かけがえのないもの
「ん、ぅん~」
部屋で宿題を片付けていた多希は、なんとも間抜けな声が聞こえて顔を上げた。
多希が自分のベッドに目を向ければ、そこには本来の主ではない少女が横になっている。
一見すると外見の整った少女は、普通に寝ているだけならば、さぞ絵になったことだろう。だが少女は、残念ながら普通に寝ているわけではなかった。
豪快に大股を開いて寝ている少女。たまに先ほどのような不明瞭な寝言も言う。それだけでもなかなかだが、薄い部屋着の裾がめくれて綺麗なお腹が露になっているし、ズボンがずり下がっていて、腰のあたりでパンツが少し見えてしまっていた。
この惨状では、とても絵になるとは言えないだろう。
ちなみに、多希にとって今の少女の姿は見慣れたもので、その可愛らしい外見と豪快な寝相のギャップに、今更幻滅したりすることはない。
ただいくら慣れているとはいえ、高校生という年頃男子の多希としては、異性のあられもない姿は、どうしても目のやり場に困るというもの。
高校生になる前から目立っていた発育のよい胸が、彼女の穏やかな呼吸に合わせて静かに上下している。
男子の中では身長が低い多希と、ほぼ同じくらいのその身長は、女子としては少しだけ高身長にあたるだろうか。
中学までは女の子らしいからと伸ばし続けていた黒髪は、高校に入るときにばっさりと切ってしまった。今は肩に届かないくらいの長さで、色も明るめの茶色に染めている。当時は多希も戸惑いはしたが、今ではすっかりと見慣れてしまい、明るくて快活な彼女によく似合っていると思っていた。
少女はいつもこうして、多希のベッドで寝てしまう。だが二人は別に付き合っているわけではない。それでもこれほどまでに二人の距離が近すぎるのは、多希と少女が幼馴染で、昔からお互いの部屋で過ごしてきたからだ。
「ねぇ由花、もう起きて」
声をかけるも少女、多希の幼馴染である由花は、それくらいでは起きる気配もない。
「ねぇってば」
「ぅ、うふふふ……」
由花は一瞬身体全体を震わせて、それからまた寝息をたてはじめた。
よく言えば明るく大らかな性格、悪くいえばちょっと抜けているところある。そんな性格を表すかのような寝姿。
由花にとって多希のベッドは、よほど寝心地がいいのかもしれない。特に高級なマットや枕というわけではないというのに、何がそんなによいのかと、多希は不思議でならなかった。
この寝姿を見るに、生半可なことではまるで効果はないのだろう。多希は経験からそう感じ取った。ならばと、多希は三度目の正直で、由花の肩に手をおき少し強めにゆすった。
「由花ってば、起きてよ。もうそろそろ帰らないとだよ」
「ん、ぅぁ、たきぃ?」
寝ぼけているからだろうか、幼い子供のような舌足らずの声になっている。いまだ完全には覚醒していないのだろう。それでも多希に身体を揺さぶられ続け、さすがの由花もまた目を閉じたりはしなかった。
「ちゃんと起きて。もうかなり夜遅いよ由花、そろそろ帰りな」
「ん、ん~まだ平気でしょ、もうちょっと寝かせて」
「いや、そしたらもう日付変わるよ」
「いいよぉ別に。泊まるから」
「泊まっていいかどうかはね、由花が決めることじゃないんだよ」
「じゃぁ、泊めてください」
「ダメです。おばさんとおじさん心配するでしょ?」
「え~……じゃあ、起こして」
かなり粘っていた由花だったが、多希の説得により観念したのかもしれない。だが、それでもただでは起きないという、鋼のような意志を多希は感じ取った。
仰向けのままの由花が、両手を多希に向かって伸ばしてくる。下手に近づけばそのままベッドに引き込まれてしまいそうだ。過去に何度かやられたことがある多希は、その経験を活かして、今の由花には近寄らないことにした。
「ほら由花、いい加減自分で起きなさい! もう子供じゃないんですからね!」
「ママ化するのはやめて、起きるから」
必殺技、由花ママのマネを多希が披露する。顔を歪めた由花が、やっと心から観念したのか、しぶしぶといった様子で身体を起こした。とは言えその顔は不満そのもので、まだ寝ていたいという感情を隠そうともしていない。
「なんかさぁ、最近の多希きびしくない?」
「え、そうかな?」
「だってちょっと前までは普通に泊めてくれてたじゃん」
「ま、まぁ僕たちも高校生になったし、一応ね」
「今更なに気にしてるの? つい数か月前まで一緒に寝たりしてたじゃん」
「それは中学生だったからセーフっていうことにして」
「別にアウトなんて言ってないってば、、むしろ気にすることないって私は…」
起きたてで乱れた髪の毛をかきながら、ぶつぶつと文句がとまらない様子の由花。満足する前に起こされた由花は機嫌が悪い。それを知っている多希は、なるべく由花を刺激しないように、先ほどまで取り組んでいた宿題の元に戻ることにした。
「ねぇ聞いてる多希? っていうか何してるの?」
「宿題。偉いでしょ」
多希は由花が寝ている間に進めた自分の成果を見せつける。
「あぁ、英語のやつ?」
「そそ、あの先生厳しいからさぁ」
少しの間、ぼーっとしていた由花が、急に目を見開く。どうやら宿題のおかげで完全に目が覚めたらしい。
