55:三度目の六年目の記念日
ゆっくりと目を覚ますと、そこは何も見えない暗闇でもなく、魔女が集うテーブルでもなかった。
見慣れた寝室。消えた六年間と新たに辿った今の六年間を過ごした、プリシラの寝室だ。
室内は明るいが朝の明るさというほどではない。窓を見れば鈍い朝日が差し込んでおり、カーテン越しでさえ今日の天候があまり良くない事が分かる。
七時間前に見た朝の寝室。
窓の外を見れば、今まさに雨が降りそうな鈍色の雲が広がっている。
……だがまだ雨は降っていない。プリシラの記憶では、自分が死ぬ瞬間には雨が降り始めていたのに。
「本当に時間を戻したのね……。自分で言っておいてなんだけれど不思議な気持ちだわ。いつか慣れるのかしら」
「プリシラ様、もう起きていらっしゃいますか?」
控えめなノックの音と共に、様子を窺うようにイヴが部屋に入ってきた。
薄墨色の雲で覆われた空も時戻し前と同じならばイヴの言葉も同じだ。プリシラが朝の挨拶を告げればイヴが穏やかに微笑み、その笑みを見てプリシラの胸も暖まる、これも同じである。
「今日はあまり天気がよろしくないですね。もしかしたら雨が降るかもしれませんし、カーテンだけ開けて窓は閉めておきましょう」
「ええ、そうしておいて。今日は午後から雨が降るもの」
「午後から、ですか?」
プリシラの言葉にイヴが疑問を返す。
これも同じやりとりなのだが、その事実はもう消えてしまった。イヴには初めて聞く言葉なのだ。
「そんな気がするだけよ。なんとなく午後から雨が降る気がするの。それと、今日はきっと海が荒れるわ」
「海……。確かにこの天気だときっと荒れますね。海辺に行くのは構いませんが、あまり近くに行くと危険ですので気を付けてくださいね」
ここで初めて、イヴが消えた七時間前とは違う発言をした。
時戻し前はプリシラが自分の死を思い出して青ざめ、それをイヴが案じてくれたのだ。だが今のプリシラは青ざめることなく窓の外を眺めている。
かつての死の瞬間を思い出すこともせず。……それどころか、密かにオリバーの姿を探しながら。
「今日は……、少し寒いわね」
「暖かいお洋服を選びましょう。それと、身支度の間に飲めるように温かいお飲み物を用意いたしますね」
イヴがさっそくと部屋を出て行こうとする。
それを見届け……、だが彼女が出ていく直前、プリシラは「待って」と声を掛けた。
「洋服は外出用のものを用意してくれる?」
「外出用……。まさか本当に海を見に行かれるんですか?」
「いえ、海じゃないわ。洋服を買いに行くの。今日はとっておきの洋服を着ておかないといけないもの」
プリシラが微笑んで告げれば、イヴが不思議そうに首を傾げつつも「かしこまりました」と一礼して部屋を去っていった。
そうして一人になりプリシラは小さく息を吐き……、そして再び窓へと視線をやった。
まさに曇天といえる空模様。日の光は鈍くしか差し込んでいない。それでいて風は強く、庭の花が不安を煽るように揺れている。
見ていても気分の晴れぬ天気。だがその中を颯爽と歩くオリバーの姿を見つけ、プリシラは自分の表情が明るくなるのを感じた。
「オリバー」
彼の名前を呼び、窓に手を添えた。ひやりとした冷たさは時戻し前と変わらない。
今回もまた彼はバケツを手に庭を進んでいく。向かう先はやはり厩舎で間違いなさそうだ。
そうして強く吹いた風に煽られてプリシラを見つけるのだ。彼の瞳がプリシラを捉えて僅かに見開かれ、だが次第にゆっくりと細められていく。
柔らかな笑みに込められた、言葉にしないと決めた想い。深く頭を下げて伝えてくる敬意。
それらを感じ取り、プリシラもまた微笑み返した。
◆◆◆
イヴが用意してくれた外出用の衣服を纏い、プリシラは市街地へと向かった。
まだ朝早いが幸い目当ての服屋は開いており、そこで一着のワンピースを購入した。
濃い色合いの真っ赤なワンピース。飾りは少なく、丈は長いが肩を露出している。さすがに人目があるからショールを羽織る予定だが、それでも普通の衣類よりは肌が出てしまっている。
だが下品さは無く、纏う者の妖艶な魅力を引き立たせてくれる一着だ。
今のプリシラは二十一歳。まだ妖艶さを出すには早すぎる気もするが、これぐらいの方が箔が付くかと考えて決めた。
「気に入ったから着ていくわ、元々着ていた服を包んでちょうだい」
「かしこまりました」
店員が恭しく頭を下げ、元々プリシラが着ていた衣類を丁寧に包んでイヴへと渡した。
受け取ったイヴがプリシラを案内するように店を出ていく。最初こそ「どうして突然服を?」と不思議そうにしていたイヴだったが、今は随分とご機嫌だ。
