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【11:グレン・ダドリーの事情】

 炊事場に立ったリンは、まな板の上に洗った野菜を並べると、右手を目の高さまで持ち上げた。

 それを椅子に座って眺めていたロザリーは、リンの背中に声をかける。

「包丁は、いいの?」

「不要です」

 涼やかな声でそう答えて、リンは目の高さまで持ち上げた右手をスッと横に薙いだ。

 新緑色の目が硬質な宝石のように光を反射して美しく煌めく。形の良い唇が動いて言葉を紡ぐ。

「……参ります」

 リンがそう宣言した瞬間、まな板の上の野菜が浮かび上がり、クルクルと勢い良く回転し始めた。ただ回転しているだけではない。まるで、よく切れるナイフを添えたかのように、その皮が薄く削がれていく。

 そうして全ての野菜が皮を剥かれた状態になると、リンは伸ばした腕を頭上に持ち上げ、下に一気に振り下ろした。

「はっ!」

 裂帛の気合いと共に放たれた不可視の風の刃が、野菜を等間隔に切り刻む。

 刻まれた野菜は、まるで意思を持っているかのような動きで、流れるように鍋に落ちていった。

(すごいわ……)

 リンの作業を眺めていたロザリーは、静かに驚愕していた。

(すごい魔力の無駄遣い……)

 無論、今のは誰にでもできる芸当ではない。針に糸を通すような緻密で繊細な魔法制御技術がないとできない、まさに超絶技巧。

 だがやっていることは、野菜の皮むき。

「包丁でやる、という発想はないの?」

「この方が早く、正確ですから」

 この高位精霊は、本気で人間の文化を学ぶ気があるのだろうか、とロザリーは密かに疑問に思っている。




 ロザリーが記憶喪失になって十二日が経った。いまだにロザリーの記憶は戻らぬどころか、その手がかりすら掴めていない。

 ポーラが見舞いに来てくれた日から、あの手この手で外部の知り合いと連絡を取ろうと試みたのだが、ルイスが「まだ無理はよくありませんよ」と言って、やんわりと筆記用具を取り上げてしまうのだ。当然、散歩と称して外に出ることも許してもらえない。

 リンも外出だけは「許可できません」とキッパリ言い切った。どうやら、ルイスに厳命されているらしい。

 かくして、部屋で本を読むぐらいしかすることのなくなってしまったロザリーは、これ以上体力が落ちるのを防ぐために屋敷の中を歩き回るようになった。

 心配性なルイスはロザリーが歩き回っているとすぐにすっ飛んできて、手を貸そうとするのだが、今はルイスは王宮に出仕中だから、ロザリーも自由に動き回れる。

 炊事場に顔を出しても、リンは迷惑そうな顔をしたりはしなかった。彼女は基本的に、ロザリーがすることに口を出したりはしない。

「ロザリー様、味付けだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」

 リンはスープの鍋をかき混ぜながら言う。

 味覚のないリンに任せるより、自分で味付けをした方が良いのは確実だ。任せて、と頷いてロザリーが塩の壺を手に取ったその時、屋敷が大きな音を立てて振動した。

「きゃあっ」

 よろめくロザリーの体は、目に見えないクッションのようなもので柔らかく受け止められた。どうやら、リンが風の魔法でロザリーを受け止めてくれたらしい。

 大人でもぐらつくような振動を前にしても、リンは直立不動の姿勢を保ったまま、顔色ひとつ変えずに玄関に目を向ける。

「暴れ牛の襲来でしょうか」

「……この高級住宅地で?」

「ロザリー様に害なす者は、ひん剥いて切り刻んで犬の餌にしろ……とルイス殿より仰せつかっております」

 もし本当にルイスがそれを言ったのなら物騒すぎる。

 普通のメイドなら、そんなことできるはずがないと一笑に付すところなのだが、リンなら本気でやりかねないのが恐ろしかった。現にリンの周囲には、ヒュオンヒュオンと音を立てて風の魔力が渦巻いている。

