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【10:ルイス・ミラーの懸念】

 ライオネルをティールームに案内したルイスは、慣れた手つきで茶の用意を始めた。本来は使用人の仕事だが、あの駄メイドにやらせようものなら、茶葉を一缶まるごとポットにぶちこみかねない。

「どうぞ」

 二人分の紅茶をテーブルに置くと、ルイスはシュガーポットをライオネルの方に差し出し、自身は苺ジャムの瓶を手に取る。そうして美しい銀のスプーンでジャムをとろりとすくい、茶請けのビスケットにではなく、紅茶のカップにドボドボと投入した。

 それを見たライオネルが、毛虫のように太い眉をひそめる。

「何度見ても慣れんな……お前の紅茶の飲み方は」

「家でぐらい、好きに飲んで構わないでしょう」

 すました顔で答えて、ルイスは苺ジャムを溶かした紅茶を啜る。

 ライオネルは自身のカップに砂糖を一匙だけ投入し、茶を啜った。無骨な大男だが、流石王族なだけあって茶器を扱う仕草は優雅で上品である。

 ライオネルはカップをソーサーに戻すと、険しい顔でルイスを見た。

「……ルイスよ」

「どうされましたか、殿下?」

 ニコリと優雅な笑みを返すルイスに、ライオネルは苦悶の表情で声を絞り出した。

「友であるお前に、このようなことを言うのは、非常に心苦しいのだが……私は、お前を疑っている」

 ルイスは僅かに目を丸くした。正直、ライオネルの言葉が予想外だったのだ。

「ロザリーの転落事故は、私の仕業だと?」

「事故のことじゃない。彼女の記憶喪失のことだ」

 ルイスの動きが止まる。灰紫の目が陰り、不吉な暗雲のように曇りだす。

「……どういう意味です?」

「お前は魔術を使って、ロザリーの記憶を封印したのではないか? ……精神関与系の魔術なら、そういうことも可能な筈だ」

 確かにそういった魔術は存在する。主に人の精神に関係する「精神関与系魔術」は、対象を意のままに操ったり、記憶を封印したり、なんらかのトラウマを植えつけたりといったことが可能だ。

 だが、精神関与魔術は国内の「準危険魔術」カテゴリーに分類されており、使用には魔術師協会の許可が必要になる。

 おまけに大量の魔力と、非常に繊細な魔力制御技能が求められるので、誰にでも使える術ではないのだ。

 それになにより……


「ライオネル」


 ルイスは怒りに満ちた声で、ライオネルを呼び捨てにした。殿下、ではなく。

 幾ら親しい学友と言えど、ライオネルは王族、ルイスは貴族ですらない平民だ。許される行為ではない。

 だが、ライオネルはそれを咎めたりはしなかった。彼自身、ルイスに対して酷なことを言っているという自覚はしているからだ。

「精神関与系は、後遺症が残ることもある危険な魔術です。それを、私がロザリーに使うとでも?」

「…………」

 ライオネルは返事に悩むように、ぬぬぅと唸った。

 傍目にはゴリラが威嚇しているようにしか見えないが、心優しいこの王子様は、ルイスのこともロザリーのことも心配しているだけなのだ。

 それが分かっているので、ルイスはふぅっと息を吐いて、怒りを引っ込めた。

「まぁ確かに相手次第じゃ、必要なら使いますけどね。便利ですし」

「……そうだな、お前はそれができる男だ」

「でも、ロザリーには使いませんよ。彼女が私を他人のような目で見た時、私がどれだけ胸が潰れる思いをしたと思っているのです」

 あの日、ベッドで目覚めたロザリーはルイスのことを、無表情に見上げていた。

 好意でも敵意でもない、ただの他人を見る目。

 あの時のロザリーにとって、ルイスは「どうでもいい存在」だったのだ。

 そのことがあんなにも胸を抉るなんて、ルイスは知らなかった……知りたくなかった。

(それにしても、ロザリーの記憶喪失の原因が魔術とは……考えもしませんでしたね)

