悠久の魔女
療養所はてんやわんやの大騒ぎであった。何しろ、ここ数年に運び込まれてきた寝たきりの患者が、突然、何人も目覚めた上に、まるで昨日眠って今日起きたと言わんばかりに、当たり前のように普通に動いているのである。
そんなことは医学的にありえないからと思って検査をしても、彼らの身体にはどこも異常が見当たらず……それもそのはず、考えてもみれば異常が無いから医者もさじを投げてこんな場所まで流れ着いたのであるから、ある意味では、彼らが目覚めていきなり普通の生活に戻れるくらいに驚異的な回復を見せたのは当たり前だと言えた。
しかし、それでも納得が行かない上坂の父親が、患者たちに一体何があったのかと尋ねれば、彼らは一様に普通に生活してただけだと答えるのである。彼は息子が言っていた、魂だけが別世界に行ってしまうという病気が実在することを、ついに信じざるを得なくなったと感じていた。
ともあれ、医療的に正しかろうが間違っていようが、患者には関係ない話である。彼らは平行世界へ移動してしまった時に感じていた違和感が無くなったことを、単純に喜んでいた。やはり眠り病患者は世界が変わった瞬間をちゃんと認識しているようで、その拭いきれない矛盾を受け入れるまで、相当苦労するらしい。
因みに、佐藤の息子の四郎がどんな感じだったのかと言えば、彼は組長である備後にボコボコにされて意識が遠のいた次の瞬間、何事も無かったかのように自分のベッドで目が覚めたそうである。
だから最初はてっきり病院に運ばれたのだと思っていたのだが、良く見ればあんなにボコボコにされたのに身体のどこにも異常がない。
いくらなんでもこりゃおかしいと思った四郎が、恐る恐る備後に尋ねてみれば、彼は息子をボコボコにするどころか、普通に泰葉とのことを許してくれていたらしい。その代わり、ちゃんと所帯を持って面倒を見るように言われた四郎は、おかしいとは思いつつも、願ったり叶ったりと泰葉と結婚、あっちの世界で幸せな家庭を築いていたそうである。
おまけに、子供が生まれると跡目争いには全く関係なかったはずの四男に、何故か備後からシマの一部が譲られて、彼はそこの組長として何不自由なく暮らしていたらしい。備後は初孫の四葉に首ったけで、他の兄弟が嫉妬するくらい、四郎にばかり目をかけていたそうだ。
だから、四郎もこんなに何もかも上手くいくのはおかしい、自分は夢を見ているんじゃないかという気持ちを、いつも抱えていたようだ。
そんな時、佐藤組の恩人である藤木の息子だという上坂が現れたそうである。
死んだと思っていた息子が会いに来てくれたんならそりゃめでたいと、組員が総出で祝っている時、上坂はこっそり四郎に近づいてきて、自分は別の平行世界からやってきたと耳打ちした。
最初は何をとち狂ったのかと思ったが、話を聞いてみると、彼は驚くほど四郎のプライベートな情報を知っており、気味悪がっていたところに追い打ちをかけるように、四郎がこっちの世界に飛んできた切っ掛けであった、佐藤備後の大暴れ事件について言及したのである。
こっちの世界では備後は泰葉との交際を最初から認めており、大暴れしたなんて事実は無かった。だからそれは自分の夢だろうと思っていたのだが、上坂はそっちの方が現実であると彼に説明したのである。
言われてみれば、あの日、目が覚めたときからこの世界は都合のいいことだらけで、まるで夢みたいだと思っていた。実際にそうだと言われると、しっくりくるところはあった。
だが、それで元の世界に戻ろうと言われても、なかなか信じられないことだったし、そもそもこっちの世界で彼は何不自由なく暮らしている。あっちに戻ったらその生活も、泰葉と四葉との関係はどうなってしまうんだと、最初は躊躇した四郎であったが……
「けどよう、現実の方では、四葉は父無し子なんて聞かされたら、俺は居てもたっても居られなくなってよ。こんなところで自分だけ温々していられねえと思ったら、次の瞬間にはもう、こっちに戻っていたってわけだ。すまねえ、泰葉……俺が弱かったばっかりに、おまえには苦労かけちまったな」
「いいんですよ、四郎さん」
そう言って抱き合う二人は満足そうであったが、ただし四郎には一つだけ心残りがあったようで、
「ところで、俺はこっちに戻ってきちまったけど、あっちの泰葉や四葉はどうなっちまうんだろうか。今度はあっちの四葉が父無し子じゃあ、後味が悪くて仕方ねえんだが」
「それなら何も問題ない」
するとそれを後ろの方で聞いていた江玲奈が言った。
