第52話 幕間:芦屋彩月の心配
私はかつてないほどの窮地に陥っていた。
魔人たちに囲まれた時など、まるで比にならない。
どれだけ辛い戦いだろうとも、勝算を無理やり作り出して来た私が、絶望という言葉の意味を知ってしまった。何をしても無駄。足掻き、抵抗することすらも、状況悪化に繋がるという袋小路。
例え、どれだけ私の異能が働いたとしても、意味を為さない。
私が現在、直面している問題というのは、そういう類の物だった。
「グレさん。ボク、グレさんとエッチなことをしようと思うのです」
そう、私は逃れられぬ社会的な死と向き合っていたのである。
どうしてこのような事態になってしまったのか?
それを説明するためには、三時間ほど話を巻き戻さなければならない。
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「テルさん。美作支部長から、封印魔術を受けたのでしょう? なら、調整は必要ではなくて? 私の『トレーニングルーム』なら、心置きなく動けると思うのだけれど」
「おお、有難いね。期末試験の前だから、治明にあまり負担をかけるのも悪いと思っていたところなのだよ」
「あいつは馬鹿なのよ。いつも結構ギリギリの成績」
「彩月は毎日しっかりと勉強しているからねぇ。偉いよね」
「ありがとうございます。そういうテルさんも、きっちり毎日予習復習をこなしていると聞いているのだけれど?」
「アラサーになるとね、高校時代にため込んでいた知識の九割九分は失うのだよ。だから、必死に勉強し直している最中さ」
「基本的に、テルさんは真面目よね。とても偉いわ……ふふっ、頭を撫でてあげます」
「あははは、そりゃあ、どうも」
嫌な予感は無かったと思う。
私は意外と直感に優れるタイプの人間なので、とてつもない窮地や、強敵との出会いの前には勘が働くのだが、今回ばかりはまるで駄目だった。
むしろ、親友に近しい立場の同僚が自分を気遣ってくれることへの嬉しさに、浮かれていたのかもしれない。
これは、彩月や治明には秘密なのだが、私は割と寂しがり屋だ。三十年近く人間をやっていた癖に、己の気性を自覚できたのは、こうして親友に等しい立場の人間と現実で顔を突き合わせるようになってからなのだから、度し難いね。
うん、ちょっとばかり隔絶された領域で戦いの日々に明け暮れていた所為で、人恋しくなっていたのだろう。
「じゃあ、一旦、シャワールームで禊ぎをしてからお願いするよ。もう最近、ほとんど返り血も浴びなくなって来たけれど、一応ね?」
「なんだかんだ、もうテルさんはランクDの魔獣では相手にならないわ。凄まじい成長速度だと思うわよ、本当に」
「その所為で、色々危険視された結果の『コレ』だけどね?」
だから、ホイホイとろくに考えもせずに彩月の誘いに乗ってしまったのだ。
いつも通りの放課後。
いつも通りの境界での魔獣討伐。
いつもの流れで、事務所に戻ってシャワーを浴びて、私は新しい作業着に袖を通す。その際、金髪を纏める髪留めと、ブレスレットとネックレスの装着は忘れない。
これらの装飾品は、一見、何の変哲もない既製品に見えるが、実際は『刀食らいの鬼』を封印していた物と同じレベルの封印呪具である。
基本的に、風呂に入る時以外は三つ全て付けておけと厳命されているので、風呂場に居る時以外、私の戦闘能力は三分の一ほどに低下する仕様だ。全裸の方が強いという奇妙な属性を持ってしまった私であるが、この封印呪具の着脱は割と個人の意思に任されているので、それほど不自由は感じていない。
もちろん、これらを平然と外しているところを監視員に見られると、とてつもなく怒られて待遇が悪くなってしまうのだが。
「じゃあ、転移を始めるわ」
「はいさ、よろしく」
私は何の疑いも抱かず、彩月の空間転移に身を委ねた。
「…………んっ?」
身を委ねた結果、転移した場所はいつも通りの訓練用空間ではなく、個室だった。ビジネスホテルの一室に似た雰囲気のある空間だ。ベッドとその他、水回りのあれこれも完備している場所である。
休憩用の物と間違えたのかな?
