どこの組のもんじゃああ!!
目を覚ましたらまた自分が知らない天井を見上げていることに、上坂は一瞬だけ呆然となった。だが徐々に覚醒してくる頭で、昨日何が起きたかを思い出して、ホッとすると同時に、暗澹とした気分が舞い戻ってきた。
18年前、上坂を捨てて出ていった実の父親は、札幌で新しい家族を作っていた。娘はまだ幼く、奥さんは綺麗で、とても幸せそうに見えた。あの人達のあの眼差しは、父への信頼が成したものなのだろう。きっと死んだ母も兄も、あんな顔をしていたはずだ。平行世界で出会った兄の真っ直ぐな視線を思い出せばそれが予想できた。だが上坂は、その中に自分が入っていることを全く想像できなかった。
父親に会いに来たのは、本当になんとなくだった。もしも生きているんなら、ちょっと会ってみたいという、好奇心にすぎなかった。立花倖が死んで一人になってしまったから、よりを戻そうとか思ったわけじゃない。ただ純粋に、世間話程度のことをしてみたいと、それだけのことだった。だからもしも彼がロクでなしなら、会わずに帰るつもりだったのだ。本当にそのつもりだったはずなのに……上坂は自分がこんなにも傷ついていることに、戸惑いを隠せなかった。
もしかしたら胸の奥のどこかで、父親に対する期待があったんだろうか。父親は自分を捨てたことを後悔しているとか、今でも愛していてくれてるとか、そんなことを考えても辛くなるだけなのに、都合のいいことを無意識的に考えてしまっていたのだろうか。
上坂はボーッとする頭の片隅でそんなことを考えてから……やがて何かを吹っ切るように、両手でパンっと自分のほっぺたをひっぱたくと、ベッドのスプリングを効かせて跳ねるように飛び起きた。
暗いことを考えていても仕方がない。もうみんなに心配をかけないと決めたのだ。じゃなきゃ死んでしまった倖に顔向けが出来ないではないか。
父親のことはそりゃ残念だったけれども、元々居ないものだと思ってたのだから、もう一度そう思えばいいだけの話だろう。
考えてもみれば、せっかく北海道までやって来たのだ。北海道なんて中々やって来る機会はないはずだ。だったら嫌なことはもう忘れてしまって、どうせなら観光でもして帰ろう。思えばこっちに来てからやったことと言えば、ホテルで宴会して、あとは夕張の山をレンタカーでドライブしたくらいのものだ。自然はもう満喫したし、札幌には美味いものが沢山あるはずだから、ネットで調べて何軒か回ってみよう。
それにしても下柳はどうしたんだろうか? 起きた時には部屋に居なかったが……上坂がそう考えながら時計を見ると、時刻はもう正午を過ぎていた。朝食どころか昼食の時間である。こりゃ、自分が寝てる間に、何か食べに出かけてしまったに違いない。
上坂は慌てて服を着替えると、取り敢えずホテルのフロントまで降りていって、彼らが何か伝言でも残していないか聞きに行こうとした。
しかしその必要は無かった。フロントに行くよりも手前、ロビーから見える食堂に、下柳と江玲奈の姿が見えた。と言っても昼食を取っているわけではなく、彼らは空っぽの机の上に書類を置いて、それを見ながら深刻な表情で何かを検討しているようだった。
何をやってるんだろうと上坂が近づいていくと、
「ん……? ああ、上坂。起きたのか」
「ごめん、寝坊した。下やんたちはもう飯食ったの? ところで、それ何だ……?」
「ん……ああ……実はさ」
下柳は上坂が寝ている間に、自分たち二人が父親のことを調べていたことを話した。江玲奈は興信所を使い、下柳は知り合いの伝手で警察と、地元の人への聞き込みから……そうして分かった上坂の父親の正体が……
「ヤクザ……?」
上坂が目をパチクリしながらそう聞き返すと、二人はバツが悪そうに首肯した。
「正確に言うと、あの藤木興産ってのは人材派遣会社で、社長の名前は藤木金四郎と言うらしい」
「金四郎? ……俺の父親はそんな名前じゃなかったはずだぞ?」
