切ることのできない赤い糸
由花と二人なら、何でもできるという根拠のない自信が湧いてくる。いくら今の母でも、由花が直接顔を見せれば蔑ろにされることもないだろうと、多希はそう考えていたから。なのに、
「あ、あら由花ちゃん。何か用事?」
たとえ面影を探すのが難しくても、たとえ自分の親だと思いたくないほど、それくらい変わってしまったとしても、由花が直接顔をだせば目を覚ましてくれるかもしれない。実の娘のように可愛がっていたのだから。
そんな多希の期待が無駄だったことは、由花を見た母親の態度ですぐにわかってしまった。
それでも多希は諦めなかった。母親に先ほどの話しを撤回してほしいと必死になって懇願した。もちろん由花も一緒になって、真剣にお願いしてくれた。
二人で必死に説得し、真摯な想いを伝え、しっかりと頭を下げたあと、顔を上げた多希は、少しも表情が変わらない親に、ただ絶望しか感じなかった。
「あのね、やっぱり今まで通りはよくないと思うの」
幼い子供に言い聞かせるような母の口調。
どうしてダメなことが分からないのかと、呆れられているのが嫌というほどよくわかる言い方だった。
「二人はもう高校生なのよ。多希は男だし、由花ちゃんは女の子。二人が夜遅くまでお互いの部屋にいるのがよくないことだってわかるでしょ? ご近所からも変な噂をされちゃうし、ちょっとは家族のことも考えてほしいの。私もねぇ、いろいろと聞かれたことがあって、はっきり言えば迷惑だったこともるし」
今まで放置、というかちゃんと認めていたことを棚に上げて、さも当然の指摘だというふうに言い聞かせてくる。
それだけではない。迷惑だと、そうはっきりと言われてしまった。
多希はもちろんショックだったが、由花はそれ以上に衝撃を受けてしまったらしい。今まで優しくしてくれて、実の娘のように接してくれていた大人からの、突然の拒絶。
それが子供にとってどれだけ辛いことか。多希には想像すらできない。
顔を俯けてしまった由花は、もうそこで心が折れてしまったように多希には見えた。
多希だってそうだった。人とはこんなにも変わってしまうのだろうかと、実際の例をその眼で見てもまだ信じたくない。
今まで一緒に暮らしてきた母親と、目の前の人物は別物で、実は欲に目がくらんだ怪物なのではと本気で考える。
それが現実逃避でしかないことも、もちろん理解しながら、それでも妄想に逃げることを止めることはできなかった。
「ねぇ由花ちゃん、いつまでも遊んでたいのはわかるけど、千聖ちゃんと多希の将来のことを、少しでも考えてくれないかしら」
とどめとなったのはそんな心無い言葉。それは自分の息子を盾にして、自分の欲を叶えるためだけの攻撃魔法のようだった。
ついには由花に直接苦言を呈した母だったなにか。
言い方にはさすがに気をつかったのだろうが、言っていることは、由花を責めていることに変わりはない。
多希は自分の親が、由花にこんなことを言っている現実を受け入れたくなかった。
「それは母さんたちが勝手に!」
我慢できなくなった多希が口を開いた瞬間、家に鳴り響くインターホンの音。
空気を読まない来客は誰だろうか。イラついた多希とは違い、嬉しそうに玄関に向かう母親。その姿を見れば、来客が誰なのかは、すぐに察することができた。
「多希君!」
「やぁ、せっかくの休日だし、みんなで遠出しよう。お母様と多希君が一緒に乗れるように、いつもより大きな車で来たんだ。さっそく行こうじゃないか!」
場違いなほど明るい二人の声。
来客は多希の予想通り千聖と、千聖の父親だったようだ。言い方的に、車には千聖の母も当然待っているのだろう。
この場が明らかに重い空気で、由花が沈痛な面持ちをしているというのに、まるで視界にも入っていないかのように、千聖一家と母は明るく会話をはじめてしまう。
一つの空間でこうも空気が二極化しているのは、単に異様でしかなかった。
「あ、江田さん。いらっしゃってたんですね。すみません、お邪魔でしたでしょうか?」
さすがに千聖は、由花を気遣って声をかけていた。それを由花が求めているかどうかは別の話しだが。
「……全然大丈夫だよ。私は帰るところだったから」
「そうなんですか? なんだか急かしてしまったみたいで申し訳ありません」
「そんな、気にしないで……じゃあ私はこれで」
明らかに無理をしているだろう笑顔の由花が、千聖に手を振ってそのまま出ていこうとする。多希には痛々しくて見ていられないその笑顔は、千聖にはどう見えるのだろうか。
にこやかに見送る千聖の横を通り抜け、多希は由花の腕を掴んだ。
「多希?」
「やっぱり納得なんてできないよ。母さん、僕は今日、由花の家に行くから」
視線に非難の意志を込めて、多希は力強く母を睨みつける。目を点にして固まる母は、一瞬の沈黙のあと、すぐに顔を真っ赤にして駆け寄ってきた。
「なに言ってんのあんた! 鷺沼さんたちと出かけるのは前から決まってたんだから!」
「僕は聞いてないよ。母さんがかってに決めたんでしょ」
「そんなことどうだっていいでしょ! 鷺沼さんに迷惑かけないで!」
「迷惑をかけたのは、僕の予定も確認しなかった母さんだ。僕は最初から由花と一緒にいるつもりだったからね」
「まだ言ってるのアンタ! 由花ちゃんとはもう遊ばないように言ったでしょ!」
「僕は納得してないよ!」
「千聖ちゃんに悪いと思わないの! 他の女の子のことなんて考えるんじゃないわよ!」
