49:二度目の六年目の記念日、朝
朝を迎え、プリシラはゆっくりと身を起こした。
窓を見ればカーテン越しに外が明るくなっているのが分かる。だが晴れた日に差し込む明るさではなく、どことなく鈍さのある明かりだ。さすがに夜とは思わないが、まだ夜明けと勘違いしかねない。
きっと薄墨色の雲が空を覆っているのだろう。想像するだけで気分が沈む。
思い返せば、かつての今日もこんな曇天だったではないか。
空は仄暗く、隙間から辛うじて見える日の光も鈍い。挙げ句、午後からは冷たい雨が降り始めていた。
「環境は変えられても天気は変わらないのね」
窓の外、灰色の雲がゆっくりと流れていくのを眺めながら呟けば、それとほぼ同時に室内にノックの音が聞こえた。
「プリシラ様、もう起きていらっしゃいますか?」
「おはよう、イヴ。ちょうど今起きたところよ」
室内の様子を窺いながらイヴが部屋に入ってくる。
彼女を見て、プリシラは微笑んで室内へと促した。
外を眺めていた時は息苦しさすら覚えていたというのに、イヴを見れば途端に気分が晴れる。
「今日はあまり天気がよろしくないですね。もしかしたら雨が降るかもしれませんし、カーテンだけ開けて窓は閉めておきましょう」
「ええ、そうしておいて。今日は午後から雨が降るもの」
「午後から、ですか?」
窓の外を眺めていたイヴがくるりとこちらを向いて不思議そうに首を傾げた。
時刻はまだ朝。だが外は薄暗く、今すぐに雨が降ってもおかしくない空模様だ。
だというのにプリシラは『午後から』と言い切った。
それを疑問に思ったのだろう、なぜかと尋ねてくるようなイヴの視線に、プリシラは明確な返答はせず「そんな気がするだけよ」とだけ答えた。
「なんとなく午後から雨が降る気がするの。それと、きっと今日は海が荒れるわ」
普段は緩やかな波と海鳥の鳴き声が続く美しい景観の海。だが今日はまるで別の海のように荒れているだろう。
海面は忙しなく揺れ動き、丈高の荒ぶる波が幾度となく岩肌を叩く。波の音はまるで唸りのように迫り、眺めているだけで引きずり込まれそうな恐怖感を見る者に与える。
冷たい雨が体温を奪い、水しぶきは容赦なく体中に打ち付けられる……。
「……っ!」
瞬間、プリシラの体にかつての、そして今の人生では経験していないはずの感覚が蘇った。
真冬の海に落ちたかのように全身を寒気が襲い、己の中で血の気が引く音がする。冷え切った体からゆっくりと意識が零れ落ちていくような、暗闇に飲み込まれていくような、無力感と絶望が一気に押し寄せてくる。
無意識に己を抱くように自分の腕を掴めば、それに気付いたイヴが案じるように声を掛けてきた。
「プリシラ様、顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「え、えぇ、平気よ……。心配しないで。少し……、そう、少し寒かっただけ」
「暖かいお洋服を選びましょう。それと、身支度の間に飲めるように温かいお飲み物を用意いたしますね」
穏やかに微笑んで、イヴがさっそくと部屋を去っていく。
それを見届け、プリシラは這い上がってきた寒気を押さえるように腕を擦り……、
「オリバー……」
と、一人の青年の名前を呼んだ。
窓の外、庭の一角を歩いているのはオリバーだ。
凛とした佇まい、真っすぐに前を見つめて進む迷いのない歩み。どんよりとした空気の漂うぱっとしない天気だというのに、彼の周りだけは清々しくさえ見える。
「……気付いてくれるかしら」
オリバーは仕事中なのだろうか、水を張ったバケツを持っている。向かう先は厩舎か。
外を歩く彼に対して、プリシラが今いるのは建物の三階にある自室だ。それも端にある。彼が偶然見上げなければプリシラに気付くことはないだろう。仮に偶然彼が屋敷を見上げたとて、部屋数が多いのだから気付かず素通りの可能性だってある。
それでも、とプリシラは窓にそっと手を当てた。
窓を開けて彼の名前を呼んで、手を振り気付かせたい気持ちをぐっと堪えて……。
「ねぇオリバー、今日は六年目の結婚記念日なの。貴方が気付いてくれたら、私、きっと強く立ち向かえるわ」
そう乞うように窓の外のオリバーに話しかける。もっとも彼とは距離もあるし高さも違う、そのうえ窓を挟んでいるのだから、プリシラの声がオリバーに届くわけが無い。
現に彼は颯爽と歩き続けており、プリシラの視界から出ようとし……。
だが次の瞬間、強い風でも吹いたのかオリバーの周囲にある木々が一斉に揺れ、咄嗟に彼も足を止めて風に煽られるように頭上を見上げた。
彼の色濃い瞳がプリシラを捉え、驚きを交えて僅かに見開かれる。
「プリシラ様」と、彼の声が聞こえた気がした。
実際の声ではなく、それでも僅かに動いた彼の唇が、じっと見つめてくる瞳が、プリシラの名前を呼んだのだ。
「あ……」
プリシラの唇から小さな声が漏れる。届かないと分かっていて窓に身を寄せる。
窓を開けて彼の名を呼びたい衝動に駆られたが、流石にそれは辛うじて押さえ込んだ。
眼下のオリバーはいまだプリシラを見上げたまま、立ち去ることもせず、さりとてプリシラの名前を呼ぶこともしない。互いの立場と現状から、手を振ることさえも良しと考えていないのだろう。
そうして彼は柔らかく微笑むと、プリシラに向けて深く頭を下げてきた。
第三者が見ても怪しまれない行動。仕事の最中に主人を見つければ誰だって頭を下げるはず。むしろ目が合っても何もせず無視する方が無礼にあたる。
だからオリバーのこの行動はおかしなものではなく、……そこに愛が込められているとは誰も気付くまい。
プリシラ以外は。
「オリバー……、明日も、今と変わらず私に微笑みかけてね」
六年目の結婚記念日を超えた明日、はたして自分はどうなっているのだろうか。
不安が杞憂に終わり明日も変わらずプリシラ・フィンスターとしているのか、あるいは何かが変わるのか……。
だがどうなろうとも、オリバーからの気持ちは変わらない。もちろん、プリシラからの彼への気持ちも同様。
どうなろうとも、たとえ明日も変わらず気持ちを声に出せなくても、『声に出さない』と言うことこそ想いが通じ合っている証なのだから。
「プリシラ様、お待たせしました。温かい紅茶を……、あら、なんだか先程より顔色が良くなってますね」
部屋に入ってくるなり不思議そうに首を傾げたのはイヴ。
そんな彼女の反応がなんだか面白く、プリシラはクスクスと笑うと最後に一度窓の外にいるオリバーに目配せし、窓からそっと手を放して離れていった。
脳裏に蘇っていた荒れ狂う波の音も、飛沫の冷たさも、体が冷えていくあの感覚も、もうすっかりと消え去っていた。