 ロザリーが顔を強張らせていると、そんなロザリーを安心させるかのようにリンが言った。

「例えルイス殿の屋敷が木っ端微塵になろうとも、ロザリー様はお守りいたしますのでご安心ください」

「……屋敷も維持できるように頑張りましょう?」

 頼もしいような、不安なような……そんなリンの背中を見つめていると、玄関の方から元気な声が響く。


「ロザリーさぁーーーん! お見舞いに来たっすーーー!」


 リンは首だけを動かしてロザリーを見た。

「暴れ牛よりタチが悪いのが来ましたね。ひん剥いて切り刻んで犬の餌にしますか?」

「やめてあげて」



 * * *



 ルイス・ミラーの弟子であるグレン・ダドリーは、事故に遭った直後に一回会っただけだが、なかなかインパクトのある人物だったのでよく覚えている。

 金茶色の髪の背の高い青年だ。元気いっぱいで愛嬌があって、人懐っこい犬のような雰囲気がある。

 しかし、額のあたりが真っ赤になっているのはどういうことだろうか。

 ロザリーがまじまじと額を見ていると、グレンは恥ずかしそうに額を前髪で隠した。

「いやぁ、飛行魔術にちょっと失敗して……」

 なるほど、さっきの衝撃はグレンが屋敷の壁に衝突した時のものだったらしい。きっと、砲弾のように飛んできて、壁に頭から突っ込んだのだろう。

 ロザリーはソファに座るグレンの前髪を持ち上げて、怪我の状態を確認した。額は真っ赤になって、ぷっくらと膨らんでいる。

「頭の怪我は甘く見ない方がいいわよ」

 なにせロザリー自身、現在進行形で記憶喪失中なのである。

 ロザリーはリンに氷嚢と救急箱を用意してもらい、真っ赤になったグレンの額を冷やした。

「頭痛、目眩、耳鳴りがしたら、無理せず横になりなさい。吐き気がしたら、すぐに言って。吐瀉物が喉に詰まったら窒息する可能性があるから、寝るなら横向きに」

 ロザリーが淡々と指示を出すと、グレンは額に氷嚢をあてがったまま、へにゃりと眉を下げて笑った。

「なんかこの感じ、懐かしいっす」

「……つまり、私は記憶を失くす前も、こうしてあなたの手当てをしてたわけね」

「オレ、魔法の訓練中にしょっちゅうポカして医務室送りになってたんすよね〜。だから、ロザリーさんはオレの命の恩人っす! あ、これお見舞い!」

 そう言ってグレンが差し出したのは、木の皮に包まれた鳥肉だった。何故に肉。

 無言で肉を見つめるロザリーに、グレンはニカッと笑いながら言う。

「怪我した時は、とりあえず肉を食べれば元気になるっす! あ、その鳥、今朝シメたばかりの新鮮なやつなんで!」

「……どうもありがとう」

 とりあえず礼を言って、肉はリンに預けることにした。昼食の時にでも焼いてもらおう。

 そういえば、今は真昼間なのだが、グレンはロザリーの見舞いなどしていて良いのだろうか? そもそも、彼はルイスの弟子という位置付けだが、魔法兵団の人間なのだろうか?

