7:朱塗りの文箱
子孝は紗鶴以外の娘に興味はなかった。あの美しい拝礼、自身の考えを発言できる気骨のある性格。伯山紗鶴以外に壱ノ夫人にふさわしい者はいるだろうか。
子孝は苛立っていた。
一番最後にやってきた四高士族の波頼一族の壱ノ媛は「自分が壱ノ夫人になることこそ、国のためであり、民のためである」と言う。しかしながら、その具体的な施策について聞いてみると、「自分の存在なり」とのことで、話にならなかった。
子孝は波頼一族の長であり、三司官の波頼嶽藍を見て、「話になりませんね。こんな子どものような考えを持っているものが私と話が合うとは思えない」と吐き捨てる。彼は額に脂汗を浮かべていた。
「もう、下がってよい」
子穂が嘆息しそうになりながら、眉間に皺を寄せ、言った。
「恐れながら、あの娘ならば! 伯山一族の紗鶴媛ならば、殿下にふさわしいとお考えなのですか⁉」
場が凍り付いた。波頼の長はうつむいている。娘の失態がどのような結果を生むのかわかっているのだ。わかっていないのは本人のみである。
国王子穂と王妃蓮彗は眉間に皺を寄せたが黙っていた。なぜならば、隣に座っている壱ノ皇子が憤怒の無表情を浮かべていることが手に取るようにわかるからである。
子孝は無表情のまま、頬杖をついた。
「それとお前になんの関係がある? あぁ、壱の試験の際に彼女の豆本を落としたのもそなたであったな。彼女を羨むならば、それ相応の努力はしてきたか? 努力もせず、利権を求める者は害悪である。今回のこと、不問に処すが、これはそなたの父が陛下のために働いてきたためと思え。そなたは最も壱ノ夫人の座から遠い女子であることを心得よ。よかったな、命拾いをして」
子孝は嶽藍の方を見た。
「娘の教育は今後の縁談にも関わってくる。甘やかさないように」
「は」と嶽藍のかすれた声がする。この場にいる面々は少なくとも、今の状態の媛では縁談を持ってこないだろう。ここから変われるかは本人次第だ。当の本人は涙目に膨れ面をしているため、今後の成長の見込みはなさそうだ。
波頼一族の壱ノ媛を大広間から出し、合格者を朝議の題材として、話し合う。今回の合格者は三名である。もちろん、紗鶴の名は入っていた。
次の内容に移る前に、子孝は子穂に途中退出の許可を求める。その理由は誰もがわかっていることだろう。子孝が伯山紗鶴に懸想していることは暗黙の了解であった。子穂は許可を出し、子孝は大広間から廊下に出た。
「よし、行くか」
待たせてあるのは、壱ノ夫人夏玉麗が生きていたころ、子穂が避難場所として正殿に与えた狭い一部屋である。しかし、その部屋にいるときは一人安らぐことができ、狭良が亡くなった後も活用していた。その部屋へ急ぐ。
彼女はその部屋で何をしているだろうか。彼はその部屋で翻訳された西の国の医学書を読んでいる最中であった。その医学書は獣の革をなめしてできた表紙であることから、彼女の興味を引いているに違いない。子孝はにやりと唇を歪ませた。
人通りがない中、そよ風が通り抜けた。その部屋は元々人通りが少ないところであるため、集中ができる場所であった。思った通り、彼女は黙々と卓に置かれた医学書を読んでいた。彼がすだれの中に入っても全く気付かないほどの集中力である。
「……っ」
彼女が息を飲むのが聞こえ、子孝はちらりとどの頁を読んでいるのか上から確認する。春画より鮮明に書かれた男女の性の器官についての頁であった。紗鶴は何を思ったのか、一息つき、書物を閉じました。彼女が一年前から春画や春本を集めて読んでいることを知っている。それでも、刺激が強かったようだ。
子孝は思わず声をかけた。
「あーあ、いいところだったのに」
彼女はその声に肩をびくりと震わせた。ぎこちなく、後ろを向くその瞬間、子孝は紗鶴を後ろから抱きしめた。
「一年ぶり。会いたかった」
彼の声はカラジに結っている紗鶴の耳に直接響いてくる。そして、子孝は彼女の耳を食んだ。嫌悪感を抱かれるであろうと彼自身、博打を売っていたものの全く拒否されず、驚きが勝る。
