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婚約者は異国の地にて王女を想う(3)

 声のした方に顔を巡らせば、広場に面したカフェのテラス席で、白いレースの手袋をはめた手をひらひらと振る女が目に入った。


「あら。噂をすれば、ですわね」


 小声で言いながら、ロズリーヌはすでに貴族令嬢らしい澄ました表情に戻っている。

 ユリウスも瞬時に社交用の笑顔を貼り付け、会釈だけして通り過ぎようとしたのだが、女の方が素早かった。広場の人混みの中、ボリュームのあるドレスもヒールの高い靴もものともせず、獲物を狙う女豹さながらの俊敏さでユリウスに歩み寄ってきた。


「まぁぁ、やっぱりユリウス様でしたのね! このような人の多い場所で偶然お目にかかれるだなんて、運命的ですわ。うふ、わたくしたち、ご縁がありますのね。あらロズリーヌ様もご一緒でしたの、ごきげんよう」


 女はロズリーヌに型通りの挨拶を済ませると、後はもう他に何も目に入らないとでも言うように、熱の籠もった眼差しをユリウスに向けた。

 ユリウスは本屋へと向かっていた気持ちをなんとか引き戻し、上機嫌な女に向き直る。つい先ほど話題に出た人物だけに、名を思い出すのに時間は要しなかった。


「これはポワレ夫人……」


 今日はお元気そうで何よりです、と続けようとした言葉は、ポワレ夫人によって遮られた。


「もう。嫌ですわ、そんな他人行儀な。ミレーヌとお呼びになって?」


 甘えるように小首を傾げ、ユリウスを見上げるポワレ夫人。長い睫毛に縁取られた大きな目は悩ましげに垂れ、左目の下の泣き黒子が色気を醸し出す。

 それは完璧なまでに美しい上目遣いだったのだが、ユリウスの社交用スマイルは小揺るぎもしなかった。


「申し訳ありません、ポワレ夫人。我がフェルベルクの作法でして……どうかご理解下さい」


 「我がフェルベルク」の部分をやや強調し、ユリウスはほんの僅かに眉を下げて見せる。アシャール留学中、女性達から名前で呼んで欲しいと請われて断るときの常套句だった。個人の感情ではなく慣習の違いであることを強調すれば、たいていの女性は思慮深く引き下がってくれた。


 フェルベルクの貴族社会では、男性が女性を呼ぶ場合、既婚者であれば家名に「夫人」を付けて、未婚であれば「嬢」を付けるのが一般的だ。よほど親しい間柄でない限り、名前で呼ぶことはしない。

 ユリウスが留学前に得ていた知識によれば、アシャール王国でもそのあたりの慣習は同様のはずだった。だからユリウスは、アシャールの夜会で出会った複数の貴族女性から名前で呼んで欲しいと求められ、随分と困惑したものだ。


(アシャールの慣習が変化しつつあるということなのだろうか……。やはり見ると聞くとでは大違いだな)


 などと日々誤解を深めつつ、ユリウスはフェルベルク流を貫いている。親族でも婚約者でもない女性を気安く名前で呼ぶことは、どうにも彼の性に合わなかったのだ。

 なお、ロズリーヌだけは、サヴォア家に滞在していることや、ロズリーヌに妹がいて「サヴォア嬢」では紛らわしいことから、例外的に「ロズリーヌ嬢」と名前で呼んでいる。

 それが結果的に、「ロズリーヌ様を名前でお呼びになるのなら、わたくしだって!」と、他の貴族女性達の闘争心を煽っているとは、想像だにしないユリウスなのだった。


 ユリウスが繰り出した常套句に対し、ポワレ夫人は憂いを帯びた表情で溜め息をついた。それは多くの男の本能を刺激する艶めかしい吐息だったが、ユリウスは動じなかった。なにせ、ポワレ夫人とこのやり取りをするのは、もう5回目なのだ。