 確かに記憶を封印する魔術はあることにはあるが、大量の魔力が必要になる。誰にでもできることではないし、なによりロザリーが記憶喪失になることで、メリットのある人間がいないのだ。

 仮に、ロザリーの転落事故が何者かの手によるものだとしても、犯人がわざわざロザリーの記憶を封印する理由が分からない。

(犯人はロザリーに顔を見られたので、記憶を封印した? ……いや、それなら殺してしまう方が確実)

 ロザリーが記憶喪失になることで得をしたのは、一緒に暮らす大義名分を得たルイスぐらいである。そういう意味では、ライオネルがルイスを疑ったのも頷ける。

 ルイスが紅茶を飲みながら思考を巡らせていると、ぬぉぉぉと唸っていたライオネルが唐突に頭を下げた。

「すまん!! 私は、友を疑っていた最低の男だ!! ロザリーの事故で心を痛めているお前に、私はなんという酷い疑いを!! 許してくれっ!!」

「…………はぁ」

 第一王子という立場でありながら、この熱苦しさと実直さ。

 思わず苦笑が浮かぶが、それでもルイスはこの熱血王子が割と嫌いではなかった。

「殿下、王族がそんな簡単に頭を下げるものではありませんよ」

「こういう時は己の非から目を逸らさず、謝罪するのが道理であろう!」

「そんなもん、適当にごまかして有耶無耶にすりゃいいんですよ。政治とは得てしてそういうものです」

「…………」

「おっと失礼」

 ルイスは口元に手を当てて、いかにもお上品そうに笑ってみせる。そんなルイスをライオネルはじとりとした目で睨み、低く呻いた。

「確かに誤魔化すことが必要な時もあるのは分かる。だが、先程のお前の振る舞い……あまりに露骨ではないか」

 おそらく学生時代の話題を無理やり逸らした時のことを言っているのだろう。

 ルイスはすまし顔で紅茶を一口啜った。

「余計なことなど、思い出さなくていいと思ったまでです。『ミネルヴァの悪童』と……あぁ、そうそう、アドルフ・ファロンの名前も、ロザリーの前では出さないでいただきたい」

 〈風の手の魔術師〉アドルフ・ファロンもまた、ルイス、ロザリー、ライオネルの同級生である。

 ルイスのことを何かとライバル視していたので、ライオネルもよく覚えているのだろう。アドルフの名を耳にするや、ライオネルは太い眉をぴくりと動かした。

「……〈風の手の魔術師〉アドルフ・ファロンか……彼もまた、七賢人候補であったな」

「先程、私にちょっかいを出しに来ましてね。学生時代から変わらず、粗野で不愉快な男です。できれば、ロザリーには近づけたくないんですよ」

 できれば、などと我ながら生温い、とルイスは密かに苦笑する。

 正確にルイスの心情を反映するなら「死んでも会わせたくない」という方が正しい。

 もし、アドルフがロザリーと出会うようなことがあったら、ルイスはうっかりアドルフを八つ裂きにしてしまいかねない。

 ……そんな物騒なことを、ルイスがすました顔で考えていると、ライオネルがふと何かを思い出したような顔をした。

「そうだ、そのことで私はお前に謝らなくてはならないことがある」

「疑っていたことなら、先ほど大変熱苦しい謝罪をいただきましたが?」

「そのことではない。七賢人選考のことだ」

 ライオネルは目を閉じると、鼻からフンスと息を吐く。

 そして硬い声で言った。

「お前と私が友人であることから、お前は『第一王子派』だと思われている。『第二王子派』のクロックフォード公爵が、お前を七賢人にせぬよう手を回している……という噂を耳にした」