「しこ……でん……か……」
彼女の艶を含んだ声にどくりと血液が全身を巡った。
「私のために春本や春画読んでくれていたんだって?やらしいね、紗鶴は」
「いやらしくありませんから、さっさと手をどけてくださいませ」
冷静な紗鶴が戻ってきたため、子孝は呆れたように嘆息し、抱きしめていた腕を離した。紗鶴は後ろを向き、軽く拝礼する。
「お久しぶりでございます」
「久しぶり」
「先程は甘言と取られるようなことを申して申し訳ありません」
「後悔しているの?」
紗鶴は子孝を真っすぐ見つめた。
「いいえ、わたくしは思ったことを申したまでにございます」
「だったら、謝る必要はないさ。紗鶴の言っていることは甘言と捉えられてもおかしくないことではあるけれど、この国の女性の地位向上は必要なことだ」
紗鶴はぽかんと口を開けている。思ってもみないことだったのだろう。
「私だって、意地悪をしたくて言ったわけではないさ。だけど、あの場で言わなければ、甘言として捉えるものが今後出てくるかもしれない」
「今後……?」
「忘れているの? 私、一年前言ったよね。私の壱ノ夫人になるのはそなただよ。そなた以外あり得ない」
「いえ、ですから、最終試験は運次第ですよね。しかも、このように殿下とお会いしていることは皆様ご存じなのでしょう? 贔屓がある可能性があるという意見が出てもおかしくないと思いますが」
紗鶴の考えは最もであったが、その可能性は格段に低い。子孝は言った。
「それはないさ。運任せで決めたから前の壱ノ夫人みたいなことが起こったんだ。今回の試験の合格者には合格を知らせると共に、来年の試験の内容についても知らせるよ。もちろん、運試しも行うけどね。それに公平を期すために、今日から一年間はそなたとの連絡も断つ」
「それがよろしいかと存じます」
彼女の息をつぶしたような声に、子孝は「寂しい?」と聞く。
彼はてっきり、「寂しくなどございません!」と強気の返事が来ると思っていたのだ。しかし、彼女から得られたのはそのようなものではなかった。
「……なんで泣いているの?」
「泣いてなどおりません。泣いているとしたら、それは殿下からのお手紙が途絶えることへの嬉し涙でございます」
子孝は心躍るのを感じた。少なくとも彼女は手紙が途絶えることを寂しがっているのだ。
「好きだよ、紗鶴」
「そのようなお言葉はもったいなく存じます」
いつもなら挑戦的に見つめてくる瞳が今日は弱弱しく見えた。調子が狂ってしまったため、子孝は考えた。そして、部屋の棚やら引き出しやらをひっくり返して、朱塗りの文箱を取り出した。
「あった、あった」
そして紗鶴の手に握らせる。
「昔、参ノ妻様から頂いたものだ。私の気持ちだよ。私は本気で、そなたに惚れている。これで信じてくれる?」
彼女の瞳からこぼれる涙の量が増えた。
「も、もったいなきお言葉でございます。このような素敵な文箱も頂くわけには……」
「私があげたいからいいんだ。あげたものを返すなんて野暮なことはしないでほしいな」
紗鶴は深く深く拝礼した。
「さぁ、涙を拭いて。屋敷に帰らなければならないだろう?」
子孝の言葉に紗鶴は頷いた。塵紙で涙を抑える。
「文箱、大切にしますね」
紗鶴はふわりと柔らかく笑った。彼の殺伐とした心が解けていくのを感じた。
屋敷に帰った紗鶴を待っていたのは、参の試験の合格通知と一年後の最終試験の内容だった。その内容は、昨年の肆の試験と最終試験、そして新たな試験が組み合わさったものだという。
食事を試験官の前でする試験、金色の鋏の上に座れるかの運試しの試験、そして科試の「文筆科」と同等の試験を科すというものであった。
文筆科は下級士族が城で働くための試験である。合格者年齢の平均が三十代半ばという非常に難しい試験として知られていた。
子孝の考えに付いてこられる人間以外を、彼は壱ノ夫人に据え置くつもりはなかった。彼は共に国のために働くことのできる女性を求めていたのである。