「恐らく偽名だろう。彼を知る人はみんな遊び人の金さんと呼んでいるそうだ。ついでに人材派遣ってのも物は言いようで、やってるのは主にデリヘルみたいだ。昨日行ったあそこはススキノの性風俗産業を取り仕切ってるヤクザのフロント企業で、社長はとにかく顔が広く、毎夜あちこちのヘルスやソープに出入りして集金を行っているらしい。その資金がヤクザに流用されてると見て、警察は彼の背後を洗ってるんだが、そんなものはあちらも承知の上らしく、中々尻尾を掴ませてくれないようだ。因みに年商は10億を下らないそうだ」
「そりゃあまた……大したもんだな」
「ああ……まったくな」
「でも、どうしてそんなもん調べようと思ったんだ?」
「それが……俺はそんなつもり無かったんだけどよ、江玲奈のやつが……上坂の親父ならきっといい人だろうから、ちゃんと調べようって言い出して……」
「そうなの?」
江玲奈の顔を見ると、彼女はバツが悪そうにそっぽを向いてしまった。下柳はそんな彼女に向けて忌々しそうなジト目をしながら、
「蓋を開けたらいい人どころか、悪の手先みたいなやつだった。こんなこと、おまえに聞かせるのもどうかと思ったんだが…」
「そうか……俺の代わりにわざわざ調べてくれたんだな、二人ともどうもありがとう」
下柳も江玲奈も、まさか上坂がそんな殊勝なことを言い出すとは思わず、聞き間違えたんじゃないかと目を疑った。しかしもちろんそんなことはなく、上坂は純粋に二人のことを労ってくれてるようだった。
昨日の様子からすると、こんなことを聞かされたらまた気分を悪くするんじゃないかと思っていたのに、どういう心境の変化だろうか。下柳が恐る恐る尋ねてみたら、上坂はいっそ清々しいといった感じで、
「うん、一晩寝たらなんかスッキリしちゃったんだよ。そりゃあ、父親に新しい家族がいたのはショックだったよ。でもそれだけだ。ショッキングなことなら、もっと最悪なことがこれまでに山程もあったじゃないか。それを思えば、今更、父親に家族がいようが愛人がいようが、ヤクザだろうが殺人鬼だろうが、大して変わらないだろう」
「お、おう……そうか」
「何しろ俺の運は極悪だからなあ……」
上坂は力を溜めるようにしみじみとそう言った。そしてまるで他人事みたいにニヤニヤしながら、
「父親が悪人だったら会わないなんて言ってたのもさ、もしもそうだった時にあんま傷つかないようにって、予防線を張ってたんだろうね。実際、その可能性は高かったんだ。莫大な借金を背負った男が、たった一人でそれを完済するなんて、綺麗事だけじゃ済まなかったはずだ。俺は心のどこかで、薄々それに勘付いていたんだろう。だから、ここに来るまで、あーだこーだと言い訳してきたんだ」
下柳と江玲奈はお互いに顔を見合わせた。二人は上坂がショックを受けないようにと思っていたのだが、どうやら彼の方はとっくにそんなもの吹っ切っていたようだ。
「寧ろ、風俗店経営者だとか、ヤクザの企業舎弟だとか聞いて、逆に興味が湧いてきたよ。そんな人と知り合う機会なんて、なかなかないだろう? 彼にこの18年間、どんなことがあったのか……出来れば、会って直接話してみたいと、今はそう思うよ」
「そっか……そうだな。なら、会いに行くか! 言われてみると、俺もなんか興味湧いてきたよ」
「そうだな。僕も興味がある。上坂の父親がどうしてそんなことになってしまったのか」
「なら会いに行こうぜ」
上坂はそう言って勢いよく立ち上がったが、その途端にお腹がグーッと鳴り出して、
「……の前に、腹ごしらえだな。起きたばっかで何も食ってないんだ」
3人は何だか吹っ切れたように笑いだすと、ガイドブックを片手に札幌の街に繰り出すことにした。