「そういえば私、教科書とか全部ロッカーにおいてきちゃった!」
「えぇ、だらか普段から持ち帰る癖をつけておきなさいとあれほど」
「ママ化やめて。別にいいよ。人は怒られて成長するものだから」
「そういうのいいから、どうせ学校まですぐなんだから、明日取りにいくよ」
「えぇ〜せっかくの日曜なのに?」
「つべこべ言わない」
「……うぃ。やっぱり多希がきびしい」
由花はまだ納得していないようだったが、そういうことになったのだった。
「じゃ、そろそろ帰ろっかな」
「まったまった。そのまま外に出るつもり?」
大きなあくびをしながら立ち上がる由花を、多希は慌てて呼び止める。呼び止められた本人は、どうして多希が慌てているのか、まるで検討がついていなさそうだ。
「そうだけど?」
「髪の毛ぼさぼさだし、ちょっとくらい身だしなみ直して」
「こんな時間だし誰もいないでしょ。それに家すぐ隣じゃん」
由花の言う通り、多希のアパートと由花の家は隣と言ってよい距離にある。だから由花が油断するのも仕方がないこと、なのかもしれない。
だとしても、多希は見過ごすことができなかった。
幼馴染であり、部屋で寝てしまうほど信頼している相手、とはいえだ。仮にも異性から寝癖を指摘され。しまいには、ジャージがずり下がって腰のあたりでパンツが少し見てしまっているというのに、これである。
普通なら、少しくらい慌てて身だしなみを直すのものじゃないだろうか。
多希は残念なものを見る目を向けてみたが、由花は慌てる様子もなくズボンを少しだけ引き上げた。
これが慣れというやつなのだろう。何十年も一緒に過ごした男女は、いずれこうなってしまうのを止められないのだろうか。
多希は世間に蔓延する熟年離婚について、深く考えざるを得なかった。
「はぁ、昔の由花はあんなに可愛らしかったのに」
「はぁ? 聞き捨てならんよ今のは! 今だって可愛いでしょうが!」
「ちっちゃい頃はさぁ、赤い毛糸を僕と自分の指に結んでね、運命の赤い糸だって、はしゃいでたんだよ?」
「またその話し? 覚えてないんだよねぇ、したかな、そんなこと」
「忘れちゃったんでしょ。それもまた悲しいのよ」
多希がこういう時に持ち出すのは、決まってその話題だった。とても幼い頃のことで、多希も記憶はあいまいだが、そういうことがあったのだけは、忘れずにはっきりと覚えていた。
とても小さな頃から一緒だった二人は、それこそ毎日のように一緒に過ごしていた。
そんなある日のこと、どこから持ち出してきたのか、赤い毛糸を持ってきた由花は、一生懸命に自分と多希の小指に巻き付け、
『運命の赤い糸でつながってる二人はけっこんするって! わたしたちも結婚しようね!』
と嬉しそうにはしゃいでいた…はずなのだ。
由花はまったく覚えていないし、多希も何歳の頃だったとか正確には覚えていないのだが。
「あら由花ちゃん。今日は帰るのね? もう遅いから泊まっていけばいいのに」
部屋を出ると、リビングにいた多希の母が、珍しそうに声をかけてきた。
多希の家は古く小さなアパートの一室で、そこで母と二人で暮らしている。玄関まではリビングを通ることになり、親と遭遇するの避けては通れない。だが、だからといって、多希が慌てることはもちろんなかった。
こんな夜遅くまで、同級生の女の子を部屋に上げていたところを親に見られたら、普通なら何かしら小言を言われることだろう。けれど多希と由花の場合はそうはならない。
ちいさな頃からずっと一緒にいて、お互いの部屋に泊まるのすら当たり前。一体いままで何度こんなことがあったのか、それは多希でも正確にはわからない。そんな状況にお互いの親も慣れ切っているからだ。
「そのつもりだったんですけど、多希が帰れって厳しいんですよ」
「はぁ、いっちょ前に羞恥心でも身に着けたのかしら。多希なんか気にしないで泊まっていっていいのよ」
「え〜ホントですかぁ?」
「私が許可します。だいたい、こんな時間に帰ったら、お家の人起こしちゃうんじゃない?」
「そうなんですよ。だからもう泊まろと思ってたんですけど」
そして二人の様子を見てわかる通り、多希の母と由花は仲がすこぶる良い。小さな頃から面倒を見てもらっていた由花は、多希の母にずいぶん懐いている。
逆もまたしかりで、由花を気に入っている母から、娘がよかったと、多希は何度も言われたほどだ。
「由花パパママが心配するでしょ」
「あんたホントおかたくなったわね。誰に似たの?」
多希としては正論のつもりだったのだが、母にひと睨みで撃退されてしまう。女たちの会話に混ざるべきではなかったと気づき、多希はそのまま壁と一体化した。
「ごめんね由乃ちゃん。私がちゃんと多希に言い聞かせておくから」
「いえいえ、私は気にしてませんから」
「これからも多希を見捨てないでやってね」
「あはは、もちろんですよ」
女同士の勝手な会話が終わるまで、じっと黙っていた多希。止まらないお喋りが終わった頃には、もう日付も変わってしまっていて、多希は母に命令されるがまま、由花を隣の家まで送ったのだった。




