1:照子のお相手
子孝はこぶしを握り締めた。自分でもわかっていたことだと思いつつも、これほどまでに夏家の力が強いとは思ってもみなかった。
外戚夏家と壱ノ夫人である夏玉麗を弾劾して半年が経つ。弾劾から一月が経った頃はなりを潜めていた上級士族たちは、日が経つごとに段々と子孝の存在を軽く扱うようになっていった。
最近では、壱ノ媛照子を担ぎ上げようとする輩も出てきているようである。
「ふぅ」
静かになった御内原の一室で、子孝は思わず嘆息した。壱ノ夫人の部屋はもぬけの殻になっており、半年前の華美な家財道具は何一つない。しかし、子孝の耳には、まるでそこに壱ノ夫人がいて、叫んでいるような気に陥っていた。
謁見の間として使われるようになった今でも、時折子孝はこの部屋を訪ねることがあった。
「気が滅入るな」
「何が『気が滅入る』じゃ。妾の方が気が滅入るわ」
声を聞かなくてもわかる。壱ノ媛 照子である。彼女は入口にかけてあったすだれを豪快に開け、部屋に入った。
「兄妹とはいえ、部屋に入ってくるのはどうかと思う」
つくづく常識がなっていない異母妹だと、子孝は思わず嘆息しかける。しかし、それは照子の声によって塞がれた。
「謁見の間だから良いのじゃ!それに、妾は好いた男がおる。だから、妾が父上の後を継ぐなどという怪しからん考えは、さっさともみ消してしまいたいのじゃ!」
「はぁ⁉」
彼は照子の言葉に思わず、素っ頓狂な声を出した。
「兄上がろくでなしだから、怪しからん考えが出てくるのじゃ。馬鹿者!」
照子の声が部屋に響き渡り、青い空へと消えていく。
「この半年間、自分のことをおざなりにして、子珞のことばかり考えておったじゃろう! うすのろ! とんま! その尻ぬぐいはすべて妾がしてきたのだぞ!」
照子の言っていることに間違いはなかった。この半年間、子孝は子珞の行方を捜していた。そのために、内政や上級士族、按司の動向について以前に比べて目がいっていなかった。そして、"国継ぎの皇子"はそもそも子珞のほうなのである。子孝は国継ぎの話についてはあまり興味を持って考えていなかった。
「面倒をかけたな」
「ほうじゃ。だから、兄上への叱咤とこれからのことについて作戦会議をするためにここに参ったのじゃ」
腕組をして堂々と立っている照子は、さすがはあの夫人の娘と言えようか。子孝は自身の行動に少なからず恥を感じた。
照子は子孝と真正面に向かい合うと、その場に座る。そして、この半年の琉城士族、按司の動きを子孝に伝えた。
四高士族の伯山一族、波頼一族、呉一族、亮一族は何も反応がない。按司はほとんどが子孝の味方と言っても過言ではない。半年前の外戚弾劾によって興味を持ったようだ。上級士族は徐々に照子の支持層が増えつつあるという。中級士族は子孝と照子の半々の状況である。
「妾は兄上か子珞が父上の後を継ぐようになってほしいゆえ、父上に妾と綾子の縁談先をさっさとまとめてくれるように進言するつもりじゃ」
子孝はぽかんと口を開けた。彼女は何を言っているのだろうかと。皇子の壱ノ夫人選びでさえ、十歳から三年かけて行われ、婚約となり、十六歳の成人の儀で婚礼となるのだ。
照子は現在八歳であり、綾子に至っては七歳にもまだなっていない。
「あまりにも早すぎじゃないか?」
心配から出た言葉に、照子は呆れた目を子孝に見せた。
「兄上は完璧で、冷徹な面が多いと感じておったが、それは間違いだったようじゃな。甘い。甘すぎる。余計な芽は早めに摘んでおくのが良いじゃ。妾と綾子が残っておれば、年齢を重ねるごとに派閥は変化してくるであろう。今は生死のわからぬ子珞のことを考えるより、目の前のことを考えることが先決であると思わぬか?」
「子珞は生きている」