「君は元々あったあっちの世界に、こっちの記憶を持ちながら迷い込んだだけなんだ。君が居なくなれば元の世界に戻るだけで、あっちの世界はあっちの世界で続いている」
「それじゃあ俺は元々居たあっちの俺の人生を乗っ取っちまったっていたわけか? だったら、あっちの俺に悪いことしちまったみたいだけど……」
「いや、そうでもない。人間は主観でしか物事を把握できないからそう考えがちだが、あっちの世界だろうがこっちの世界だろうが、君は君なのだから、なるようにしかならないんだよ。まず、自分が一人しかいないという認識を改めるべきなんだ。この宇宙には自分には感じられない平行世界が無限に存在して、そこには自分とはちょっと違う自分がやっぱり無限に存在する。君はその一つに主観だけを移しただけにすぎないんだ。仮にもし、君が平行世界で無茶苦茶をして、その世界での君と他者との関係性をぶち壊しにしたとしても、それは単にそういう可能性世界が生まれただけの話で、そうならなかった世界はちゃんと別に存在している。要は君があっちの世界に記憶を持ち込んだところで、世界が分岐しただけで、君がこっちに戻ればあっちも元に戻るだけさ」
「……何いってんだかよくわからないが、あっちの泰葉や四葉は幸せなままなのか?」
「君が幸せに感じていたのなら、その家族がそっくりそのまま、あっちに残っているはずだね」
江玲奈がそう断言すると、それまで難しそうな表情をしていた四郎はホッと胸をなでおろして、
「そうか……ならもうあっちの世界に未練は全く無い。そんなことより、俺には幸せにしなくちゃならないものが、こっちにはあるんだからな。泰葉、四葉……今まで俺のせいでつらい思いをさせてしまってすまなかった。これからは俺がお前たちのことを、絶対に幸せにしてやるからな」
そう言ってヒシと抱き合う家族を見ながら、江玲奈たちはこれ以上邪魔をしても野暮だろうと、黙って病室から外へ出た。
見れば療養所のあちこちから、似たような家族の歓喜の声が聞こえてくる。しかしまだ、すべての患者が目覚めたわけではないから、その声は次第に小さくなっていった。上坂は今頃、四郎を説得したように、他の患者も説得して回っているはずだが、もしかして苦戦しているのだろうか。
患者たちが目覚めるのと入れ替わりに、病床で眠りについてしまった上坂を前にして、彼の父親は不安そうに息子の姿を見つめていた。江玲奈はそんな父親に対して、上坂は大丈夫だし、仮に目が覚めなかったとしても、自分が彼を起こすことが出来るから心配要らないと請け合った。
だが、それでも彼の不安は収まることはなく、彼はひっそりとした療養所の中、深夜に及ぶまで、じっと眠り続ける上坂のことを眺め続けていたのである。
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深夜。療養所の病室の窓から、月明かりが差し込んでいた。青白く光るベッドの上では、未だに目覚めない上坂が死んだように眠っていた。
ベッドの横ではパイプ椅子に座りながら、父親がじっと目を閉じて彼の目覚めを待っていたのだが、しかしいつまでも帰らない息子を待ちくたびれて、いつの間にかウトウトと夢と現を行ったり来たりしているようだった。
昼間、目覚めた患者たちで賑わっていた療養所も、今ではしんと静まり返っており、泰葉達親子も、四郎のために必要な着替えなりを取ってくるからと言って、一時的に帰ってしまっていた。
上坂の護衛としてついてきていた下柳は、今は待合室の長椅子の上でイビキをかいていた。ススキノで襲われた時にも言われていたが、まるで役に立っていない。そんな姿を呆れながら横目に見つつ、江玲奈は毛布を片手に上坂の病室へと入った。
「悠久の魔女がお優しいことね」
江玲奈が上坂の父親に持ってきた毛布をかけてやると、背後から声がかかった。振り返れば病室の壁にもたれかかるようにしてアンリエットが立っていた。
室内に入った時にはまったく気配を感じなかった。荒事が得意とは言えないけれど、それでも彼女の言う通り、悠久の時を生きた魔女の目を掻い潜るとは……あちらの護衛と違って、こっちの方が本当に大したものである。彼女は感心しながら言った。
「誰に頼まれてもいないのに、わざわざこんなとこまで付き合ってくれてる、君ほどじゃないさ。今だって、彼のことが気になっているのだろう?」
「別に……私は自分のすべきことをしているまでよ」
「そうかい? 君はあの時、襲われてる僕らを放っておいても、じきに下柳が彼の父親を連れてやって来ることが分かっていたはずだ。だったらあのまま隠れていれば良かったろうに。そしたら僕に貸しなんか作らずに済んだはずさ」
