29.覚めるのが夢だから
キスカの町の、丘の上。そこに建つ小さな屋敷は、今ではすっかりにぎやかになってしまっていた。
めいめいがそれぞれに、ここでの暮らしを楽しんでいた。少しでも長く、できることならずっとこの生活が続いて欲しいと、ディディはそう思っていた。
それがかなうことのない、儚い願いであることを、心の片隅で理解してはいたが。
「大変です、ディディ様!」
リックが足音も荒く、屋敷の中に駆け込んできた。
彼は今でも、空き時間ができると精力的に町の周囲を探索していた。そして最近では、町の東にある高い山にまで足を運ぶようになっていた。ディディに手伝ってもらって町のある山と東の山との間に綱を張り、谷を渡って素早く行き来しているのだ。
「どうしたのかしら、リック。そんなに血相を変えて」
「いえ、さっきまで東の山のてっぺんで、周囲を見てたんですが」
息を整えながら、リックは手にした遠眼鏡を掲げてみせる。先日ジョイエルとアンガス伯爵に頼んで手に入れた、高性能のものだ。
彼の様子に何かを察したのか、ディディがすっと目を細める。
「……もしかして、ついに来たのかしら」
「はい。王国兵が数十名程度、兵器のたぐいはありません。ただ、まだ後続がいる可能性はあります」
「距離は?」
「騎馬は見当たらなかったので、到着まであと一日程度かと。ただ、明日の朝になれば町の人たちもあれに気づくと思いますよ」
リックの報告を聞いて、ディディが考え込む。
「町を威圧するには、十分すぎる数ね……そうなる前に、対応を決めないと……」
そんなディディに、リタがそっと声をかけた。
「近づかれる前に、どうにかして追い返しますか? リックと三兄弟をうまく使えば何とかなると思いますが」
「気軽に言うなよな、リタ。……まあ、ディディ様がお望みなら努力します」
明るく言い放つリタと、肩をすくめるリック。ディディはそんな二人を交互に見て、小さくうなずいた。
「そうね、それも一つの手として取っておきましょう。ただ、まずはみんなの意見を聞いておかないと」
その少し後、いつもの面々が居間に集められていた。
「……と、こういうことなの」
ディディとリックの説明を聞いたみなの顔色は、一様に優れない。
「あなたは分かっているわね? どうして、こんな状況になっているのか」
いつも通りに落ち着き払った様子で、ディディがルシェに呼びかけた。ルシェは目を伏せたまま、小声で答える。
「……ああ。おそらくその王国兵たちは、私を連れ戻しにきたのだろうな」
町の人間がどれほど慣れっこになっていようと、王太子が田舎の町で供も連れずに暮らしているというこの状況が、とんでもない異常事態であることに変わりはない。
「この町の、君たちの平穏な暮らしを守るためには、今すぐ私がここを出るのが正しいのだと、そう思う」
ぼそぼそとつぶやいていたルシェが、ふっと顔を上げる。
「だが、わがままだと分かっていても……私は、ここにいたい。だから一度でいい、彼らを説得させて欲しい」
彼の目には、力強い光がきらめいていた。彼は周囲の仲間たちを見渡し、一言一言を噛みしめるようにして告げる。
「しかし私一人で彼らのもとに出向いたなら、有無を言わさずに連れ戻されてしまうだろう。だから、どうか……みなの力を貸してもらえないだろうか」
リタが、リックが、サリーが、ジョイエルが。そして、ゼストとレストとシストが。ルシェの視線を受け、うなずく。
ディディが明るく笑って、声を張り上げた。
「……ですって。サリー、ジョイエル、さっそく動いてもらえるかしら。現状について町の人たちに伝えて、反応を見てきてちょうだい」
彼女の不思議な提案に、みながわずかに首をかしげる。ディディは涼しい顔で、さらに言葉を続けた。
「その内容いかんによって、わたくしたちの出方も変わるから」
それを聞いたサリーとジョイエルが、すぐさま屋敷を飛び出していく。この後の事態に想像がついたのか、二人の足取りはどことなく軽やかだった。
その少し後、いつもは静かなキスカの町は、まるで祭りのようににぎわっていた。男たちはあちこちから大きな板や木材を集め、町の外で竹を伐り出してきた。
アンガス伯爵との取引で潤った今の町には、製材された板や木材が豊富にあった。リックが思いもかけないところで生い茂っている竹藪を見つけ、その活用法を町にもたらしていた。
そうしてリックの指揮のもと、男たちは町の正面側に板を並べ、木材や割った竹で補強していった。この作業において、力の強い三兄弟は大いに役に立っていた。
