21.仮面を脱ぎ捨てて
寝室を出て、応接間に向かったディディ。そこで彼女は、奇妙な光景を目にすることになった。
部屋の片隅で、椅子に座るでもなく壁にもたれているルシェ。周囲に、王国兵の姿はない。
「……こんなところで、何をしているの?」
戸惑いがちに、ディディが小声で尋ねる。ルシェは彼女にまた会えたのが嬉しいのか、花のほころぶような笑みを浮かべて答えた。
「君のメイド……リタ君により、私はこうやって屋敷の中まで招き入れてもらえた。だが、犬がうかつにふらふらすると、周囲に迷惑をかけかねない。だからこうして、じっとしていた」
犬なんて言い出したのは失敗だったわねえ、とディディは心の中で盛大にぼやく。まさか、ルシェがこんな行動に出るとは。
しかし、言ってしまったものは仕方がない。それに、いつか犬扱いに嫌気がさして出ていってくるかもしれない。
ディディがそう自分に言い聞かせていたら、またルシェが口を開いた。
「そうだ、君に尋ねておきたいことがあったのだ。私は君の犬なのだから、これからは、『ディディアルーア様』か『ご主人様』とでも呼ぶべきだと思う。どちらがいいだろうか」
真顔で恐ろしい提案をされてしまったディディが、頭を抱えてうなる。どんどんおかしなほうに話が進んでいくわと、そう考えながら。
「……この上なくいたたまれないから、止めてちょうだい。『ディディ』でいいわよ」
「……いいのだろうか?」
ルシェの顔が、ぱっと輝く。彼は、彼女を愛称で呼んだことがなかった。何といっても、彼は王子なのだから。他の貴族たちの手本となれるよう、常に行動を律していなければならなかった。
しかし今の彼は、犬だ。それなら、多少の不作法も許されるだろう。
ディディは不機嫌そうに視線をそらしながらも、きっぱりと言い切った。
「いいって言ってるでしょう。素直に言うことを聞きなさい」
「……ああ。そうさせてもらう、ディディ」
心底嬉しそうに笑うルシェ。ディディはそんな彼をちらりと見て、また明後日のほうを向いてため息をついていた。
「それより、もうすぐ昼食よ。ついてきて」
ぶっきらぼうに言い放ち、ディディはふらりと部屋を出ていく。その後ろを、浮かれた顔のルシェが付き従う。
その二人が食堂に顔を出したとたん、かすかなざわめきがわき起こった。そこにはもうリタたちが勢ぞろいしていて、ディディとルシェが来るのを今か今かと待っていたのだった。
「ほら、あなたの席はそこ」
複雑な表情のディディが、空いた席を指し示す。両隣のリックとジョイエルが、ちょっぴりおかしそうな顔でルシェに会釈した。
「……私も、君たちと同席していいのだろうか?」
やはり生真面目に、ルシェが尋ねる。きょとんとしたような彼の表情に、その場の全員がまたざわざわと声を上げ、それからディディを見た。
「わたくしがいいと言っているから、いいのよ。ほら、早く昼食にしましょう」
そうして、何とも奇妙な食事が始まる。いつもは和気あいあいとしているこの場が、今は妙な緊張感に満ちてしまっていた。
リタは難しい顔でちらちらとルシェをにらんでいるし、逆にディディはひたすら彼から視線をそらし続けている。
その二人の放つ威圧感のせいで居心地が悪いらしく、三兄弟はせっせと食べながらも身を縮めて、三人でこそこそとささやき合っていた。
そしてリック、サリー、ジョイエルの三人は、やけに明るくお喋りを続けていた。しかし、その笑顔はどうにもぎこちない。彼らはどうにかして場を盛り上げようとして、失敗しているようだった。
ところがルシェだけは、やけに楽しそうにしていた。礼儀作法のお手本のような動きで食事をとりながら、にこにことした笑みを周囲の者たちに向けていたのだ。
彼のその態度に、やがてディディたちが困惑の目を見交わし始める。しばらくして、唐突にリックが口を開いた。
「すみません、失礼だって分かってますけど、尋ねさせてください!」
彼の視線は、まっすぐにルシェに向けられていた。ルシェがさわやかな笑みを浮かべて、何だろうか、と答える。
「その、ルシェ様はどうしてそんなに上機嫌なのでしょうか?」
「私は犬なのだから、様はいらない」
正面から遠慮なく尋ねたリックの度胸と、さらにとんでもないことを主張したルシェの律義さ……というより頑固さに、残りの全員が絶句していた。
「いえ、さすがに呼び捨ては無理です。といいますか犬だの何だのは、ディディ様とだけ楽しんでください。俺たちは普通に、目上の方として扱いますので」
「ちょっとリック、それじゃまるで、わたくしがおかしな趣味を隠し持っているみたいじゃないの」
抗議するディディにちらりと優しい目を向けて、ルシェは堂々と話し始めた。
「確かに、私は上機嫌だ。……貴族と平民、立場に関係なく同じ食卓を囲むなど、初めてで……そしてそれが、くすぐったい」
とても楽しそうな笑みが、ルシェの顔に浮かぶ。他のみなが、思わず見とれるくらいに見事な笑みだった。
「それに、こうして自然体のディディを見ていられる。こんなに幸せなことがあるだろうか」
彼は目を細め、ディディに笑いかける。ゆったりと落ち着いた、それでいて陶酔したような表情に、ディディが目を丸くした。その頬が、ちょっぴり赤い。
ルシェが王国兵を従えてキスカの町に来てから、まだ数時間ほどしか経っていない。しかしその間に、彼の様子はすっかり変わってしまっていた。
彼はずっと、自分は王子であるという思いにとらわれていた。王子らしく、未来の王として恥ずかしくないふるまいをしなくてはと、そう気負っていた。
けれどもそんなしがらみの鎖を、ディディが引きちぎってしまった。彼が憧れた女王の、とんでもない一声で。
その結果犬となり、王子の仮面を捨てた彼は、まるでサナギが蝶へと姿を変えるように鮮やかに、新たな魅力を漂わせるようになっていたのだった。
以前の彼は肩に力が入り、しょっちゅう難しい顔をしていた。自分がディディに対して抱いていた思いさえ見誤るほどに、視野が狭くなっていた。
ところが今の彼は、ゆったりと落ち着いた笑みを絶やさない。その表情には、慈悲にも似た何かが浮かんでいる。そうして彼は、一点の曇りもない称賛のまなざしを、惜しみなくディディに注いでいるのだった。
そんな彼の変化を、ディディはすぐに見て取った。リタとリックも、即座に察した。サリーとジョイエルは首をかしげつつも、何となくおぼろげに理解したようだった。
三兄弟は訳が分かっていないようだったが、ひとまずルシェがディディに向ける視線の意味には気づいたのか、「もしかして、愛か?」「愛だな」「うおお、女王様についに男が!」などと小声で騒いでいる。
しかしその声はばっちりディディの耳に届いていて、彼らは「あなたたち、もう一度崖から逆さ吊りにされたいの!?」という、照れ隠し半分、動揺半分の叱責を食らうことになった。
正直脅迫にしか聞こえない、というより間違いなく脅迫であるその言葉に、ルシェが目を真ん丸にする。それから、ぷっと吹き出した。
「ああ、ディディは本当に、生き生きしているな……以前の姿が、嘘のようだ……」
これを『生き生き』などという言葉で片付けていいのか。ディディとルシェ以外の全員が、同時にそう思っていた。
それでもルシェは、微笑んでいた。この上なく幸せそうに、目を細めて。ディディはふてくされたような表情をしつつも、そっと横目でそんなルシェを眺めていた。




