34.わたくしたちの勝ち、ね?
そして、草原にいた人間たちは見た。令嬢の後ろに控えていたメイドが、その細い体からは想像できないほど高く跳び上がり、どこからともなく剣を抜いたのを。
それと同時に、メイドの姿が薄れ、消えていく。その下から現れたのは、白金の髪に紫の目の、凛々しい青年。
彼は両手でしっかりと剣を握りしめ、跳躍の勢いを乗せるようにしてベルストに斬りかかる。
ぎいん。
どうしてここにルシェンタ王子がいるのか分からないまま、それでもベルストは無意識のうちに自分の剣を抜き、ルシェの剣を受けた。
「退け、ベルスト! 私は絶対にここを、ディディのそばを離れない!」
なおも激しく打ち込んでくるルシェの剣を防ぎながら、ベルストは答える。
「ルシェンタ殿下、あなたも王太子であるのなら、その立場にふさわしい責任を果たされませ! そしてそれは、このような田舎で引きこもっていることではないでしょう!」
ベルストの叱責に、ルシェが一瞬暗い顔をする。しかしまたすぐに、彼はきりりと表情を引き締めた。
「ああ、私のこのふるまいは、王太子としてふさわしくない。だがここで大人しく王宮に戻ったところで、私はまともな王にはなれない!」
そんな打ち合いを、ディディはすぐ近くで見守っていた。彼の言葉の一つたりとも、聞き漏らすまいとしているかのような表情で。
「私はここに来て、たくさんのことを知った。以前の自分が、いかに愚かで、視野が狭かったのか思い知らされた!」
いっそ力任せといってもいいほどに乱暴に、ルシェは剣を振り回す。しかしそれでいて、彼の太刀筋はひどく冷静で、隙のないものだった。
かつて彼と幾度も手合わせをした経験のあるベルストは、彼の変化に驚きを隠せなかった。
「もう、以前の私には戻りたくない! そのためなら、王太子の座もいらない!」
その言葉に、辺り中からどよめきの声が上がる。しかしルシェは全く構うことなく、さらに声を張り上げた。
「ベルスト、父上に伝えてくれ! 私は、王太子の地位を返上すると! どうぞ遠慮なく、弟たちを王太子に指名してくださいと!」
あまりに突拍子もない言葉に、常識人であるベルストが身をこわばらせる。ルシェはその隙を狙って、ベルストの手元を柄でぴしりと打った。
そうして、ベルストが剣を取り落とす。ルシェが蹴り飛ばしたその剣を、いつの間にか近づいてきていたリックとリタが確保した。
「……負けを認めてくれ、ベルスト」
弾む息を整えながら、ルシェは剣をベルストに突き付けていた。ベルストは驚き、そして一瞬だけとても優しい表情をしたものの、すぐに厳しい顔をしてうなずいた。
「ああ、やっと終わったわ……」
元通り隊列を組んで遠ざかっていく王国兵たちの姿を見つめながら、ディディがどっと疲れた様子で息を吐く。
「みんな、お疲れ様。わたくしたちのせいで迷惑をかけて、ごめんなさいね?」
彼女が町の人間たちに呼びかけると、謝らないでください、ディディ様のためですから、王国兵に一泡吹かせてやれてすっとしました、などという明るい返事が次々と飛んできた。
その優しい声に、彼女は目を細める。そうして満面に笑みを浮かべると、また声を張り上げた。
「分かったわ。みんな、ありがとう! また何かあったら、よろしくね!」
謝罪から感謝へと変わった言葉に、町の人間たちもさらに嬉しそうに叫ぶ。勝利の余韻に、みな浮かれているのは確かだった。
大声で話しながら、町の人間たちがてんでに町に戻っていく。
ディディは微笑みを浮かべて町と人々を眺めていたが、やがてゆったりと歩き出した。