「もう、ユリウス様ったら真面目でいらっしゃるのだから……。まぁ、今日のところは許して差し上げますわ」


 これまたいつもの台詞で締めくくると、ポワレ夫人は再び艶やかな笑みを浮かべた。


「ところで、せっかくお会いできたのですもの。今日の運命を記念して、カフェでお茶をご一緒しませんこと?」

「申し訳ないのですが、これから本屋へ行く予定がありますので」


 社交用の笑顔のまま、ユリウスは即座に夫人の誘いを断わる。気持ちはすでに本屋へ向かっているのだ。

 だがポワレ夫人も簡単には引き下がらなかった。


「あら、本屋が閉まるまでにはまだまだ時間がありますわ」

「ですが……」

「こちらのカフェ、今日から季節限定のケーキが始まりましたのよ。『ガトーローズ』、薔薇のケーキですの」


 季節限定のケーキという言葉に、ユリウスの眉間がピクリと反応を見せる。

 もとより、フローラ姫への土産話のため、甘い物に関する情報収集に余念がないユリウスである。ましてや情報通のポワレ夫人の情報に外れはない。

 ようやくユリウスの気を引けたことに、ポワレ夫人は気を良くしたようだった。


「食用に育てられた特別な薔薇の花びらを用いた、この時期だけのそれはそれは美しいケーキですのよ。わたくしも毎年頂いておりますけれど、薔薇の花束を食べているようでうっとりしてしまいますの」


 はたして薔薇の花束は美味いのだろうか、とユリウスは思うのだが、確かに珍しい物には違いない。


(ふむ……これは試してみる価値があるな。甘い物も薔薇もお好きなフローラ様への土産話にはもってこいだ)


 きっとフローラ姫は翡翠色の瞳を輝かせ、「薔薇のケーキだなんて素敵ね! わたくしも食べてみたいわ」と頬を染めることだろう。それは悪くない想像だった。


(いや待て。早まるな)


 ポワレ夫人の誘いに応じるべく口を開き掛けたユリウスだったが、寸前で言葉を呑み込んだ。


(それほど素晴らしいケーキならば、ぜひともフローラ様にも食べて頂きたいものだ。フェルベルクに持ち帰る……のは難しいだろうな。フローラ様をアシャールへお連れして、召し上がって頂く……今すぐには無理でも、結婚後なら可能かもしれない。いや、必ず実現してみせる……!)


 フローラ姫は生まれてこの方、フェルベルク王国を出たことがない。本人は他国の景色に憧れ、熱心に語学を学んでいるというのに、だ。だからユリウスは、結婚後は外交官の権限を大いに活用して、フローラ姫を色々な国にお連れしようと、今から心に決めている。

 薔薇のケーキを目の前にしたフローラ姫の顔はきっと、土産話を聞くときの何倍も輝くに違いない。


(フローラ様が薔薇のケーキを初めて召し上がるというときに、もし俺が2回目だとしたら……それはなんというか、全くもって興醒めだ。フローラ様が初めてのときは、俺も初めてでなければ……)


 一瞬の間に様々な妄想を巡らせ、ユリウスは態度を決めた。


「ポワレ夫人、やはり今日のところは止めておきます」


 それでもポワレ夫人は諦めきれない様子で、甘えるように唇を尖らせた。


「あら、ユリウス様は甘い物がお好きだと耳にしておりましたのに」

「いえ、実は私自身はさほどでも。婚約者が甘い物好きなので、関心はありますが」

「婚約者……」

「フェルベルク王国の第4王女殿下でいらっしゃいますわ」


 ロズリーヌがすかさず口を挟む。長らく空気のような扱いを受けたロズリーヌの内心は穏やかではなかったはずだが、それを表情に出すことはしなかった。むしろ、非の打ち所のない美しい笑みを浮かべている。