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その後3人は美味いと評判の北海道の料理に舌鼓を打って、食後のコーヒーを飲みながら、今後のことを話し合った。もし父親に会いに行くとしたら例のマンションだが、彼の新しい家族に上坂のことが知られると、気を使わせてしまうだろう。そんなこと気にしなくていいと言えばそれまでだが、例え憎い相手だとしても、越えては行けない一線というものがあるだろう。家族は関係ないのだから。
だから直接会いに行くのはやめて、彼が寄り付きそうな場所に先回りし、話しかけられそうなすきを見計らって声をかけようということになった。何しろ相手はヤクザである。用心に越したことはない。
幸い、昼間に調べておいたお陰で、彼が行きそうな場所なら既に把握済みであった。父親は大抵、夜は繁華街に繰り出して、彼の傘下の風俗店を回っているらしい。そのうちの一軒で張っていれば、いずれやってくるはずだ。
上坂たちはそうと決めると、ソープランドの見える路地裏に車を停めて、彼がやって来るのを待ち構えた。すぐ隣にはお城みたいな形をしたラブホテルが建っていて、更にその隣はポルノ映画館だった。
通り過ぎる人々は、目が血走ったアベックか、人生に疲れたおっさんみたいな連中ばかりである。そんな中で、歳もバラバラな3人がコソコソと車の中で息を潜めているのは、何とも奇妙なことだった。一体、この3人はどういう関係なんだろう。職質されたらキョドる自信が大いにあった。
「まあ、そんなびびんなよ。警察ならもうここにいんだからよ」
場の雰囲気に飲まれてしまっていたのだろうか、知らず知らずのうちに身体がコチコチになっていた上坂に向かって下柳が言った。彼は刑事だから、こういうことに慣れているのかも知れない。今も車のラジオをポチポチいじっているから、一体何をしてるのかと尋ねてみたら、こういうホテルには盗聴器が仕掛けられていて、たまに中の声が聞けたりするから、周波数が合わないか確かめてると言っていた。
「……本当に聞こえてきたら聞き入っちゃうかも知れないから、今は外のほうに集中しようぜ」
「お、おう。そうだったな」
「しかし……だいぶ繁盛してるようだな。さっきからひっきりなしに客が出入りしてるけど」
「そうだなあ……普通は縄張り争いもあって、あそこまで入らないだろうに。この街は一つの一家が取り仕切ってて、客を独占してるみたいだな」
「そうなの?」
下柳はソープランドの入り口から目を離さずに続けた。
「元々、この街は地元のヤクザ連中が、シマを巡って三つ巴の戦いを繰り広げていたらしい。ところが15年前、そこへ関東の広域ヤクザがやってきて、数に物を言わせて彼らを傘下に収めてしまった。こっちのヤクザはバラバラでまとまりが無かったから、それぞれの一家が単独では、大規模なヤクザ組織に太刀打ちできなかったんだな。しかし、そこで黙ってなかったのが、お前の親父の親分であるとこの佐藤組だったそうだ。地元の利権を東京もんに掻っ攫われて、黙ってみてられるかって、巨大組織相手に敢然と立ち向かったらしい。佐藤組は終始劣勢だったようだが、よそ者には負けないというその姿が、地元連中の心を打ったみたいで、徐々に盛り返して、最終的に東京のヤクザを追い出してしまったそうだ。それ以来、この街は佐藤組が取り仕切っていて、外からやってくる連中にも負けない、盤石の体勢を整えているらしい」
「へえ……」
「そのお陰で、おまえの親父さんは警察にマークされてるみたいだがな。警察からすれば、地元だろうが余所者だろうがヤクザはヤクザ、こんな連中にのさばっててもらっちゃ困るから、何とかしてその資金源を断ちたいところなんだが、中々尻尾を掴ませてくれないらしい。何度か警察も踏み込んだ捜査を行ったそうだが、藤木興産の帳簿は綺麗なもんらしくて、俺が彼のことを調べてるって言ったら、なにか知ってるなら逆に教えてくれって詰め寄られたくらいだよ」
「そうだったのか……」
「彼はその抗争があった15年くらい前に現れて、気がついたら佐藤組の親分と懇意になっていたらしい。行くところ行くところ、みんな彼を丁重に扱っていて、特に風俗店の女の子たちにはすごくウケが良くてモテるそうだ。休日になるととっかえひっかえ女の子を連れて、パパ、パパって呼ばれて鼻の下を伸ばしている姿がよく目撃されてるらしいぞ」
