23.二人だけの秘密
そうして、その日の夜。もうリタも自室に下がり、ディディは一人のんびりと本を読んでいた。
とても静かな、穏やかな夜。と、こんこんと扉を叩く音がした。ディディが顔を上げると、抑えたささやき声が聞こえてくる。
「少し、いいだろうか」
それは、ルシェの声だった。ディディは一瞬ためらって、読みかけの本を置く。
「ええ、どうぞ」
返事をした次の瞬間、ルシェがそっと部屋に入ってくる。
「どうしたの、こんな夜遅くに」
「話したいことがあるのだ。……その、君と二人だけで」
恥じらうように目を伏せるルシェに、ディディがこっそりと目を丸くする。本当にこの人、変わりすぎよねえ。こんな表情、初めて見たかも? そんな言葉を、心の中だけでつぶやきながら。
「ひとまず、そこに座って。立ち話もなんだから」
そう言いながら、ディディは部屋の片隅に置いてあるテーブルに歩み寄る。二つある椅子の片方に腰を下ろし、もう片方の椅子をルシェに勧めた。
「今朝がたのことだが……突然やってきた私を受け入れてくれて、感謝する」
優雅な身のこなしで椅子に腰を下ろすと、ルシェはすぐさまそう言って頭を下げた。
「受け入れたというより……あそこで押し問答していても仕方ないって思ったからであって……なりゆきというか、若干不本意というか……追い払うのに失敗しただけというか……」
今朝、眠気のせいで判断を誤ってしまったことを思い出し、ディディが複雑な顔になる。そして、さらに別のことをも思い出したらしく、力なく首を横に振った。
「それはそうと、あなたが連れてきた兵士を全部まとめて追い返してしまうなんて、思いもしなかったわ。てっきり、最低限必要な人数は残すと思ったのだけど」
朝、どうにかこうにかルシェとの話し合いを終えたディディは、眠気に負けてさっさと自室に戻ってしまった。転移の魔法で、一瞬にして。
だから彼女は、その後に起こった騒動を知らなかった。
町の入り口で、堂々とこの町に残ると宣言したルシェ。そんな彼を、当然ながら王国兵たちは全力で止める。どうかお考え直しください、王都にお戻りください、と。
町の人間たちとリックたち――リタだけは、ディディを追いかけてすぐに屋敷に戻っていった――がはらはらしながら見守る中、ルシェと王国兵たちは言い争い続けていた。
王国兵たちは、生きた心地もしなかった。突然田舎に向かうと言い出した王子を守るだけでも神経をとがらせていたのに、その王子が何を思ったか、ここで暮らすなどと言い出したのだから。
普段の王子はとても真面目で責任感のあるお方だ。こんなとんでもないことを言い出すとは、もしかしたら連日の執務でお疲れなのかもしれない。王都に戻られたら、ご静養を進言しようか。王国兵たちの頭の中にはそんな考えが飛び交っていた。
しかしルシェは、彼らのそんな動揺をものともせず、頑としてその場を離れようとしなかった。それどころか、いつになくすがすがしい表情で言い切った。
「私はここに留まる。王子としてではなく、ただのルシェとしてだ。そんなことに、君たちを付き合わせたくはない」
「ですが、殿下……」
「君たちは王宮に戻り、父上に伝えてくれ。『私は、この目で真実を見極めてきます』と」
そう言って微笑んだルシェの姿は、不思議なことに今までで一番、王者にふさわしい風格をたたえていたのだった。
そんな朝のやり取りを思い出しながら、ルシェが静かにつぶやく。
「君は、メイド一人だけを連れてここに来たと聞いている。ならば私も、それにならうべきかと思った。……そうすれば私も、君と同じ世界を見ることができるのではないかと、そんな気がした」
彼の言葉に、ディディが目を丸くする。
「それだけのために、たった一人で? あなた、学問も武術もできるけれど、下々のあれこれについては疎いじゃない。……まあ、わたくしもだけれど。ここになじめないんじゃないか、うまくやっていけないんじゃないかって、そう思わなかったの?」
「君が、ここに私を置いてくれる。それだけで十分だ。足りないところは、努力で補おう」
「……前向きねえ」
ちょっぴり呆れ気味に肩をすくめるディディ。ルシェはそんな彼女に、さらにささやきかける。
「……それにこの町には、仰々しい兵士たちは似合わない。ならば君の自由な暮らしにも、やはり彼らの存在はそぐわない。そう思ったのだが……違っただろうか」
「違わないわ」
思いもかけない気遣いに、ディディがくすぐったそうに笑う。
「ここは田舎過ぎて、賊なんてまず出ないらしいのよ。……町の中にごろつき、というか鼻つまみ者はいたけれど、それはわたくしが更正させてしまったみたいだし」
彼女は言葉をぼかしていたけれど、ルシェはそれがあの三兄弟のことだとすぐに気づいていた。