アンリエットは舌打ちすると、苦々しそうにこう言った。
「……感謝してるわよ。私があんたの護衛として雇われたことにしてくれて。いくらなんでも、あんな言い訳、通用しなかったでしょうからね」
江玲奈は返事を返さずにニヤリと笑った。それがまた、アンリには悔しくてならなかった。
上坂達がススキノでヤクザに襲われた時、颯爽と現れてヤクザ相手に大立ち回りを演じた彼女は、実は江玲奈の護衛でも何でもなく、初めから上坂を護衛するために密かに北海道入りしていたのだった。
それは上坂どころか、下柳にも、御手洗にも、言ってしまえばこの国のあらゆる権力者の誰にも知られていないはずだった。ところが、何故か初めから江玲奈にはバレバレだったようである。
北海道に入った瞬間、彼女は上司から悠久の魔女に感づかれていることを知らされた。隠密行動には自信があり、そんなはずはないと思っていたのだが、蓋を開けてみればこの通りである。
となれば、考えられることは唯一つ。江玲奈は預言者らしく、アンリが北海道に来ることを、予め知っていたのだ。
「でも、何もかもお見通しの魔女様が、まさかヤクザ相手に腹パン食らって涙目になってるなんてね……あんなものを見せられたら、助けに入らなきゃ護衛対象がやられちゃうって焦るわよ。こいつの頭がワレモノだっての、あんただって知ってるでしょう」
「まあね」
「あんたまさか、私をあぶり出すために、わざとあんなことしたんじゃないでしょうね?」
「冗談じゃない! 僕は痛いのが大嫌いだよ。悠久の魔女なんて君たちは呼ぶけれど、実際の僕はただの14の子供に過ぎないのさ。いや、僕の肉体年齢は……と言ったほうが妥当だろうか。僕は500年の時を生きてきたわけだけど、どの時代にあっても、ただのか弱い女性に過ぎなかった。怪我をすれば痛いし、病気をすれば苦しいし、時が来れば老衰死する。悠久を生きているのは魂の方だ。本当は、人間は誰だってそうなんだ。我々はみな不完全な肉体と不滅の魂を持っている。そのことに気づきさえすれば、人は悠久の時を生きることだって出来るはずなのにね」
「ねえ……私はあんたのことを信じちゃいないけど、永遠に生きられると言うのなら、どうして上坂だけにこんなことをやらせてるの? 今回のことだって、あんたも一緒に行ってサポートしてやれば良かったじゃないのよ。そうしたら、彼のお父さんも、こんなに心配しないで済んだはずよ」
すると江玲奈は愉快そうに笑った。
「そんなことする必要がないからね。上坂が行った世界にも、僕はいる。わざわざ僕が世界を渡らなくても、あっちの僕が上坂と接触するはずさ」
「……もしかしてあなたは、他世界の自分自身とコンタクトが取れるってわけ? あの、九十九美夜みたいに……?」
「いや、そんな事は出来ない。単にどこにいようと、僕は僕と言うだけさ。こっちの僕が上坂のことを心配するように、あっちの僕も上坂のことを心配している。この僕と、他の僕と、世界は違えど考えることもやることも同一なんだ。それでいて僕たちはいくつにも別れて、まるで別のことをしてもいるのだけど」
アンリは禅問答みたいな答えに憮然とした顔を見せた。江玲奈はやれやれといったお手上げのポーズをしてから、彼女にも分かるように話を続けた。
「君たち一神教の人たちが言うように、もしもこの世界を神が作ったというのなら、時間を作ったのも神ということになるだろう。すると神の前に時はなく、神にとっては過去も未来も同一で、神は永遠の今を生きていることになる。アウグスティヌスがそう定義して以来、神は永久不滅の存在となった。
ところで時間とはなんだ。それは尺度のことだ。例えば1時間というのは地球が一周する間隔を24分割したものだし、例えば車が一定の速度でA点からB点へ移動するために何単位が必要だったかという尺度だ。
または、因果とも言いかえることが出来る。今、A点にいる車が、B点に移動するには時間が必要だ。シュレーディンガーが閉じ込めた猫も、時間が進まなければ死ぬことはない。猫が不確定なのは時間が経過したからだ。
原因が結果を生ずる時、必ず時間が経過している。僕たちは因果というものを、時間という対価を払って獲得しているのだ。そして時間というものは相対的であり、人によってその流れ方は異なる。僕たちが住む地球から、光速で遠ざかっている天体の時間の流れはずっと遅い。逆にその天体から地球を見れば、地球のほうが遅いのだ。そう考えると時間とは、僕たち一人ひとりの自我が感じている何か、としか言えないわけだ。
ところで、考えてみよう、自我とは何だ?
