2:伯山紗鶴
子孝が九歳の時分、壱ノ媛照子は呉一族次期当主の呉徹へ、弐ノ媛綾子は亮一族次期当主の亮香北への降嫁が命された。両人ともに少なくとも十二歳となり、子が産める状態になるまでは城預かりとなった。
そして、国王子春が夜の国に向かったのはその三月後のことであった。祖父子春と父子穂は子春が崩御する前に長く深い話をしていたようであった。しかし、その内容を子孝は知らない。
子春が崩御する前のある日、子孝は子春の傍に呼ばれた。筋骨隆々としていた子春の体は痩せ細り、彼の死がすぐ傍まで来ていることを悟った。子春は子孝の手を握った。
「子孝、そなたは聡い。"国継ぎの皇子"のことも知っていると聞く。昔、自由にしても良いと言ったことを覚えているかね。自由というのは、外に出ることでも、国継ぎの皇子の臣になること以外にもあるのだ。国王になりたければなればよい。その方法は子穂と聞得大君となる次期王妃の弐ノ夫人が知っておろう。そなたと強い絆で結ばれている子珞であること、そして子珞を守護する神が関係している。子珞にも国継ぎの皇子以外になる選択は残されている。二人の想いが合致したならば、子穂と聞得大君を頼るとよい。そなたはよく頑張っている。息を抜きながら何事も行いなさい。ーー話は以上だ」
子春はふぅと息を吐いた。子孝は拝礼し、「陛下の御代は末代まで語られるほど素晴らしいものであると思います」と言葉を発する。それを聞き、子春は軽く笑った。
「私は凡人だよ。愛する者を守れなかった。それに、子穂が私の代を軽く超える御代にしてくれるだろう。子孝、父の治世を見て、学びなさい。それが今のそなたが最もすべきことだよ」
「はっ。ご教授ありがたく承ります」
子孝はそのまま、部屋を出た。外には子穂が立っていた。
「話は済んだか?」
「はい、父上。ご教授いただきました。自由を手にするとき、必要があらば父と聞得大君を頼りなさい、と」
「相分かった」
子穂はそう言うと子春の部屋へと入っていった。
子春が崩御したのはその次の日であったことを子孝は鮮明に覚えている。
澪子春の喪が明け、皇太子だった子穂が国王となった。皇太子の決定は子孝や子珞が未成人であることも考慮され、据え置かれた。子穂が国王になると、荒廃した土地と言われた場所に食物が生え始めた。子孝は憑き神のことを知らなかったことから原因究明に勤しんだ。
その理由は簡単なことであった。子穂の憑き神が豊穣の神 峯媛神であったからである。しかし、その理由に子孝がたどり着くことはなかった。
子穂は弐ノ夫人の書蓮彗を王妃に迎え、祖神弁財天を祭る神女をまとめる聞得大君に任命した。
そして、子孝は十歳を迎えた。十歳は彼の人生にとって、重要な出来事が待っている。彼の壱ノ夫人選びが始まるのである。
子孝は不満であった。まだ子珞が見つかっていないにも関わらず、壱ノ夫人を選ばなければならないとは。彼自身、子珞が即位した折には彼の右腕として使えたいと思っている。そのためにも、優秀な女性を子珞のために選ぶのがよいのではないかと考えていた。
「父上、私の壱ノ夫人を選ぶ必要がありますか? それよりも子珞が見つかってからでも遅くないのでは?」
すだれ越しに夫人候補を見るため、正殿の庭に面する部屋へと移動する。その最中に子孝は子穂に進言した。何度進言しても、同じ言葉しか言われないが、言わないよりは言った方がよい。
「子珞のことは今は考えなくても良い。齢が十になれば、壱ノ夫人を決め始めるのは通例のことだ」
子穂は常に同じことしか言わない。しかしながら、今回はいつもの言葉に加えて、子穂は小さく呟いた。
「私も十歳の時に同じように夫人選びを始めた」
その言葉に後悔が混じっているようだった。自分の存在に矛盾を感じ、子孝は少し寂しく感じた。
「だから、わらわにしておけばよかったというのに」
現在は王妃であるが、子穂が皇太子の時は弐ノ夫人であった書蓮彗が言った。白澪北部にある知恵の神の慶蛍照神の守護地を護る按司一族出身である。
「あの時は最後の試験の時に、黄金鋏の上に座れなかったから仕方ないだろう。こうやって、王妃にもなっているんだから良いじゃないか」
「わらわはあの参ノ妻に王妃になってもらってもよかったぞ。亡き壱ノ夫人が王妃になるよりよっぽど良い」
双方喧嘩腰になり、周りに居る官吏や女官たちが冷汗をかいている。だが、近くで見ている子孝からすると、この二人は同志に近い心意気を持っていると感じていた。
壱ノ媛をもうけており、狭良との関係も良好であった蓮彗は、狭良に対して酷く当たっていた壱ノ夫人をよく思っていなかったようである。そのため、子孝が実母玉麗と外戚を排したことを聞いた時、王妃は高笑いを響かせ、「ざまぁないわ」と言ったという。
「継母上、父上との喧嘩はそこまでになさっては?」
陛下と王妃の雰囲気に当てられた臣下から救いの目を向けられては、子孝は言うしかなかった。
蓮彗は子孝が口を挟むと、ぐるんと首を彼に向けた。真っ白な髪に朱色の瞳が彼を捉える。
