澄は悩んでいた。二人に覚えろと言うことは簡単だ。しかしながら、それをすることによって、医学を学ぶことを辞めてしまうかもしれない。そう考えた緋澄は彼らに一つの提案をした。
「李医学の基礎理論、五臓六腑、経路、病因、疾病、四診の方法については、食医学のように覚えて、それをワシは確認する。そこからの弁証施治と治療法則については、実際に見ながらするのがいいと思うんだけど、どうかな?」
緋澄の困り果てたその顔から、珞は李医学がとても難しいものだということを察することができた。珞は緋澄の眼を見つめた。そして、思ったことを言おうとしたが、ずいと文修が珞の前に出た。
「おれは、全部頭に入った状態で、病気の人たちを見たいです。だって、知識があるから、実践に繋げられるし、実践が学びになるから。何もまっさらな状態から学ぶならまだしも、ちゃんと書物があって、学べる環境があるのなら、おれは先に学んでから実践していきたいです。なっ、珞!」
珞も同じことを思っていた。香月の下、書物で学んだあと、すぐに実践することによって学びが深まったと感じていた。そのため、今後の内科医学や外科医学もそのように学びたいと思っていたのである。
「はい、俺もそう思っています」
自信をもって答える二人に対し、緋澄は心配していた。その心配を言葉に出す。
「これはお前たちのために言うことなのだが、李医学は自身で暗記するのも勉強するのも難しいものだ。それをお前たちは自分で覚えて、覚えた状態で実際に私の傍で診察に参加しようというのかい?」
「「はい」」珞と文修は間髪入れずに答えた。
「じゃあ、私は暫く様子を見させてもらうよ。ちゃんとお前たちが勉強できているかどうかをね。質問はいつでも受け付ける」
そう言って、緋澄は二人の傍から離れ、自分の書斎へと籠った。
そこから珞の猛勉強が始まった。緋澄から渡された冊子は李医学、鍼、生薬、指圧の四冊であったが、書いてある内容が桁違いに難しかった。勉強方法の違いから、珞は元の冊子を使い、文修は模写したものを使うことにした。
食医学とは違い、内科医学の根本を形成する李医学は陰陽五行の考えから成り立っており、体の巡りから臓腑のことまで詳しく書かれていた。二人は部屋の壁に、台紙を張り付けた。そしてそこに、人の絵を書き、臓腑の名前や疾患名、治療法などを一目で見られるようにした。それと同時に、李医学から読み込んでいったのである。
わからないことは、すぐに質問し、緋澄はそれに答えた。珞が冊子に書き込んでもいいかと尋ねると、良いとのことだったため、早速筆で書こうとすると止められた。「これを使いなさい」と言って渡されたのは、透明な硝子でできた“ペン”というものと青色の墨“インク”であった。西方のものであり、ペンの先をインクに浸して文字を書くという。珞は最初は扱いづらいと感じたが細かな文字を書くときには筆よりもペンの方が重宝した。文修も同じものをもらったが、模写をするときに大いに役に立った。
「虚証ってなあに?」
緋澄からの質問は突然始まった。珞と文修は顔を見合わせる。まずは珞が答えた。
「……虚証は、陰液である血・津液・精、あるいは陽気である気の不足のことです。大きく分けると気虚・血虚・陰虚・陽虚があります」
「その原因は?」
次は文修が後に続けた。
「虚証が発生する要因としては……一つ、先天的な体質虚弱。二つ、慢性疾患を伴う体力消耗。三つ、過度の疲労・気が・性生活の不節制。四つ、出血・激しい発汗・急激な嘔吐や下痢を伴う物質的消耗。五つ、精神的な刺激による体力消耗。六つ、病邪の侵入による病理的反応で生じた機能的・物質的な消耗…でしょう」
それを見て、緋澄は嬉しそうに笑った。
「よく覚えているじゃないか。ちゃんと勉強するんだぞ」
任された家事仕事に向かう二人のの姿を見ながら、緋澄は先程までの笑顔をひそめた。そして、二人の記憶力に驚愕する。思った以上の出来である。部屋の壁一面に貼られた人体の図に書き込まれた文字の量、そして夜遅くまでコソコソと問答する二人の様子に、緋澄は驚愕していた
彼女は卓に置いてあった食医学についてのじ冊子を手に取った。食医学の冊子にも、珞の書き込んだ文字が残っている。
珞は気づいていないようだったが、冊子の裏表紙には小さくその所有者の印が押してある。――その印は胡蝶蘭。紀礼香が白蘭子より戴いた紋である。
「なぁ……礼香。お前が死んでも、この本はずっと残っているよ」
緋澄は遥か昔に死んだ友の名を呼んだ。その声は寂しく、愁いを帯びていた。