私が首を傾げた瞬間、この空間から力を根こそぎ吸い取られるような強い脱力感を得た。これは、彩月がいつも使っている負荷結界? いや、これはいつも即席で展開するような物よりも遥かに強力に感じる。
「今回の訓練は奇襲を受けた、という設定で行きましょう」
「ほほう」
「いつも、同じように思いっきり体を動かすだけが訓練ではないわ。本来、休むべき場所で、疲労した状態で、奇襲を受けたという設定。いいわね?」
「おうともさ!」
ここら辺で、流石に私も変だと思った。
変だとは思ったが、彩月の顔は完全に仕事モードだったし、口調も真剣そのもの。ふざけている様子はない。だったら、先輩である彩月の言葉に従って訓練を行うのが良いだろうと、その時の私は考えていたのだ。
だから、疑念を払って、即座に戦闘訓練を始めた。
「はははっ! だけど、いいのかな!? 幾多の死線を潜り抜けた今の私に、後衛である君が接近戦を挑んで――」
「甘い」
「ぬおわっ!?」
戦闘訓練事態は、即座に終わった。
私の身体能力が大分低下していたことも理由にあるが、もっとも大きな敗因は経験値不足だろう。戦ってきた場数が違うのだ。
私は、後衛の彩月ならば接近戦に弱いだろうという見込みで組み伏せてやろうと思ったのだが、安易に腕を動かした瞬間、気付いたら私は地面に叩きつけられていた。強化された私の感覚でも、叩きつけられてから状況を理解するタイプの早業だった。
「私は接近戦が出来ないとは言っていないわ。ただ、得意じゃないというだけの話。でも、取り立てて『苦手』だったり『弱点』というわけでもないのよ?」
「……ぐ、う」
なんて油断。
なんて認識の甘さ。
最近、何度も激闘を潜り抜けた所為か、思い上がっていたのかもしれない。どれだけ、私の異能によって力が増大していようが、基本、戦い方は力任せのごり押し。
そりゃあ、その力が封じられていれば、このような様になってしまうのは当然だ。
たかだか数か月で、幼い頃から退魔業に務めていた先輩に対して、僅かでも楽観的な思考で戦ってしまったのが悔やまれる。
「というわけで、はい。これで決着。訓練終了」
「ぬぬぬう」
「本来であれば、ここからテルさんの異能によって逆転劇が起こるのかもしれないけれど、今回の場合はあくまでも低コストで奇襲に対応するのを目的として欲しかったの。これ以上、貴方の力が増大して、機関から危険視されて欲しくないから」
「彩月……」
私は彩月によって、両手を手錠でベッドフレームに拘束され、強制的な万歳状態で動けなくなりながらも、その言葉に感動した。
やはり、私には仲間が必要だ。
どれだけ力を持とうが関係ない。
孤独に突き進むよりも、周囲と力を合わせて魔を退ける。これこそが、退魔師の戦い方ではないのか?
彩月は、最近、安易に力を頼り過ぎる私に対して警告してくれたのかもしれない。
一人で戦うな、と。
「分かったよ…………最近の私は、思い上がりが過ぎた」
「そうね(作業着の上着を脱ぐ)」
「一人でなんでもできる。一人で戦った方が周りに被害を及ぼさない。なら、最初から私一人が負担を引き受ければいい。そのように考え始めていたのかもしれない」
「そうね(私の腹の上に乗る)」
「でも、違った。それは破滅に至る考え方だった。こんなにも、頼りになる仲間が居るのに、私はどこか、孤独を感じていたのかもしれない。だから、一人で深みに嵌ろうとしていた。それを、引き戻してくれてありがとう、彩月」
「どういたしまして(私の上着の前をはだけさせる)」
「…………ところで、何をしているのだい?」
「襲っているの」
「へっ?」
おっかしいなぁ。
封印の影響で聴覚がおかしくなったのかもしれない。なんかこう、『襲っている』とか、私の親友の口から言われたのだけれど? え? 訓練? 相手に拘束されてから、そういう行為を行われるかもしれないという危険性を説いている? でも、訓練終了って言われたしなぁ。
…………それにしても、女子高生に圧し掛かられているというこの現状、はっきり言って肉体がアラサーの男性のままだったら完全にアウトだったよね。美少女でよかったと思う、貴重な瞬間だ。