「……あなたは、魔法兵団の人間なの?」

「違うっすよー。魔法兵団は上級魔術師の資格を持ってないと入団できないっす。オレ、下級魔術師の資格すら持ってない見習いなんで」

「……今更だけど、あなた何歳?」

「十五歳っす!」

 思ったよりも若かったことに、ロザリーは密かに驚いた。

 グレンは言動こそ幼いが、ルイスよりも背が高くてがっしりしているので、十代後半ぐらいだろうと思っていたのだ。

 正直にそのことを伝えると、グレンは照れ臭そうに頬をかいた。

「えっへっへ、オレ、大人っぽく見えますか? 毎日肉を食べてるおかげっすかね。へへへ……」

「あなたは、魔術師見習いなのよね? だったら、魔術師育成機関に通っているの? ……例えば、その……ミネルヴァとか」

 ミネルヴァの名前を出すと、グレンは途端に笑顔を引っ込めて、鼻の頭に皺を寄せた。何やら嫌な思い出があるらしい。

「……オレ、あそこ嫌いっす……つーか、三ヶ月で退学になったし」

 ミネルヴァは国内最高峰の魔術師育成機関である。そこを三ヶ月で退学になり、その後、魔法兵団団長の弟子になった……というのも、なかなか異色の経歴である。

 どういう経緯があったのだろう、とロザリーが頭を悩ませていると、グレンは不貞腐れた子どものような顔で、自分のことを語り出した。

「そもそもオレ、魔術師になるつもりなんて、なかったんっすよ」

「……え?」

「オレ、肉屋の息子なんスよね。ひい爺さんの代から肉屋だったから、オレも跡を継ぐもんだって思ってたのに……ある日突然、国から偉い人が来て、こんなこと言ったんすよ。


『七賢人が一人〈星詠みの魔女〉が予言をした。グレン・ダドリーがダドリー精肉店を継ぐと、この国は滅びるであろう……と』


 もう、訳わかんなくないっすか?」

「……そうね、訳が分からないわね」

 グレンが肉屋を継ぐことで滅びる国って、なんだろう。大丈夫かしら、この国……とロザリーは頬を引き攣らせる。

「そんでもって! その場で魔力計測をさせられて! そしたら、なんかすげー数値だってみんな大騒ぎになって、お前は魔術師になるのだーって、ミネルヴァに入学させられて!」

「……その数値って、いくつだったの?」

「260っす!」

 ロザリーは言葉を失った。

 上級魔術師の魔力量がおよそ150以上と言われている。200以上は天才、250以上は化け物級だ。250を超える者は国内に五人もいないはずである。

 まして、グレンは十五歳。最大魔力量はおよそ二十歳まで成長すると言われているから、まだまだ伸びる可能性があるのだ。

 グレンが魔術に失敗して「山を一つ吹き飛ばした」とか「竜巻を起こした」という話を、ロザリーは誇張表現だと思っていたのだが、この魔力量なら大いにあり得る。

「ミネルヴァに入学させられたはいいんっすけど、あそこって貴族ばっかじゃないすか! 庶民ってだけで周りの奴らは冷たいし、魔術の授業も全然ちんぷんかんぷんだし! そもそもオレ、四則計算だってあんまし得意じゃないんすよ!? 肉の勘定だって怪しいのに、魔術式なんて言われても、さっぱりっす!」

「……それ、肉屋を継ぐのも怪しかったんじゃ」

「勘定が得意な奥さんもらえば、問題なしっす! オレ、肉の解体は得意なんで!」

 ちなみに手土産の鳥肉も、彼が今朝捌いたものらしい。

 元気いっぱいのこの少年が、肉の解体をしているところを想像して、ロザリーはなんとも言い難い気持ちになった。

「そんでもってミネルヴァでは周りの嫌がらせが酷くって、しかもオレ、うっかり魔術を暴走させちゃって……校舎を吹っ飛ばして退学になって……」

 グレンはしゅんとした顔で俯いた。膝の上で握られた拳は、小さく震えている。

「こんだけ魔力があるのに制御できないのはヤバイから、いっそ、生涯幽閉した方がいいんじゃないかって偉い人に言われて……そんな時、オレのことを拾ってくれたのが、ルイス師匠なんす!」

 グレンの身柄はルイスが預かり、今後は弟子として魔術の指導をするということで、グレンは幽閉を免れたらしい。

「だから、オレ、本当に本当にルイス師匠には感謝してるんっすよ! そう師匠に伝えたら『感謝は不要です。これでミネルヴァのクソジジイどもに恩を着せられますから。はっはっは』って高笑いしてましたけど」

「……もしかして、あの人、口悪い?」

「悪いっすね」

 ロザリーの前では、とても美しい発音で甘い言葉を垂れ流すルイス・ミラーだが、リンやグレンに対しては、たまにポロリと悪態が混じる。

(前々から、薄々察してはいたのよね……あの人、裏表の差が激しそうって)

 ただ、ルイスがグレンを引き取ったことで、グレンが幽閉されずにすんだのもまた事実だ。

 魔術はもともと貴族が独占していた技術である。今は才能があれば庶民でも魔術師になれるが、その数は貴族に比べて圧倒的に少ない。

 国内最高峰の魔術師育成機関ミネルヴァでも、通っているのはその殆どが貴族である。特に爵位を継げない次男以下の子息や令嬢が多い。

 だからこそミネルヴァでは、平民に対するいじめときたら、それはもう酷いものだったのだ。

 靴を泥だらけにしたり、教科書を破いたり、校舎裏に呼び出して暴力をくわえたり……

(そうよ、だから、あの人のブーツはいつも、泥だらけで……)