「母さんだって、前は由花のこと娘みたいに可愛がってたじゃないか!」
「そんなの昔のことでしょ! 今は千聖ちゃんがいるんだから、ちゃんと考えなさいよ!」
ヒートアップする親子の会話。
何もかもに納得できない多希は、折れるつもりなんてまったくない。多希の母はただ、千聖一家の心象をこれ以上悪くしまいと必死だ。
対話なんてするつもりはないらしく、多希を頭から押さえつけようとしてくる。
千聖一家から多希が愛想をつかされないよう、よほど必死になっているのだろう。
由花がこの場にいるというのに、まったく気を使う様子もなく、酷い発言を繰り返す。多希にはそれがまた許せなかった。
撤回させようと躍起になる。それに呼応するように、多希の母もボルテージが上がっていく。
もうこのまま二人が離れ離れになるまで止まらない。そう思わせるような言い争いは、ある人物の、たった一言で収まった。
「もういいよ多希」
多希の袖を掴んだ由花だった。
弱弱しく消え入りそうな声。それでも多希は、由花の声をしっかりと聞き取った。
振り向いて、すぐ後悔する。
多希は由花の扱いに我慢できなかった。なんとか撤回させてやりたくて必死になった。
由花のために。でもそんな多希の言動が、逆に由花を傷つけていたのだから。
目の前で繰り広げられる言い争い。その話題の中心は自分で、実の母のように慕っていた人から、聞きたくもないようなことを言われている。
そんな状況に、由花はもう居たたまれなくなっていたのだろう。
潤む瞳のまま、無理やり笑うその表情は、ヒートアップしていた多希を、一瞬で冷静にするほどに痛々しいものだった。
「ごめん。私が我儘だった。ちゃんと多希の将来のことを考えたら、絶対に千聖さんの方がいいもんね」
「由花、なに言って」
「なんでもない。じゃあね多希……さようなら」
さようなら。
その言葉が、やけに重く多希にのしかかる。
ただの別れの挨拶だ。一般的なそれは、日常でも普通に使われる。
だから今の言葉に深い意味なんてない。そんなふうに言い聞かせてみても、多希の焦燥は激しくなるばかり。
もう由花に会うことができない。そんなよくない想像をしてしまい、多希は離れていく由花の背に手をのばした。
「待って多希君」
由花の姿を隠すかのように、間に入ってきたのは千聖だった。
邪魔をするなと、多希は目に力をこめて睨みつける。感情をむき出しにした多希だったが、その視線を受けている千聖は、拍子抜けするほどに落ち着いていた。
「追いかけちゃったら、江田さんをもっと苦しめることになるんだよ」
気にせず通り抜けて行こうとした多希は、千聖の言葉に動きを止めざるをえなかった。
真摯な瞳で見つめられる。本当に、真剣にこちらのことを考えてくれている、そう思わせるような瞳だった。
「本当に江田さんのことを考えてるなら、このまま行かせてあげて。もし多希君が江田さんと無理をして付き合ったとして、その後のことを冷静になって考えてみて、お願い」
千聖は淡々と話し続ける。
これから先、もし多希が母親の言う事を無視して、由花と無理矢理付き合ったとする。学生のうちにその関係が終われば、まだいいかもしれない。
けれどもし、そのまま結婚までしたならば、由花は多希の母親と、どう接すればいいのか、それを考えてみて、と。
祝福されないだけでは済まされない。疎まれ、ひどければ恨まれる。
自分を憎む人間と、長い時間を共有して生きていかなければならない。
そんな苦しい未来を、由花に背負わせる覚悟は本当にあるのか? そんなふうに由花を苦しめてまで、自分の想いを、自己中心的に成し遂げるのか? と。
多希は動けなかった。
だって多希は、この場に由花を連れてきたことすら後悔していたのだから。母親との言い争いで感じていた罪悪感を掘り起こされる。
もし由花を追いかければ、またあんな想いをさせて悲しませてしまうことになる。
冷静になった頭にそんな事実を突きつけられたら、多希はもう、由花を追いかけることができなくなった。
そうしているうちに、気がつけば由花は、もうとっくにいなくなっていた。
去り際の背に伸ばした手は、何も掴むことなく、ただ空を彷徨う。そんな多希の手を取ってくれたのは、千聖だった。
千聖の手で丁重に包み込まれる。腫れ物を扱うような手つきではない。大切に、大事に、そんな千聖の気持ちが伝わってくるようだった。
シミ一つない白い腕、その腕は心配になるほど細くて、さらに細いその指は、少しの力だけでも折れてしまいそう。
それくらい頼りない手を、多希には振り払う気力が残っていなかった。
「ごめんね多希君」
目が合うと、少女は花のように微笑んだ。
少女の小指から伸びてくる赤い糸が、多希にははっきりと見える気がした。
その赤い糸は、痛いほどに多希の小指に絡みつき、まるで指だけでは足りないというかのように、多希の腕に、脚に、身体中に纏わりつく。
少しずつ、少しずつ、多希は自由を奪われていたのだろうか。
気付いたところでもう遅い。重くなった身体は、もう多希の意志だけでは動かすことができないほど、運命の赤い糸で、がんじがらめにされていた。
「ずっとずっと、私のそばにいてほしいんです」
運命の赤い糸は、多希が思っていたようなものではなかったのかもしれない。
まるで、少女から勝手に離れることを許さない足枷のように、重く、さらに重く、複雑に絡みつく赤い糸。自由を奪うかのように纏わりつくそれに、多希は、自分の全てを、絡めとられてしまったような気がした。