僕たちは生まれた時の記憶はない。ある程度成長して、自我が芽生えたときから、記憶が始まるといっていいだろう。自我がどうして生まれたのかと言えば、それは他人と自分を比べたからだ。
ある日、お母さんのことを見て、あれ? なんか僕と違うぞと気づいた時、僕たちに自我が芽生える。僕たちは他人と自分との差異によって自我に目覚める。お母さんと僕は何か違うぞ、彼女みたいになるにはどうすればいいんだろうと考える。言い換えれば、反省したから僕が生まれたわけだ。
思い返せば結局のところ、自我というのは反省の連続だ。何かと自分を見比べて、そこに反省すべき点を見つけて、自分を変えることが即ち自己形成というものだ。そうやって自分を少しずつ変えていって、完璧な自分に近づけることが、いわゆる人生ってやつなんだろう。僕たちはそうして生きているんだ。
では神はどうだ。神は永遠の今を生きている。そこに時間の流れはない。即ち、神は反省することがないから自我が芽生えることもない。神は自我を持ってないのだ。でもそれで良いのだろう。何しろ神は完璧なのだ。神に反省すべき点はなく、自分を変える必要もないのだから。
ところで、その完璧というものは、既に述べた通り僕たちの中にあるものだ。僕たちは日々、何かと自分を比べて、反省し、自己を修正していく。何故修正するのか言えば、自分を良くしようと、完璧に近づけようとしているわけだが、その良い悪いの基準……自分にとっての理想というものは、心の中にあるわけじゃないか。
それが即ち神である。僕たちは、ある日、自我が芽生えた時から、神になろうとして、知らず知らずの内に努力し続けているのだ。これが仏教で言うところの如来蔵というもので、人間というものは生まれながらにして、神になる素質を秘めているということの証なのさ」
「……あんたが人間は神になれると言って神智学を作ったのは知ってるわ。それじゃ、あんたは本気で自分が神になったとでも言うのね?」
「まあね」
「罰当たりね……そんなんだから火刑なんて目に遭うんだわ。自分が神なんて中世じゃ異端も異端、悪魔と呼ばれても仕方ないじゃないの」
「実際、僕は魔女と呼ばれているじゃないか……でも、君たち一神教も、今となってはそんな僕の能力を認めざるを得ないだろう。何しろこうして眠り病なる謎の奇病に、すでに世界は苛まれているからね」
「確かに、おかしなことが起きてることは認めるわ。でも私は神の実在なんかどうとも思ってないわよ。現代人なんて、みんなそんなもんでしょう。私たちは単に、あんたみたいに神を名乗る輩が何か悪さしないか見張ってるだけよ。あんたは終末論者だし、変な目論見を持ってなきゃ良いんだけど」
「君たちが気にしてるのは、それがヨハネの黙示録的な終末かどうかだろう。その時、君たちは淘汰される側だから。まあ、そんなものは来ないと思うよ。それは一神教的な考えから生み出された終末だけど、アニミズム的な考えを持つ僕は、そもそもその立場を取ってない」
江玲奈が肩を竦めてそう言った時、彼女がかけた毛布が滑り落ちて、上坂の父親がうーんと唸り声を上げた。夢見が悪いのだろうか、険しい表情のその眉根は深いシワが刻まれており、こうして見てみるとやはり親子なんだなと思うくらい、それは上坂のそれと似ていた。
彼女は落ちた毛布を再度彼に優しくかけてから、
「どうやら、少し喋りすぎたようだ。あまり騒いで彼を起こしてしまわないように、僕はそろそろ出ていこう」
「そう……なら私は彼が起きるまでここで見張っておくわ」
「そうかい。明日になれば、上坂も目覚めるだろう。僕はその時また戻ってくるよ」
江玲奈はそう言ってあくびを一つかましながら、アンリの横を通り過ぎていった。
部屋の中にはもう父親のたてる寝息以外、どんな音も聞こえなくなった。上坂はまるで死んだかのように、寝息一つ立てず静かに眠っていた。
アンリはそんな彼の寝顔を見ながら、果たして彼は本当に、預言の救世主となるのか……それとも大罪人となってしまうのかと、彼が起きるまで何時間も、そんなことを考えていた。