子孝は確信を持って言った。なぜなら、国継ぎの皇子である子珞が亡くなった場合、父の子穂に何かしらの動きがあるに違いない。また、天災も多く起こり始めると聞く。
照子は顔に手を当てた。
「わかっておる。兄上は特別子珞に目をかけていたからな。だが、陛下が夜の国に行かれる前にことを収めておきたいのじゃ」
彼女は夜の丘の話をする際、声を潜めた。
「実際、兄上も妾も見ての通り、陛下の状態が悪い。陛下が夜の国にお隠れになれば、喪に服さねばならず、宴会が開かれよう。そうなれば、少なくとも一年半は縁談の話はできなくなるに違いなかろう。今しかないのじゃ」
白澪国では国王が夜の国に隠れる、すなわち崩御すると、神の一員になったと祝い、宴会が開かれる。それが、亡者への餞なのである。
子孝は思案した。照子の言っていることは最もである。この半年間、内情を知っているがゆえの選択をしていたが、周囲で子珞が国継ぎの皇子と知っているのは微々たる者たちであろう。照子でさえ、国継ぎの皇子の話は知らない様子である。子孝は子珞が見つかるまでの隠れ蓑となることを決心した。それが最適な選択だと判断したためである。
「わかった。私の方でも動いていこう。……それで、そなたが懸想している相手というのは誰なのだ?」
照子はあからさまに目を泳がせた。先程まで威勢の良かった彼女であったが、急にしおらしくなる。
「い、いや。あのだな、それは後でのお楽しみということでどうじゃ?」
子孝は首を横に振る。「それはできないな。どんな者かは兄として知っておかねば、父上に突拍子もないことを進言しても困るだろう」
彼女は押し黙った。その時、すだれの外から、少年の声が聞こえた。
「殿下、御用でしょうか」
その声に照子がびくりと体を揺らした。その様子の変化から子孝は感づく。
「まさか……」
「そ、そのまさかだから、兄上には知られたくなかったのじゃ! 妾は帰るぞ。もう話は終わった」
顔を真っ赤にした照子が勇み足にならないように恐る恐ると、声がした側ではない方のすだれから出ていく。
子孝は「徹、入れ」と声をかけた。
子孝の部屋に入ってきたのは、四高士族の一つ、呉一族の次期当主の呉徹であった。彼は子孝の三歳年上であるが、六歳の時に朝議に出ることが叶った際に、子穂から付けられた傍仕えである。今では彼の右腕であり、諜報部隊をまとめ上げている。
徹は深い藍色の髪をきっちりとまとめ上げ、片眼鏡をかけている。
「用事の前に聞きたいことがあるのだが」
徹は表情を変えずに子孝に頭を下げる。
「は」
「照子に懸想しているかい」
徹の耳が微かに動いた。
「懸想、でございますか。恐れ多いことでございます」
「はい、嘘は言わないこと。徹は嘘を言う前に耳を動かす癖があるんだよ」
徹の顔がこわばる。王族へ懸想しているなどとは正直に言えるものではあるまい。
「照子が降嫁を進言すると言い出すものだから、兄としても気になるんだな。徹は俺に嘘つかないよね?」
正直に話せと子孝が徹に圧をかける。他者であれば卒倒するような少々の圧では徹には効かないが、今回のことはまた違ったようだ。彼の額から汗が滲み出、頬を伝い、顎から畳に汗が落ちた。
「別に私は怒るつもりないもないし、照子と徹が婚姻を結んだら、私としても嬉しいなとは思っているのだけれど」
「左様でございますか⁉」
顔を勢いよく上げた徹の顔を見て、子孝は久々に腹の底から笑った。彼が見た徹は常に冷徹な仮面を被っているようなものではなく、目尻を赤くして、今にも泣きそうだったのだ。
「二人が懸想し合っているのはわかった。婚姻したら白澪最強の夫婦になるな」
「笑わないでください」
腹を抱えて笑う子孝に徹は軽く嘆息した。