 視界が霞む。

 頭がずきずきと痛みだし、まぶたの奥に校舎裏の光景が蘇る。


『酷い怪我じゃない! ×××!! 上級生にやられたの!?』

『返り討ちにしてやったけどな。大した実力もない貴族のお坊ちゃんが、オレに喧嘩売ろうなんて百年早い』

『もう、馬鹿言ってないで。ほら、手当てしましょう』


 そう言ってロザリーは、彼のあかぎれだらけの手を握って医務室に連れていって、手当てをしたのだ。

 大人しく手当てを受けていた彼はロザリーを見て、北国訛りの喋り方でボソリと呟いた。


『手当て、上手いな』

『あなたのおかげでね。もういっそ、医師にでもなろうかしら』


 カァッとロザリーの顔が熱くなる。

 自分が医師を志した理由の原点は、ここにあったのだ。

「ロザリーさん、どうしたんすか!? 大丈夫っすか!?」

 頭を抱えて俯いていると、具合が悪いと思ったのか、グレンが心配そうにロザリーの顔を覗きこんだ。

 ロザリーは「大丈夫よ」と力なく笑って、背筋を伸ばす。

(……思い出すのはいつだって、あの人のことばかりだわ)

 きっと、それだけ彼がロザリーにとって特別なのだ。

 ロザリーは縋るような思いで、グレンに訊ねた。

「……あなたは〈ミネルヴァの悪童〉って、知ってる?」

「へっ? うーん……なんか、聞いたことあるっす。昔、そういう学生がいたって。なんか、上級生相手に喧嘩ふっかけたりした、すごい不良だって……」

 グレンはミネルヴァに三ヶ月しか在籍していなかったので、やはりそれほど詳しくはないのだろう。

 それでも、ロザリーはどうしても、彼のことが……〈ミネルヴァの悪童〉のことが知りたかった。

「……あなたに、お願いがあるの」

「なんすか!? ロザリーさんの頼みなら、どんとこいっす!」

 前のめりになって胸をドンと叩くグレンに、ロザリーは掠れ声で懇願する。

「〈ミネルヴァの悪童〉がどんな人だったか、調べてほしいの……」

「ミネルヴァの卒業生なんすよね? だったら、師匠の方が詳しくないっすか?」

「……あの人は、私に何も教えてくれないのよ」

 ロザリーの呟きに、グレンは「えっ」と目を丸くする。

 ロザリーは苦く笑って、頬にかかる髪を耳にかきあげた。

「……私が記憶を失う前のことを聞いても、無難なことしか教えてくれないの」

 この先を言うべきか否か、ロザリーは迷った。

 だが、話し相手が少なかったことの鬱憤が、弱っていた心が、押し込んでいた本音を吐露する。

「きっと……記憶が戻らない方が、あの人にとって都合がいいんだわ」

 ロザリーの呟きに、グレンは何故か歯軋りをして俯いた。

(師匠のことを悪く言われて、気を悪くしたのかも)

 ロザリーが本音を口にしたことを後悔していると、グレンは軋む歯の隙間から小さく呟く。

「……なんで…………は……」

 グレンの表情は、怒りと苦悶を押し殺しているかのように見えた。

 その怒りが向けられている先は、ロザリーではない別の誰かだ。

 彼は誰に腹を立てているのだろう?

 ロザリーがじっとグレンを見ていると、グレンははっと顔を上げて、一瞬の感情の噴出を誤魔化すかのように空笑いを浮かべた。

「了解っす! 〈ミネルヴァの悪童〉のこと、師匠には内緒で、こっそり調べておきますね! ちょうど今、七賢人選考で師匠はドタバタしてるし……」

「……え?」

「どしたんすか?」

 ぽかんと目を丸くするロザリーに、グレンが首を傾ける。

 ロザリーは早鐘を打つ心臓をなだめながら、慎重に問いかけた。

「……今、七賢人の、選考を、してるの?」

「してるっす! なんでも〈治水の魔術師〉が七賢人を引退するらしくて、その後任を決めるんだとか……って…………あれ、えっ、もしかして……師匠、ロザリーさんに話して……ない……?」

 無論、初耳である。

 前々からルイスが七賢人の座を目指していたことは知っていたが、まさか既に選考が始まっていたなんて!

(……やってくれるじゃない、ルイス・ミラー)

 ルイスがそのことを黙っていたのは、当然意図してのことだろう。

 ロザリーは唇を歪めて暗く笑うと、ゆっくりと立ち上がった。

 グレンがソファの上でびくりと肩を竦める。

「あ、あ、あの、ロザリー、さん……?」

「その選考はどこで行われているのかしら……教えてくださる?」

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