「素敵なお召し物です。普段とは違った雰囲気で魅力的ですよ」
「ありがとう。良い服が見つかって良かったわ。……でも、随分と嬉しそうね」
「プリシラ様と一緒にお買い物が出来て、しかもそこで気に入った服を見つけられて嬉しいんです。それに、そのお召し物を着たプリシラ様を見たオリバーの反応が楽しみですから」
イヴが悪戯っぽく笑う。その笑みに茶化されていると分かり、プリシラは己の頬が赤くなるのを感じた。
「もう、イヴったら」と彼女の肩をポスンと軽く叩く。だがそれを受けてもイヴの笑みは強まるだけだ。それどころか「早く行きましょう」と急かしてくる。
主人に対する侍女の態度ではない。当然だがフィンスター家の者たちがこんな態度を取れば、プリシラは厳しく罰しただろう。
だがイヴだけは別だ。イヴのこの気心知れた態度もプリシラの心を癒してくれる。
……そして同時に、プリシラに一つの決意をさせた。
「オリバー、待たせたわね」
「プリシラ様、お買い物は終わりっ……!」
市街地の一角、馬車の御者台で本を読んでいたオリバーに声を掛けると、彼はパッとこちらを振り向き……、そして言葉を止めた。
唖然とした表情でじっとプリシラを見つめてくる。
その視線にプリシラは自分の体を見下ろし「似合わなかったかしら?」と首を傾げた。
自分では似合っていると思っているし、店員もイヴも絶賛してくれた。だがやはり自分には早いデザインだったかもしれない。
そう考えて問うも、はたと我に返ったオリバーは勢いよく頭を振った。「そんなことはありません!」という否定の声は、普段の彼の落ち着いた声よりも幾分大きく、上擦っている
「と、とてもよくお似合いです」
「そう? 良かった。でも大胆過ぎたかしら」
「いえ、そんなことはありません。とても素敵で……、あ、でも、普段のお召し物が似合っていないわけではなく」
説明しようとしても上手く言葉が出てこないのか、オリバーが慌て出す。
そんな彼の態度を見て楽し気に笑うのはイヴだ。次いで彼女はオリバーの肩をポンと叩くと、荷物を積んでくると言って客車の裏手に行ってしまった。
彼女のこの行動の意味を察してか、オリバーが気まずそうに頭を掻いた。
「申し訳ありません。あまり女性を褒めるのは慣れていなくて……」
「良いのよ。貴方のその反応こそ似合っているって事だもの」
オリバーの態度にプリシラも笑みを零して宥めれば、頬を赤くさせた彼も苦笑を浮かべた。
プリシラを見つめる瞳は穏やかだ。色濃い瞳には光がある。
……あの、死の瞬間の瞳とは違う。
消した七時間に見た彼の瞳から光が失われていく瞬間を思い出し、プリシラはゾワと寒気が背を走るのを感じた。
心臓が痛む。無意識に胸元を掴めば、気付いたオリバーが案じて名前を呼んできた。
「プリシラ様、どうなさいました?」
「……もしもこの後、とても恐ろしいことが起こっても、私のそばに居てくれる?」
真っすぐにオリバーを見つめてプリシラが問う。
唐突なその問いかけにオリバーが一瞬驚いたような表情を浮かべるも、プリシラを見つめて返し、次第に目を細めて微笑んだ。
柔らかな笑み。言葉にせずとも彼の気持ちが伝わってくる。
ならば答えは口にしなくても良い。いや、それどころか彼がはっきりと口にして、仮にそれを他者に聞かれたら面倒事になるかもしれない。
そう考え、プリシラは「なんでもないの」と己の発言を誤魔化すことにした。
「変なことを言っちゃったわね。新しい洋服に浮かれていたみたい」
「必ずそばに居ます。これから何があろうと」
「……オリバー?」
「プリシラ様がそれを望んでくださるのなら、何があろうと、プリシラ様が何になろうと。俺はプリシラ様のそばに居ます」
はっきりとしたオリバーの言葉。貴族の夫人に対して御者が告げる言葉ではない。個人の、男としての言葉だ。
見つめてくる瞳はいつもより色が濃く感じられる。まるでその奥に強い決意を宿しているかのように。
彼の言葉と瞳に、プリシラが返事をしようとし……、
「あのぉ……」
と、小さな声が掛かった。
はっと息を呑んでそちらを見れば、イヴが客車の影から顔を覗かせている。
「お声掛けするのは心苦しいのですが、子爵家の方がこちらに向かっております。見られない方がよろしいかと思いますが……」
「そ、そうね。ありがとう。もう客車に乗るわ。タラップを出して」
「俺も御者台に行きます。もし何かあればお呼びください」
オリバーが御者台へと向かい、イヴもまた客車に乗る準備に取り掛かる。
プリシラはオリバーの背中を見つめ、先程の彼の言葉を反芻するようにゆっくりと目を瞑った。