「……パパ? パパねえ……」
「警察は彼をこの街のフィクサーみたいに思ってるみたいだな。ところが、お前も知っての通り、彼は自分の正体を隠していたから、こいつがどこの誰なのかって道警では長い間、大いなる謎とされていたようだ。まあ、単に借金で首が回らなくてコソコソしてただけなんだろうが」
「なんだか大変なことになってんな……名乗り出たら普通に会ってくれるだろうと思ってたけど、もしかして初めから素直に出ていってたとしても、相手にされなかったんじゃないだろうか……」
「それはないだろう、流石に……無いといいな」
「もっとはっきり無いと言ってくれよ」
「二人とも、おしゃべりはそこまでだ。来たみたいだぞ」
上坂達がそんな話をしていると、ソープランドの前にタクシーが乗り付けられて、その中から件の男が出てきた。昨日マンションで見た通り、中肉中背の白髪の老人。あの時もそう思ったが、どことなく上坂に似ているような、上品な雰囲気のする男だった。
そんな男がソープランドに入っていく姿は、何だか場違いなようにも思えたが……彼が玄関に近づくやいなや、中からワラワラと従業員が飛び出してきて、まるで軍隊みたいに左右に別れてお辞儀をしている姿を見ると、さしもの下柳も言葉を失った。
「ありゃあ……本物だな。ああいう連中は知ってるよ。下手に話しかけると、クビが飛ぶやつだ。物理的に」
「って、それじゃどうすんだよ。やっぱりマンションに直接尋ねていった方が良かったのかな」
「うーん……そうは言ってももう後の祭りだしな。よし、俺が行ってみよう。手帳を出せば、店も無碍には出来ないだろう。そして事情を話せば、親父さんも分かってくれるはずだ。上坂、それでいいな?」
「あ、ああ、頼んだ……ちょっと緊張してきたな」
しかし緊張している場合ではなかった。
下柳が車から降りて、ソープランドの中へ入っていった瞬間だった。上坂達が彼の背中を不安そうに眺めていると、突然、大勢の人影が現れて彼らの車を取り囲んだ。
一瞬の出来事に呆気にとられて身動き一つ取れずに居ると、男たちはドアを乱暴に開けて、中で身をすくめている上坂達を強引に引きずり下ろす。
「きゃああーーー!!」
っと、いつも余裕しゃくしゃくの江玲奈が甲高い悲鳴を上げる。
男たちはその声を黙らせようとして彼女の口を塞ぐと、パニックになった彼女が手足をばたつかせて暴れたせいで、苛立ちを募らせた男の一人が身動き取れないように羽交い締めにした彼女の腹部を思いっきり叩いた。
くの字に折れ曲がった彼女の身体が、ぐったりとしている。それを見た瞬間、上坂の中で何かカッと燃え上がるものが迸った。
彼は江玲奈を助けなければならないと、自分を取り押さえている男を強引に投げ飛ばして、江玲奈を捕らえている男に掴みかかっていった。その剣幕がすごかったものだから、男たちは一瞬ビックリしたようだが、しかしそこは多勢に無勢、おまけに武闘派ではなく頭脳派の上坂では屈強な男に太刀打ちできるはずもなく、彼はあっという間に取り押さえられてしまった。
「くそっ! 離せ! 離せよ!!」
「じゃかあしゃあ、クソガキャ! その口閉じんと縫い付けっぞ!!」
背中を強打されて息が詰まる。上坂がゴホゴホと咳き込んでいると、彼を押さえつけてるのとは別の男が顔を近づけてきて、凄んできた。
「おまえら何者だ? 何故、金さんのことを付け回している。事と次第によっちゃ、ただじゃ済まさんぞ」
金さんとは、上坂の父親のことだろうか。つまり彼らはヤクザの舎弟で、上坂達が父親のことを嗅ぎ回っていることに気づいて、逆に上坂達を捕まえに来たのだ。多分彼らは上坂達が犯罪を内偵しているのだと誤解しているのだろう。上坂は何とか弁解しようとしたが、ところが先程のダメージのせいで、咳き込むばかりで声が出なかった。