「獣はしょっちゅう出るけれど、危険なものはそうそういない。……もっとも、こないだ大きなイノシシを狩る羽目になったけれどね」
「その時の話が聞きたいと、朝からずっとそう思っていたんだ。今日、町の人の話を聞いて、その思いが強くなった」
「……そんなに面白い話でもないわよ?」
そう答えはしたものの、ディディは先日のことを丁寧に語って聞かせた。ルシェは目を丸くして話に聞き入り、ディディが自らおとりを買って出たくだりでは、すっと青ざめていた。
彼とこんなに楽しく話したのって、思えば初めてのことね。そう思いつつ、ディディは話し続けていた。
「と、そういえばあなた、何か用事があってここにきたのではないの?」
話も一段落ついたところで、ふとディディがルシェに問いかける。
「ああ、そうだった。……その、私の待遇のことなのだが」
ルシェはきゅっと眉を寄せて、少し不満げな表情をした。
「……あまりに厚遇されてしまっていて……これではとても、犬とは呼べないような……その、もっと適当な扱いをされるかと、覚悟はしていたのだが……」
いたって生真面目に、彼はそんなことを言っている。ディディは鮮やかな青い目をこれでもかというくらいに見開いて、彼をじっと見つめていた。先ほどのまでの楽しくも穏やかな空気は、丸ごと吹き飛んでしまっていた。
そのまま、ディディは黙り込んでいる。やがて、頭を抱えてしまった。それから、髪をくしゃくしゃとかき回し始めた。寝る前だったということもあって結っていなかった髪が、あっという間に乱れてしまう。そんな様を、ルシェはぽかんとした顔で眺めていた。
「もういいわ、わたくしの負け!」
テーブルにぱんと両手をついて、ディディが小声で叫ぶ。
「このぶんだと、あなたを追い払うのはもう無理みたい。それに、あなたがここに滞在することは町の人たちにも知れ渡っちゃたし……いいわよ、もう。普通にしていて」
ディディがそう宣言すると、ルシェはなぜか残念そうにつぶやいた。
「いや、私はいいと思うのだが……君の犬というのも」
その言葉に、ディディが身じろぎして後ろに下がる。信じられないものを見るような目で、ルシェのことを見ながら。
「……もしかしてあなた、そういう趣味があったの? こう、誰かに隷属することに快感を覚えるような……」
「別に、趣味嗜好のたぐいはいたって普通だと思っている」
きっぱりと答えてから、唐突にルシェがはにかむ。
「ただ……君と特別なつながりができたようで、嬉しかったんだ」
次々飛び出してくるとんでもない発言に目を白黒させているディディを見て、ルシェがちょっと寂しげに続けた。
「だが、どうやら私は君を困らせているらしい。だから、もう犬だなんだということについては表立って主張しないことにする。その代わり、一つわがままを言ってもいいだろうか」
「わがままって、何かしら……?」
「……私が君の犬であるという、証が欲しい。私たちだけが分かる、そんなものが」
またとんでもないお願いが出てきたわ、などと思いながら、ディディは大急ぎで釘を刺す。
「その証だか何だかをあげたら、もう犬だとかそういうことは言わない? あれ、わたくしも聞いていて恥ずかしいのよ」
「ああ、もちろんだ」
即答するルシェに、ディディはまだ難しい顔をしたまま立ち上がった。
「だったら、さっさと探してしまいましょう……ぱっと見それっぽくなくて、でもわたくしたちには何となく通じるもの、そういうものよね」
ディディの独り言に、ルシェは期待に輝いたまなざしを向けていた。そんな彼からそっと視線をそらしつつ、ディディは室内を見渡す。そしてふと、あるものが彼女の目に入った。
「じゃあ、これならどうかしら」
彼女は小机の引き出しを開け、何かを取り出した。それは、彼女の目と同じ鮮やかな青をした細いリボンだった。小さなビーズがたくさん縫いつけられていて、光の加減できらきら輝いている。
「犬なのだから……こうね」
もう夜遅いということもあって、ルシェはくつろいだ格好をしていた。ゆったりとまとったシャツの首元に、ディディが手を伸ばす。
そうして彼女は、彼の首にリボンをするりと結んでしまった。
「あら、中々似合っているわよ、首輪。……なんてね。邪魔でしょうから、適当に外しておいて」
「ありがとう、ディディ! 大切にする! ……っと、うっかり大きな声が出てしまった。それでは私は、そろそろ失礼する。夜分遅く、長々とすまなかった」
この上なく嬉しそうな笑みを浮かべて、ルシェが部屋を出ていく。その足取りは軽く、弾んでいた。
「あの人、あんな感じだったかしら。調子狂うわ、ほんとにもう……」
部屋で一人、ディディがぼんやりとつぶやく。彼女は無意識のうちに人差し指をくるくると動かし、長い髪を巻きつけていた。




