第75話 落陽は再会と共に 9
芦屋陽介は天才だ。
そう、天才。
天から与えられたとしか思えないほどの、規格外の才覚。
それを有している。
加えて、魔術の習得、行使に大きな割合を占めるのは精神だ。肉体が未発達であったとしても、己を律することに秀でた者は、軽々と数十年の研鑽を経た術者を乗り越える。
努力が無意味なのではない。
魔術の世界に於いて、天才とは人間の範疇を超えた化物を指す言葉だ。
あらゆる競技においても、天才は存在するが、その中でも陽介は、歴史上に残るほどの天才たちに匹敵する。
即ち、同じ世代で並ぶ者は無し、と称されるほどに隔絶した才能を持つのだ。
では、そのような規格外の才覚を持った人間が、もしも、幼い頃から一度も緩むことなく、常人が発狂するほどの密度で修練を積んでいたのならば?
「ごめんね? 姉さん」
その答えが、この光景だった。
姉である彩月は、固有空間に貯蔵してある全ての呪符を破られ、魔力はほとんど底を尽き、青白い顔をしながら、膝を着いている。
そんな姉を、陽介は心配そうな表情で見守っている。
傍らに、三体の美しい金髪少女の人形を侍らせながら。
「本当だったら負けてあげたいんだけどさ。ここで負けると、僕はちょっと困ったことになるからね。だから、悪いんだけど」
金髪人形は、照子――否、天照大神の器に酷似した容姿の物だった。ただ、この人形は血肉では無く、無機物によって構成された純粋なる人形である。
しかし、その出来栄えは芸術の域に達するほど、生身に近しい。されど、不気味の谷を乗り越えて、不快感を抱かせないのだから、人形の造形に詳しい者がこの場に居れば、思わず目を見張るほどの美しい人形たちだ。
ただ、そのように美しい人形たちの容姿は同一ではなく、それぞれ異なっている。
真っ黒な布で目隠しをした、白を基調とした着物姿の人形。
真っ白なマスクで口を隠した、黒を基調としたドレス姿の人形。
そして、大きめのヘッドフォンを付けたまま、シャツにジーンズというごく普通の少女の如き姿の人形。
「僕の作品たちの力で、しばらく静かにしてもらうね」
「…………っ!」
それらの三体の人形は、彩月から三つの物を奪っていた。
一つは見る力。
一つは言う力。
一つは聞く力。
感覚を奪っているのではなく、それを行使するための力を奪い、それぞれの当てはまる人形たちが封印しているのである。
よって、現在の彩月には、視覚が何かを捉えても、それを判別するための認識が働かない。紡ぐ言葉を考えても、それを口に出すことが出来ない。耳から何かを聞こえたとしても、それがどんな意味を持つのか判別できない。
「よく出来ているでしょう? これが僕の作品……そうだね、名前は『三美封印』とでも名付けようかな? 人間として持つ、美しい機能。それを封じるために、相応しい器を用意したんだ。特に、姉さんの力を封じるとなると、相応の物が必要だと思って、引っ張り出して来たんだよ? ああ、なんでこんな真似ができるかって? やだな、姉さん。僕たちは血縁だろう? そう、血で縁が既に繋がっているんだ……『ライン』が出来ているんだよ。呪うのも、祝うのも、姉弟だからこそ、やりやすくなっているんだ」
そのため、陽介の言葉も彩月には届いていないのだが、そんなことはお構いなしに言葉を紡いでいる。
勝利宣言ではなく、一方的であったとしても、言葉を彩月へ向けることが出来るのが、嬉しくて仕方ないという様子で。
「だから、間違っても姉さんが弱いわけじゃない。ただ、僕はずっと昔からズルをしているんだよ。悪事を白状するようで恥ずかしいけれどね? 目的のためには必要だから、僕は『それ』を行ったんだ。うん、騙していたのかもしれない。偽りの仮面を被って、接していたのかもしれない。でも、姉さん。聞こえないからこそ、言わせて貰うけれどさ…………貴方だけには、真摯で正直になりたかったんだよ」
陽介が語っている最中も、彩月は動くことが叶わなかった。