そんな風に上坂がゴホゴホやっていると、
「ちっ……まあいい、少し痛めつけてやれ」
呆れた風に、男がそう部下に命令する。すると彼らを取り囲んでいた男たちがニヤリと凶悪な笑みを浮かべて、上坂のことを見下しながら近づいてきた。
ヤバイ……
上坂は何とか立ち上がって逃げ出そうとしたが、先程の男に押さえつけられて身動きが取れない。すると男たちはバタつく彼の身体をサッカーボールのように蹴り上げて、実に愉快そうに哄笑をあげた。
ドスン、ドスンと腕や脇腹に衝撃が走る。強烈な痛みが体全体を駆け巡る。上坂は必死に逃れようとするが、それを待ち構えていたかのように、次から次へと男たちの蹴りが彼の身体に突き刺さった。
「ま……待て……待ってくれ……げほげほげほ」
なんとか声が出せるようになった上坂が、どうにかこうにか命乞いをしようとするも、彼らはそんなことお構いなしに、好き勝手に彼の身体を痛めつけた。その動きはどんどんとエスカレートしていき、ついに彼らの一人が上坂の頭を狙い始めた。その瞬間、上坂は背筋が凍るような衝撃が前身を駆け巡った。
ヤバイ……このままじゃ殺られる。
上坂の頭は割れ物なのだ。昔、頭を弄くられたせいで、普通の人間よりもずっと頭蓋骨が柔らかい。しかし、そんなことを知らないヤクザどもは、彼が必死になって身体を丸めて頭をかばおうとすればするほど、面白がって頭の方ばかりを狙い始めた。
バシン、バシンと蹴りが頭の周辺にあたる。上坂の前身から冷や汗が吹き出し、寒くも無いのに身体が震えてきた。
ヤバイ、本当に殺られる……上坂は最後のあがきとばかりに、地面をゴロゴロと転がって男たちの輪から抜け出そうとした。しかし、そんな彼の動きをあざ笑うかのように、先程から遠巻きに見ていた一人が行く手を遮るように立ちふさがり、その頭に蹴りをいれようとしてきた。
瞬間、上坂は失神しそうなほどの恐怖を覚えた。逃げ出そうとして無理をしたせいで、頭をかばえる体勢にない。このままじゃ本当に殺されてしまう。
待ってくれ。やめてくれ。殺さないで!
上坂は必死になって身体を捩ってその蹴りを避けようとするが、無情にもそれは今まさに彼の眼前へと迫ろうとしていた。
しかし彼が諦めて目を閉じた時……
バシン!
っと、乾いた音がして、その蹴りが上坂の目の前でピタリと止まった。
「なんだあ? おまえ……」
突然の出来事に、男が素っ頓狂な声を上げている。
目を瞑っていた上坂がその声を聞いて恐る恐る目を開けると、ついさっき彼の顔面を捉えようとしていた男の間に割り込むように、誰かの足が上坂の目の前に突き立っていた。
見上げれば、赤いポニーテールが風に靡いていた。
どこかで見たことがあるようなその後姿に暫し見惚れていると、その影は呆然と立ち尽くす男に向かってスーッと動き、次の瞬間、パンッ! っと音を立てたかと思ったら、その時にはもう、何故か男が地面に倒れていた。
突然の出来事に呆気にとられているヤクザの中で、寝転された男が悶ている。背中でも強打したのか、男はヒューヒューと情けない息を吐きながら、泣きながら地面をのたうち回っていた。
「なんじゃ貴様ぁ! どこの組のもんじゃああ!!」
「馬鹿ねえ、こんなうら若い乙女を捕まえて、どこの組のもんもないでしょ。強いて言うなら、3年B組よ」
呆気にとられていたヤクザたちは我に返ると、怒りの声を上げながら、突然乱入してきた少女に飛びかかっていった。
しかし、彼女はそんなヤクザ連中の動きなど、遅すぎてあくびが出ると言わんばかりに、物凄いスピードで彼らの間を縫うように駆け抜け、パンッ! パンッ! パンッ! っと、乾いた音を響かせながら、次々と男たちを倒していった。
まるで空気投げみたいに鮮やかな手並みに、さすがにヤクザたちの足も止まる。こんなもの現実にはあり得ない。良くて漫画か、せいぜい香港映画でしかお目にかかれる物じゃない。
一体こいつは何者なんだ?