やがて、頑丈な壁のようなものが少しずつ姿を現し始めた。要するに彼らは、王国兵の到来に備えて防壁を作っているのだった。防壁のところどころに隙間が作ってあるのは、いざという時そこから石を投げたり矢を射たりするためだ。
女子供はディディと共に谷に降り、片手でつかめるくらいの小石を集めていた。これは当然ながら、王国兵の迎撃用だ。
おそらく王国兵は、町の正面側、南の草原に布陣する。というより、そこにしか布陣できない。町の東西は谷で、北側も崖なのだ。
そして町は、その草原よりも高いところにある。だから、もし王国兵が攻めてきたとしても、坂の上から迎撃できるのだ。小石を下向きに投げるのは比較的簡単だし、威力も増す。それに、投げ手の安全もそこそこ確保できる。
一方リタは町の女たちを率いて、食料や貴重な品などを屋敷に運び込んでいた。王国兵が略奪のようなまねをする可能性は低いが、それでも混乱に巻き込まれて壊れたりなくなったりする可能性はある。
ジョイエルは近くの村や町を回り、必要なものを買い付けにいっていた。万が一籠城戦になった場合に備えて、食料などを集めにかかっていたのだ。
「みなは、優秀だな……それぞれの力を生かして、見事な働きをしている……」
子供たちをあやしながら、ルシェがつぶやく。彼はサリーと一緒に、子供たちの相手をしていたのだった。男も女も忙しくなってしまったので、急遽子守りが必要になったのだ。ちなみに、美形のルシェは女の子たちに人気だった。
「はい、わたしもそう思います。……けれどそれを言うなら、ルシェ様もそうですよ」
男の子たちにきらきらした目で見つめられながら、サリーがおっとりと微笑んだ。
「あなたはいつも一生懸命で、その姿は人の目を惹きつけるんです。この方に力を貸したいな、と思わせる何かを感じさせるんです。だからこそ町の方々も、こうやって立ち向かうという決断をされたんですよ」
ルシェはちょっぴり暴走気味で危なっかしいから、ついつい世話を焼きたくなるのよね。ディディはかつてサリーにそう語っていたのだけれど、サリーはその点については触れることなく、澄ました顔で答えていた。
「……そうだろうか。そうなら嬉しいが」
はにかむルシェの袖を、女の子たちがつかむ。
「ルシェさま、おままごと、しようよ!」
「わたし、ルシェさまのおくさんのやく! ルシェさま、かっこいいもん!」
「あ、ずるい! わたしもおくさんがいい!」
「じゃあ、みんなでおくさん!」
「それ、すてき!」
「……誰が正室なのか、などと尋ねたら混乱するのだろうな……いや、そもそもままごとなど、どうやればいいのか……」
「はい、ルシェさまはこっちすわって!」
「いま、ごはんをよういするからね!」
困惑し切った顔で、それでもルシェは女の子たちのなすがままになっている。
「ふふ、愛されてますね」
男の子たちから手渡されたおもちゃの弓矢を構えつつ、サリーがくすりと笑った。
そうやって町の人間たちが懸命に準備を整えた、次の日。
遠くから近づいてくる王国兵の影を、町の人間たちは固唾を呑んで見つめていた。女子供は屋敷に避難させ、男たちもいつでも物陰に逃げ込めるよう身構えて。
やがて、王国兵たちは町の南の野原に整列した。町と、少し距離を置いて。彼らを率いているらしい豪華ななりの中年男性が、ゆったりと進み出てくる。
町の中、防壁のすぐ内側。そこでルシェは、力いっぱい叫んだ。町に向かって歩いてくる男性に向かって。
「ベルスト、お前が来ていたのか!」
「お久しゅうございます、ルシェンタ殿下。陛下からの命を受け、我らはここに参りました。『何があろうと、王太子ルシェンタを連れ戻せ』と」
必死にがなりたてるルシェとは裏腹に、ベルストと呼ばれた男性は落ち着き払っていた。
「いいや、私は戻らない! どうか、兵を引いてくれ!」
「殿下が戻られないとごねるのであれば、少々荒っぽい手を使ってもよい。陛下はそうもおっしゃっておられました」
ベルストが合図すると同時に、彼の背後に控えた王国兵たちが腰の剣に手をかけた。
もちろん、これはただの脅しだろう。だがそれでも、町の人間たちの間にざわめきが走った。
肩を震わせるルシェ、薄気味が悪いほど穏やかなベルスト。そして、戸惑う町の人間たち。
「……もう、いいでしょう。ルシェ、あなたはあなたのいるべき場所に帰りなさい」
ルシェの後ろ、少し離れたところにたたずんでいたディディが、ふとそうつぶやいた。どことなく、寂しげな顔で。
「甘い夢は、いつか覚めるものなのよ」
そう言って、ディディがすっと指を動かす。ルシェの姿がふっとかき消え、次の瞬間、彼は王国兵たちのただ中に立っていた。