「わらわは不思議でならぬ。あのわがまま娘だった壱ノ夫人から、このように秀でた長子が生まれるとはな」
子孝は確かにそうだと感じた。蓮彗からしたら晴天の霹靂だったろう。彼女はもちろん子孝が過度な折檻を母親から受けていたことを知っている。そのために、どことなく優しさを滲ませていた対応をするのは事実である。
壱ノ夫人夏玉麗や参ノ妻狭良の話を公然と話せるのも王妃蓮彗のなせる業であった。本来であれば、勅令によって禁止令が出ているため、話すことさえ叶わないのである。
「さてさて、わらわの眼鏡にかなう女子はおるじゃろうかのう、ほほほ」
子穂はため息をつき、子孝は自分のことのように思えない中、席に着いた。そして、十歳前後の士族の媛たちを集めた、夫人選びの壱の試験が始まった。チラチラと蓮彗から目線が送られる。
「私は女が嫌いです。好きになれるわけがない」
子孝は前を向いて、庭で遊ぶ女児たちを見つめた。
「まぁ、あの母親が近くにおれば、そうなることは必至だろうのう。お? なんじゃ? あの女子、豆本を読み始めたぞ」
蓮彗の指さす方向を見ると、確かに庭の池の岩に腰を掛け、豆本を読もうとする女児がいた。
「そらそら、その方、あの女子は誰じゃ?」
近くに控えていた女官に蓮彗は聞いた。
「伯山一族の紗鶴媛でございます」
「あぁ、宰相の孫か。見るからに賢そうよのう」
伯山の一族。だから、宮中で働く伯山一族の者たちに目元が似ているのか、と子孝は思った。
伯山一族特有の赤銅色の髪はカラジに結い上げられており、上品な琉城花織をまとっていた。豆本を見るその浅葱色の瞳が柔らかく微笑んだ気がした。その様子に子孝の心臓が思わず跳ねた。
夫人選びは高い地位の士族出身女児の公募制だ。公募制のため、本人の希望によって参加しているはずである。しかし、他の女児と戯れないということは『壱の試験 皆と遊ぶ』という試験内容を理解できていないのであろうか。豆本を読むなど、自分から落としてほしいと言っているようなものだ。
子孝はなぜか訳のわからない憤りを感じ、席を立とうとした。しかし、彼の腕は蓮彗の手によって止められる。
「何か揉めておるぞ。救わなくて良いのか?」
チラリとみてくる蓮彗の顔は面白いものを見たかのように笑っている。子孝はこのなんでも見透かしてくるような王妃が苦手だった。
外を見ると、他の女児たちに囲まれ、何か言われているようである。そして、豆本が彼女の手から離れ、池に落ちた。
それを見て、子孝の体は勝手に外に向かっていた。それを引き留める者はだれ一人としていなかった。外にいた女官や女児たちが拝礼していることも目に入らない。
彼は着物が濡れるのも気にならず、池に入る。池の水は冷たかったが、さすが正殿の池の水であった。美しく掃除されている。良い仕事をしてくれている。そんなことを思いながら豆本を拾った。
そこで、彼は気づいた。どう渡す? どう渡せばいい?
子孝は若干思考が低下していた。傍で見る伯山紗鶴はとても美しかった。室内で大切に育てられたであろう優しい色の白い肌。赤銅色の髪はつややかであり、同じく、紅に塗られた唇はぷくりとしており、やわらかそうである。
よこしまな考えを起こしてしまったことを恥じ、彼は手元の豆本に目をやった。濡れた豆本を着物の袖で拭うと、その表紙に書かれた題字が滲んて見えた。
『今上悲恋語』
その題字を見て、思わず胸が鳴った。そして相当読み込まれている状態なのも、胸を高鳴らせる。
その豆本は、父王と参ノ妻狭良との悲恋物語が書かれたものだった。離宮が火に包まれ、父上が禁止令を出されるまでの短い間に発売されたものである。
流通されているもの自体が少なく、持っている者が少ないことは知っていた。子孝も2冊しか持っていない。彼にとって、子穂と狭良の恋愛は理想だったために、手に入れていた。もう少し余分に買っておきたかったが、手に入れられたのは2冊のみだった。
子孝は唖然としている紗鶴に豆本を差し出した。
「はい、大切な豆本だったんでしょう。私も持っているものだから、今度乾いたものを送ろうか」
彼は『優しい皇子』であることを心掛けた。無論、今回は優しく言えたはずである。それに対し、彼女は眉をひそめて迷惑そうな顔を見せた。
「いえ、あと二冊持っているので結構でございます」
今度は子孝が唖然とする番であった。この本をあと二冊も持っているだということに驚いた。計三冊持っていることになる。
言葉とは裏腹に、紗鶴は豆本を受け取ると、着物の袂にしまった。
「でも、ありがとうございます。大切なものだったので助かりました」
優雅な拝礼を受け、彼は「あぁ」と呆けた顔で言ってしまう。池から出、濡れた着物を絞っていると、女児たちは解散となり、場所を移動させられた。他の女児たちがちらちらと盗み見をする中、彼女はその後、一度も私の方を見ずに帰っていった。
子孝は紗鶴を振り向かせてみせたい、とそう強く思った。