目が見えないからでも、耳が聞こえないからでも、言葉が発せないからでもなく、その背中に張り付けられた一枚の呪符によって、動きを封じられていたのである。
正確に言えば、肉体の電気信号を選別し、一時的に途絶えさせても問題ない電気信号を封じられていたのだ。
こうなってしまえば、もはや為す術は無い。
ろくに魔力を練り上げることも出来ずに、じっと、膝を着いたまま己の敗北を噛みしめるしかない。
「でも、信じて欲しい。今は別れるしかないかもしれないけど、きっと、きっとね、また会えるから。今度は――」
「どうせなら、面と向かって言えばよかろうに」
そのはず、だっただろう。
彩月が予め、己の切り札を伏せて居なければ。
「――――っ!」
陽介は聞き覚えのある声を認識した瞬間、即座に後ろへ跳んだ。魔術行使すら挟む暇がないほど、脊髄反射の行動だったが、その判断が結果的に陽介の命を救うことになる。
「お主は良い男なのに、肝心なことを言わないのが、玉に瑕じゃのう。ま、そのミステリアスも魅力の一つなんじゃが」
一瞬の雷光と共に、先ほどまで陽介が居た空間を雷が駆けて行った。
それは逃げ遅れた三体の人形ごと、空間を焼き払う。あらゆる魔術的防御など意味を為さず、念のために用意していた陽介の『対策』すらも凌駕して、その一撃は場の空気を根こそぎ変えてしまった。
「くかか、どうした? まさか、この期に及んで――――『殺意を向けられるとは思わなかった』とでも言うつもりか?」
「…………アズマさん」
「おうとも。お前ともよく遊んでやった、アズマだとも。久しいなぁ、陽介」
青の長髪を靡かせて、豪奢な着物で悠々と陽介の眼前に降り立ったのは、龍神アズマ。
彩月が所有する中で、もっとも格が高い式神である。
アズマは親しい友人に会ったような笑みを浮かべながら、平然と雷撃を操り、幾度も陽介へ攻撃を行う。
「貴方とは! 結構、良い関係を! 築けていたと! 思っていた、ん、ですけど、ねぇ!」
「そうよなぁ。お前は有象無象とは比べ物にならないほど気に入っていたさ……だがなぁ」
放たれる雷撃を、陽介は何度も避ける。
いや、かつて芦屋の一族に属していた時、収めている龍神に対抗するための魔術により、雷を避けるような結界を瞬時に張って見せたのだ。
「それでも、主が殺せと命じたのならば、殺すのが式神じゃろう?」
「――――いや、殺せなんて命令していないわ」
けれども、陽介が張った結界は即座にその効力を打ち消される。
アズマからの魔術攻撃ではない。アズマによって、封印から解放された彩月により、結界術の妨害を受けたのだ。
いかに格上といえども、魔神が振るう力の一端を受けながら、彩月の妨害を防げるほど、陽介は卓越していなかったのだろう。
「ただちょっと、右ストレートをぶち込みたいだけ」
「くふっ、それは面白い。よいぞ、久しぶりに、余興に付き合ってやろう、我が主よ」
彩月の背に張り付けられていた封印の呪符は、既に焼き切れた。
だが、アズマの行使に加えて、先ほどの結界術の妨害により、残り少ない魔力がさらに枯渇しかけている。しかも、戦況は覆ったように見えるかもしれないが、まだまだ陽介は余裕を残しているように見えるのだから、差は依然として縮まっていない。
「…………まったく、しばらく見ない間に、逞しくなったなぁ、この姉は」
しかし、それだけの差があることを、彩月も陽介も理解していながら、両者の顔つきは変わらない。
彩月は凛とした眼差しで、陽介を見据えて。
陽介は、彩月の眼差しを受けて、バツが悪そうに苦笑する。
「悪いね、リース。そっちには応援に行けないかもしれないよ」
そして、彩月と陽介――――同門の魔術師による姉弟喧嘩は、再開された。
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「あ、なんか今、ワタシ、誰かに謝られた気がするよ」
リースは呟きと共に、迫りくる猟犬の頭部を殴り砕いた。