そんな彼女に、そっとリタが付き従う。さらにその隣にリックが並んだ。少し遅れて、サリーとジョイエル。一番後ろを守るように、ゼストとレストとシストがついていく。
ああ、女王の帰還だ。ディディたちの背中を見つめていたルシェの頭の中に、そんな言葉がふっと浮かぶ。そうして彼は、軽やかに走り出した。仲間たちを追い抜いて、先頭のディディを目指して。
息を弾ませ、彼はディディの隣に駆け込む。すぐ近くにいるリタがちくちくとした視線を向けてくるのにもお構いなしに。
「……ディディ。私のわがままを聞いてくれてありがとう」
「いえ、いいものを見せてもらったわ。見事だったわよ、太刀筋も、言葉も」
彼女の素直な称賛に、ルシェがぽっと頬を染める。嬉しさを隠せずにくすぐったそうに笑い、それからためらいがちに告げた。
「実は、ベルストに勝てたのは今回が初めてなんだ。何度手合わせしても、いつもいいようにあしらわれてしまって」
それを聞いて、ディディが無言のまま目をむく。呆れた、負けたらどうするつもりだったの? と言わんばかりの顔だ。
そしてその思いを聞き取ったかのように、ルシェはよどみなく言葉を続けた。
「負ければこの町と、君と引き離されてしまう。そう思ったら、いつも以上に動けた。……守りたいもの、譲れないものがあるというのは、こんなにも違うのだな」
「……やっぱりあなた、結構単純ね。だからなのかしら、今日は無茶してばっかりで。崖は登るし一騎打ちはするし」
「それだけ必死だったんだ」
「そうみたいね」
二人はそのまま、口をつぐんでしまう。ゆったりと歩きながら、同時に視線を上げる。雲一つない、気持ちよく晴れた空が広がっていた。
やがて町に戻ってきたディディたちだったが、まだまだゆっくりと休むという訳にはいかなかった。
王国兵たちを追い払うために壁を作り、小石を投げ、かゆみの粉を盛大にぶちまけた。壁はともかく、粉を放置しておいたら、町中に広がってしまいかねない。小石も片付けておかないと、荷車が通りづらい。
「子供たちは小石拾い、女性たちは拾った小石を運び出して! 男たちは、わたくしと一緒に水くみよ!」
町に戻るなり、ディディはそうやって指揮を執っていた。かゆみの粉は水に弱いから、たっぷりの水で洗い流してやればいい。
しかし町の共同井戸から水をちまちまくみ上げるのも面倒だと言って、彼女は転移の魔法で下の谷川からどんどん水を運び始めた。実のところ、男たちよりもずっと、彼女は役に立ってしまっていた。
「……彼女は、他人に力を貸すことをいとわない、親切で立派な女性なのだな」
作業の合間にぽつりとつぶやいたルシェに、近くにいたリックが答える。
「はい。おまけにとびっきりのお人よしです。だからこそ俺たちは、こうやってこの町にいるんでしょうね」
「……そうだな」
相槌を打ったルシェは、まぶしいものでも見ているかのように目を細めていた。彼の視線の先には、てきぱきと動き回っているディディの姿があった。
そうして、王国兵を追い払ってからしばらくして。キスカの町にすっかり平穏が戻り、ディディたちも以前と同じようにのんびりと過ごしていた、ある日。
呆れるほど豪華な馬車がやってきて、屋敷に一通の手紙を置いていった。そしてそのまま、すぐに帰っていってしまった。
屋敷の面々の心配そうな視線を受けながら、ディディは手紙を開封する。差出人はディディの父親、シャイエン公爵となっていた。
「『陛下より、その地をお前に分け与えよとの命が下った。ふん、そんな田舎などくれてやる。どのみち、お前はもう我がシャイエンの一族と呼ぶにふさわしくない。一生その田舎で、思う存分好きなように暮らせ』……ですって」
ディディは驚くほど淡々と、その手紙を読み上げていた。