 一方のポワレ夫人は、「婚約者」の話題に鼻白んだ表情を隠さなかった。


「もちろん存じ上げておりましてよ。確か、ユリウス様とお歳が離れていらっしゃるとか……」

「15歳でいらっしゃいますわ」

「まぁ15歳! それはまたお若くていらっしゃいますのねぇ。……あぁ、ふふ、思い出しましたわ。フェルベルクの第4王女殿下と言えば、『ショコラ姫』様ではございませんの!」


 フローラ姫が聞いたなら顔から火を噴いて絶句しそうな二つ名を口にして、ポワレ夫人は勝ち誇ったように唇で弧を描いた。


「ふふ、ショコラが大好きでいらっしゃるなんて、随分とお可愛らしいこと! けれどそのようにお可愛らしい方では、ユリウス様と釣り合いが取れないのではないかしら?」

「ええ……残念ながらポワレ夫人の仰有るとおりなのですよ」


 ポワレ夫人の不敬な物言いに眉根を寄せたロズリーヌは、続くユリウスの言葉に小さく息をのんだ。

 ポワレ夫人は、我が意を得たりとばかりに頷く。


「そうでございましょうとも。ねぇ、よろしければわたくしがユリウス様を」

「フローラ様は私には勿体ない、それはもう本当に可愛らしい方なのです」

「お慰めして……は?」


 ポワレ夫人は口角を上げたまま固まった。


「ええ、そうなのです。何から申し上げればいいか……先ほどチョコレートのことを仰有いましたが、フローラ様はご幼少のみぎりよりお菓子好きでいらっしゃいまして、立派なレディへとお育ちあそばしてからもその姿勢にはお変わりがなく、揺るぎないそのお姿は眩いばかり……。ここ数年はチョコレートを熱心に研究なさっておいでなのですが、その熱意が菓子職人達の心を動かし、結果、我が国で新たなチョコレート菓子が次々と生み出されることになったのは、ご承知のとおりです。狙ってそうしたのではなく、自然とそう導かれたというのが、さすがはフローラ様だと……」


 突如として婚約者賛美の言葉を連ね始めたユリウスに、ポワレ夫人は目を点にして立ち尽くしていたが、ようやく気を取り直したらしく、引きつった笑みを浮かべた。


「ま、まぁ、ユリウス様ったら素晴らしい忠誠心ですわね。そのように王女殿下に気を遣われて……」

「あぁいえ、そういうわけでは。どうやら私の言葉が足らなかったようです。己に詩的才能がないことが口惜しい……いや、正直に申し上げましょう。不遜ながら、私はフローラ様を一人の女性として可愛らしいと思っているのです。まずその笑顔がお可愛らしい。お気に入りの本のお話をされるとき、甘いお菓子を召し上がるときなどは特に……。それに小柄でいらっしゃるところも、すっぽりと腕の中に収まりそうで、なんとも言えない可愛らしさが……」


 フローラ姫が聞いたなら、これまた顔から火を噴いて絶句しそうな台詞が、ユリウスの口から次々と紡ぎ出される。

 笑顔を引きつらせるポワレ夫人と、吹き出すのをこらえて唇を震わせるロズリーヌを尻目に、ユリウスは珍しく饒舌だった。

 彼とフローラ姫をよく知る人達の前では気恥ずかしくて出て来ない言葉も、異国の地ではすらすら出てくるから不思議だ。


 こうしてユリウスは、ポワレ夫人が「わたくしちょっと急用が……」と言い置いて退散するまで、フローラ姫を褒めて褒めて褒めまくったのだった。


 その後、予定通り本屋に行ったユリウスは、散々物色した末に、ロズリーヌに勧められた恋愛小説を購入した。もちろん自分用も含めて2冊。

 その晩の内に恋愛小説を読み終えたユリウスは、ハッピーエンドの余韻に浸りつつ、帰国後のフローラ姫との語らいを想像して頬を弛めるのだった。


 よもやそのわずか2週間後、フローラ姫から婚約破棄を言い渡されるとは夢にも思わず……。 

前日譚はここまでとなります。

お読み頂きありがとうございました。

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