「……ほぅ?」

 リディル王国の現国王には、母親の異なる王子が三人いる。

 第一王子ライオネルは現在二十五歳。母親は隣国ランドールの姫君。

 第二王子フェリクスは、現在十六歳。母親はクロックフォード公爵の娘。

 第三王子アルバートは、現在十二歳。母親はエインズワース侯爵の娘。

 順当に考えれば、第一王子のライオネルが王太子となるところだろう。だが、王は未だにどの王子を次期国王にするか指名していない。

 なにより、第一王子ライオネルの母親は小国の姫君なので、このリディル王国内での後ろ盾があまりに少なかった。

 一方、第二王子フェリクスの母親は既に逝去しているが、その父親はリディル王国内で最も強い権力を持つクロックフォード公爵である。国内では絶大な権力を有している。

 第三王子はまだ幼いことから、王宮内は第一王子派、第二王子派、中立派と派閥が分かれてていた。

 そして、これは七賢人選抜と無関係な話ではない。七賢人は政治的に強い発言力を持つのだ。

 それ故七賢人もまた、第一王子派、第二王子派、中立派に分かれているという。

「現在の七賢人は、中立派が多いと聞きますが」

「うむ、だからこそクロックフォード公爵は、自分の息のかかった人物を七賢人に送り込みたがっている」

 それが誰なのか、ルイスにはすぐにピンときた。

「……〈風の手の魔術師〉アドルフ・ファロンですね」

「その通りだ」

 道理で全てにおいて自分に劣るアドルフが七賢人候補になれたわけだ、とルイスは納得した。

 アドルフが匂わせていた「後ろ盾」とやらは、クロックフォード公爵というわけだ。 

 生真面目なライオネルは、友人のルイスを政治的な争いに巻き込んでしまったことを酷く気に病んでいるようだった。

「私と友人だったばかりに……すまない」

「謝罪は不要です。別に貴方と友人でなくとも、私は貴方を次期国王に推していたでしょう」

「ルイス……」

「私、第二王子嫌いなんで」

「…………」

 第二王子のフェリクスはライオネルとは九歳離れているが、十六歳という若さでありながら語学が堪能で、既に諸国との外交で一定の成果を見せている。

 また、第二王子は母親譲りの優れた容姿で、社交界の令嬢達をも虜にしていた。無骨なライオネルとは大違いである。

 国内での第二王子の評判はすこぶる良い。美しい容姿に温厚な性格。誰にでも慈悲深く、まるで天の使いのよう……などと称賛する者もいる。

 だが、ルイスに言わせれば、それら全てが「胡散臭い」のだ。

 人はそれを同族嫌悪と呼ぶのだが、この場にそれを指摘する者はいなかった。

「ルイスよ、あまり弟を悪く言わないでくれ。私はフェリクスもアルバートも、大事な弟だと思っているのだ」

 そう苦言を漏らすライオネルは大真面目であった。彼は本心から、弟達を大切に思っているのだ。向こうがどう思っているかはさておき。

 まったく人の良いことで、とルイスは苦笑する。

 ライオネルは王位にさほど興味がない。なんだったら、第二王子のフェリクスが継げば良いと思っている節すらある。

 だが、第二王子が国王になったら、第二王子の後ろ盾であるクロックフォード公爵家に王家が乗っとられる可能性が高い。

 それならライオネルが王になった方が、まだマシだというのがルイスの考えだった。

(なんにせよ、七賢人選抜にクロックフォード公爵家が口を挟んでくるとなると、些か面倒だな)