砕かれた猟犬――式神のランクは推定D程度。使い捨ての範疇であり、けれども、その牙を完全に無視して進むには鬱陶しい攻撃性を秘めた式神だ。
「さて、状況を整理しよう」
迫りくる下級式神たちを屠りながら、リースは考えを巡らせる。
周囲の環境は、障害物の多い森林。転移阻害の大規模結界。無理やり解除するのは、難しい。例え、専門家である陽介がこの場に居たとしても、あえて解除させた上で、何かしらの呪術的トラップを仕掛けてくる可能性が高い。
リースの目的は、照子を封じた神器を然るべき場所へと収める事。
この神器は内部に引きずり込んだ者に対しては、絶大なる閉鎖性を誇るのだが、外部からの衝撃にはあまり強くないという弱点があった。そのため、本来、相手にするまでもない下級式神相手でも、きちんと処理しなければ封印が壊れてしまう可能性があるのだ。
もっとも、退魔師側としても、不用意な行動が元で仲間が死ぬことは恐れているところなので、そこまで積極的に攻撃は仕掛けてこない。
「あちらの第一目標は時間稼ぎ。努力目標が討伐。最高で捕縛かな? 封印解除の方法を知りたいだろうからね。もしものことを考えて、高位の式神を扱うのは躊躇うはず。ただ、デバフや状態異常を撒く類の式神だった場合、まともに受けるとワタシでもまずい」
状況は膠着に傾きやすい。
退魔師側は積極的な攻勢をかける理由はなく、リースとしても間違っても神器を壊さぬように帰還したい。
だが、不安定要素として、機関からの援軍がある。
機関の大半は訓練された凡人によって構成されているが、上位一割は全て、天才か鬼才。あるいは、規格外の領域に踏み込んだ化物ばかり。
下手をすれば、新たなイレギュラーが生まれかねないほどの相手が潜んでいる。そうでなくとも、高位ネームドの退魔師と戦えば、リースであったとしても敗北は免れない。
つまり、膠着で追い詰められるのはリースの方だ。
「…………ふーっ。直接戦闘は嫌いなんだけれどねぇ」
故に、リースは既に策を講じている。
十分の逃走中に仕掛けた探査術式の回数は、二十九。その全ては弾かれて、式神を操る退魔師の姿を捕捉することは出来なかった。
しかし、それはリースとっては十分すぎるほどの判断材料だ。
「さて、と」
逃げ回る中、リースは式神の痕跡とは別に、人が動いたと思われる痕跡を探していた。仮に、式神に騎乗して移動していたとしても、魔物とは違う、生きている人間特有の魔力痕跡は分かりやすい。もっとも、『リース』にとっては、という前提が付く話であるが。
それらの痕跡に加えて、発動した術式が妨害されるまでの時間。
そういう無数の材料を脳内で処理し、現在、リースは最も可能性が高い位置を見つけ出した。もちろん、予め照子との戦場にする予定だった山なので、地図は詳細に脳に叩き込んでいる。
「行こうか」
よって、リースの動きが迷うことは無かった。
魔力を巡らせて、高機動特化の戦闘スタイルへ移行。悪路の走破には、空を蹴る天狗の魔術を流用しながらも、木々の中を縫うように進む低空飛行ならぬ低空疾走を行う。
今まで全て相手にしてきた式神たちも、倒すのは最低限。パルクールや軽業師のそれに近しい身のこなしで式神を乗り越えて、術者の下へと進む。
当然、確信をもって進めば進むほど、式神による妨害は酷くなってくるが、それはつまり、リースの予想が正しいという証明に他ならない。
「大山ほどとは、行かないが――――その細首をへし折るのに、何の支障もない」
やがて、当然の如くリースはその場所へと辿り着いた。
凄腕の式神使い――エルシアが、高位式神を展開するよりも早く。
防御魔術を発動させるよりも早く。
リースは魔人の肉体が軋むほどの速度で、エルシアの下へ到達した。
「しま――」
「さようなら」
そして、強化されたリースの手刀がエルシアの首筋に振るわれて。
――――ごぉん、という鐘の音にも似た異音が響いた。
それが、この戦いを終わりへと導く音であることは、今はまだ誰も知らない。