あまりの衝撃にショックを隠しきれないヤクザたちの中で、しかし上坂はまったく別のベクトルの驚きで声を失っていた。
「え……? 委員長?? なんで???」
上坂を庇うように、男たちの前に立ちはだかったのは、有ろう事か東京に居るはずのアンリエット・ブランだった。
シャノワールの店員で、恵海の友達で、上坂のクラスメートの彼女が、何故こんな北海道の路地裏に居るんだろうか?
あまりに想定外の出来事に、上坂が唖然としていると、彼女の方はバツが悪そうな表情で、
「話はあと。それよりも、今はここから逃げるのが先決よ……女の子のお腹を殴るなんて許せないわね。全員、去勢してやるから、そこに並びなさい」
彼女はそう言い放つと、男たちの方へとずいっと一歩足を進めた。
ただ、自然体のまま前に進んだだけなのに、その一歩が何故かヤクザたちを後退させた。オーラでもあるのだろうか、それとも何かの体術か、まるで彼女の身体から風圧でも発しているかのように、彼らは強いプレッシャーを感じているようだった。
アンリがじろりと一睨みすると、江玲奈を羽交い締めにしていた男が、内股になって彼女を放した。それを見たヤクザの一人が、
「くそがっ! ガキに舐められてたまるか!」
その言葉に我に返った男たちが、ハッとなってアンリを取り囲むように間合いを測る。流石に一斉に飛びかかられてはたまらないからか、自然体だった彼女は軽く腰を落として前かがみになり、レスラーのような構えを見せた。
そんな一触即発の雰囲気の中で、上坂は解放された江玲奈に駆け寄って彼女を引っ張り上げた。腹を殴られた彼女はぐったりしていたが意識はあるようで、肩を貸してやったら何とか歩けそうな様子だった。
「江玲奈は無事だ」
「そう、じゃあ逃げるわよ。私がこいつらに飛びかかっていったら、構わず後ろを向いてダッシュで逃げて。私はあとから追いかけるから」
「え!? でも……」
「あんたがいても足手まといなのよ。わかるでしょ」
上坂が江玲奈を抱えてアンリの背後に回ると、彼女はそう言ってから、一つ長い息を吐いた。そしてストレッチするかのように、肩をポキポキと鳴らすと、スーッと男たちに向かって飛びかかっていった。
「くそっ! ガキにナメられんじゃねえ! おまえら、やっちまうぞ!!」
ヤクザたちが迫りくるアンリを迎え撃つ。多勢に無勢なのに、本当に大丈夫なのだろうか。上坂は不安になりながらも、彼女に言われた通りに、後ろを向いてこの場から逃げ出そうとしたが……
しかし、その足は数歩も行く前に止まった。
「一存……一存なのか?」
上坂が逃げ出そうとした先に、あのマンションで見かけた白髪の男が立っていた。
その隣には、何かよっぽど大変なことがあったらしく、全身汗だくになった下柳が立っていて、
「わりぃ! 遅れた! おまえら大丈夫か……って、アンリちゃん!?」
彼は必死になって戻ってきたら、何故かそこにアンリが居る事に気がついて、目を丸くして立ち尽くしているようだった。ススキノのホテル街にあるソープの前で、ヤクザと刑事と女子高生が、不思議な三つ巴の関係をつくり、お互いに一歩も動けず固まっている。
そして上坂も立ち尽くす。彼は頭の中が真っ白になってしまって、真顔のままその場に呆然と立ち尽くしていた。
眼の前に、父親がいる。なのに彼は何の感情も沸き立たなかった。何だかドッペルゲンガーにでも会ったかのような不思議な感覚だけがして、自分が何をしているのか、自分が何をしにきたのか、そもそも、自分とは何者なのか、何もかもが分からなくなってしまったような、そんな不安定な感情が身体の中を渦巻いていた。