 七賢人選抜には、国内の有力貴族の意見も少なからず反映されるのだ。

 そうなると〈風の手の魔術師〉アドルフ・ファロンの存在は無視できなくなってくる。

 早急に手を打たねば、とルイスが思案を巡らせていると、ライオネルお付きの女騎士が控えめに声をかけてきた。どうやら、ロザリーとの話は終わったらしい。

「騎士殿、ロザリーの具合はいかがですかな?」

「……はい、今は疲れたから少し横になりたいと」

 彼女がそう言えば、ライオネルは気を利かせて「そろそろ失礼する」と立ち上がる。

 ルイスがリンと共に門まで送ると、ライオネルは馬車に乗る直前にルイスを見て、言った。

「ルイス・ミラー。私はお前を友として信じている。どうか……七賢人になってくれ」

「ありがたきお言葉、恐悦至極にございます。殿下のご期待に添えますよう、全力を尽くしましょう」

 お付きの騎士の目があるので、ルイスは殊更丁寧な態度で腰を折る。

 ライオネルは一度だけ頷いて、女騎士と共に馬車に乗り込んだ。

 やがて馬車が遠ざかっていくと、ルイスを真似て礼をしていたリンが、顔を上げてボソリと呟く。

「立派な人間ですね」

「あれが、王族という生き物ですよ」

「ルイス殿より好感が持てます」

「一言多い」

 じろりとリンを睨んだルイスは、ふぅっと息を吐いて屋敷へ足を向ける。

「ラザフォード先生に、姉弟子殿に、ライオネル殿下に……今日は客人の多い一日で些か疲れました。ロザリーの顔を見たら、すぐにでも休みます」

「……カーラに会ったのですか?」

 常に無表情で淡々と話すリンの声が、俄かに低くなる。

 ルイスの姉弟子〈星槍の魔女〉カーラ・マクスウェルは、元七賢人であり、そして……どういうわけか、この駄メイドが慕う相手でもある。

 リンは足音一つ立てずに、するりとルイスの前に立ち塞がると、キスでもできそうなほど至近距離でルイスの顔を覗きこんだ。

「私がカーラを慕っていると知りながら……私のいないところで、カーラと会ったのですね?」

「師匠も同席の上で、少し話をしただけですよ」

 ルイスはあっさりとそう言ったが、リンは無表情ながらやけに凄みのある顔でじぃっとルイスを見つめて、低く吐き捨てる。

「この泥棒猫」

「どこで覚えたのです、そんな言い回し」

「こういう時に使う言葉だと、最近読んだ本で」

「お前の読んだ本が偏っていることは、よく分かりました。娯楽小説を読む前に、主人に対する口の利き方を勉強しなさい、この駄メイド」



 * * *



 ポーラが部屋を出た後も、ロザリーはベッドの上で身を起こして、これからのことを考えていた。

 まず、早急にすべきは怪我の治療。並行して、記憶を取り戻すために色々な人から話を聞きたい。

 特に転落事故の経緯、自分とルイス・ミラーが婚約するに至った状況、ロザリーの学生時代の話、そして……きっとロザリーの初恋だったのであろう〈ミネルヴァの悪童〉という人物について……知りたいことが沢山あるのだ。

(今のところ頼れるのは、ポーラだけだわ)

 ポーラに「これからも友人でいてほしい」と告げたところ、彼女は感極まった様子で何度も頷いてくれた。彼女のことは信用できる。

(ハウザー先生は悪い人ではなさそうだけど……ルイス・ミラーの味方だと思った方がいい)

 ロザリーが「階段から落ちた」とルイスが嘘を吐いた時、ハウザーはルイスに口裏を合わせたのだ。恐らく彼は、ルイス側の人間なのだろう。

 そんなことを考えていると、部屋の扉がノックされ、盆を手にしたルイスが中に入ってきた。ルイス一人だけで、リンはいない。

 ルイスは盆の上に乗せていた水差しをサイドボードに置くと、ロザリーの顔を見て穏やかに笑いかける。

「女騎士殿とのお喋りは楽しかったですか?」

「えぇ、とても」

 少なくとも、ルイスとの中身の無い会話よりは余程有意義だった……という本音をロザリーは声に出さずに呟く。

「……何か、思い出せそうですかな?」

「いいえ、ごめんなさい」

「謝らないでください。記憶を取り戻すまで……ここでゆっくり療養してくださって構わないのですから」

 そう言ってルイスはドレッサーに目を向け、真新しい櫛を取り出した。女性が喜びそうな可愛らしい装飾を施した櫛だ。これもきっとロザリーのために用意された物なのだろう。

「失礼」

 ルイスはロザリーの髪を手袋をした手ですくい上げて、そっと櫛を通す。お世辞にも手入れが行き届いていると言い難いロザリーの髪は、櫛がすぐ引っかかる程度には、ごわついていた。

 ロザリーは自分の髪を梳く男の丁寧に編まれた栗毛を見る。艶やかで美しい髪だ。三つ編みの先端を摘んで触れれば、細い髪は指先を柔らかくくすぐる。当然枝毛なんてある筈もない。

 上流階級の男性が髪を伸ばすのは、さほど珍しいことではない。

 兜をかぶる騎士は首回りの当たりを柔らかくするために髪を伸ばすことがあるし、それでなくとも、手入れの行き届いた美しい髪は裕福さの象徴なのだ。

 兜をかぶることのないルイスが髪を伸ばす理由は、きっと後者なのだろう。

 ロザリーはルイスの三つ編みの先端を摘みながら、ポツリと呟く。

「……あなたの髪とは大違いでしょう」

「私は好きですよ。ロザリーの髪」

「そう、ありがとう」

 素っ気なく言葉を返すと、ルイスは櫛を置いて、ドレッサーから可愛らしい小瓶を取り出した。中には透明な液体がとぷんと揺れている。

 ルイスは手袋を外すと、小瓶の中身を手のひらに少量垂らしてから、ロザリーの髪に馴染ませた。

「私が普段使っている香油です」

「……良い匂いね」

 香油からは、ほんのりと柑橘の香りがした。ルイスの細い指がロザリーの髪を梳く度に、パサパサだったダークブラウンの髪は少しだけ毛先が大人しくなる。

 ロザリーは、自分の髪を梳くルイスの手を見た。彼は女性的な顔立ちの美しい青年だが、手は男性的で関節がしっかりとしていた。それでも、あかぎれなどはある筈もない。美しい白い手だ。

 ルイスはロザリーの髪に香油を馴染ませてから、もう一度丁寧に櫛を通した。

「できましたよ」

 ルイスは香油の付いた手を拭うと、ロザリーの前に手鏡をかざしてみせる。鏡の前では、やはり冴えない顔の女がぼんやりとこちらを見ていた。

 以前見た時よりも、髪が艶を取り戻してはいるけれど、ルイスの横に並ぶと酷く見劣りする地味な女だ。

 ロザリーは鏡から目を逸らして、ルイスを見上げる。

 優雅な笑みの似合う女性的で美しい顔、艶やかな長い栗毛、あかぎれ一つ無い白い手……そしてなにより、上流階級の人間に相応しい美しく滑らかな発音。

 大抵の女性は、彼に胸をときめかせたりするのだろう。だが、ロザリーにとっては、ルイス・ミラーを構成する全てが、好みとまるで真逆なのだ。

 暗い気持ちで黙りこんでいると、ルイスはロザリーの頬に指先で触れた。

「……キスを、しても?」

 ここで拒んで、ルイスの気分を害するのは得策ではない。

 いずれ、婚約破棄を叩きつけてやるつもりではいるけれど、それは今ではないのだ。

「私達は婚約者なのでしょう?」

 好きにすればいいわ、と冷めた気持ちで思いながら答えれば、ルイスは切なく微笑んで、ロザリーの唇に触れるだけの口づけを落とした。

 冷たい唇がそっと離れて、愛を囁く。


「……愛してます、ロザリー」


 七賢人になるために、利用しているだけの癖に。

 なのに、どうしてこんなにも彼は、ロザリーのことが愛しくて愛しくて堪らないような、苦しくて切ない顔をするのだろう。

(どうして、私は……)

 ポーラと話をして、疑問に思ったことが一つある。

 記憶を失う直前、屋上でポーラと言葉を交わした際に、ロザリーは「父には逆らえない」といった旨の発言をしている。だから、婚約を拒めなかったのだと。

 だが、ロザリーが本気で拒めば、婚約を破棄する方法はいくらでもあった筈なのだ。


(……どうして、記憶を失う前の私は、本気で婚約を拒絶しなかったのだろう)


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