「グレさん。ボク、グレさんとエッチなことをしようと思うのです」
そのように現実逃避をしていたら、彩月が容赦ない現実を突きつけてきましたとさ。
ということで、現在である。
…………信じたくない、この現実を。
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ぬるりと動く体温の塊が、私の口内を蹂躙している。
べろちゅーだった。
とりあえず、言葉で分かり合おうとした私の口を唇で塞ぎ、舌を入れてきたのが彩月の問答無用の口封じだった。しかも、相手が舌という弱点部位を晒して来ているというのに、私は彩月を傷つけたくないので、反撃が出来ない。これが、よくわからない相手だったらノータイムで侵入してきた舌を噛み切ってやる自信はあるのだが、その攻撃は封じられている。むしろ、傷つけないために歯を噛み合わせられないので、自分の舌をどんどん絡まされて、がりがりと自分の中の尊厳が削れていく感覚がする。
「んんんんっ!?」
「ちゅっ……ん……れりゅ……」
舌先や口内で彩月の唾液が絡み、それを無理やり喉に押し込まれて、こくりと嚥下してしまう。性欲には鈍いこの肉体であるが、対象が現状、好感度第一位に輝く彩月にされると、流石にまずい。とてもよろしくない。
だが、不幸中の幸いとして、今の私に男性器は存在しない。
美少女だから!
美少女だから、最悪、妊娠はしねぇ!!
駄目だ! 最悪の前提が酷すぎる!! 酷過ぎるが、この現状が既に、もうすぐでエロ漫画の領域に到達するレベルの酷さなので、どうしようもない。
「…………ぷはっ…………えへ、へへへへ、だらしない、顔してますよぉ……グレさん♪」
おまいう。
私に約五分間のディープキスをかました彩月の表情は蕩け切っていた。口元からは、よだれが垂れて、いつも凛々しい目つきが情欲で濁っている。というか、現在進行形で私のへそを指先でなぞっているので、もう駄目だ。
社会人として現状が既にアウト過ぎるが、この先に移行してしまうと、もはや犯罪であるかどうかの領域になるので大変不味い。
「い、一体、どうして……?」
故に、私は尋ねた。
何故、こういう不意打ち行為をするのか? と。
すると、彩月は蕩け切った表情の中に、こちらを非難するような悲しみを混ぜて告げる。
「今回の件で分かったけれど、グレさんは基本的に自分を削るのを躊躇わない類の人種ですよね?」
「…………なんのことやら」
「誰かのため、という免罪符があったらどこまでも頑張れる人ですよね?」
「これでも、サボり上手として世間を渡っていた経験があるのだぜ?」
「私のことを好きと言ってくれますが、交際は先延ばしにしていますよね?」
「…………ほら、君は未成年だし。美少女になったとしても、こう、ね? 精神的な抵抗感があってだね?」
「最終的には、自分が死んでも誰かが隣に居てくれるようになればいいな、とか思っていません? 自分では幸せに出来るのが難しいのでは? とか、そういう方向性に思考が傾いて居ません?」
「…………」
私はここで【栄光なる螺旋階段】を発動させて、逃亡を図ろうとしたのだが、その瞬間、彩月の目が潤んでしまったので、何もできなくなってしまった。
しまった、これは詰んでいる。
「だから、ここで既成事実を結んで……絶対に逃げられないようにしてやるのです」
彩月の顔が近づき、私の首筋に口づけをする。
しばらく甘噛みして楽しんだ後は、わざと水音を立てるように、ぴちゃぴちゃと舐めて、吸い始める。
完璧に詰みであった。
私は身内に弱いが、その中でも特に彩月に弱い。この期に及んで、自分の手で脱出する気概を完全に失ってしまっている。だが、このまま身を任せれば、色々と衝撃的な初体験となるだろう。
よって、私は心の中で治明に謝っておいた。
「――――まったく! 最近、行方不明になったかと思ったら、こっちの拠点で敵に捕まるなんて、随分と情けない後輩だ……ぜ……?」
前回、私が行方不明になった反省から、密かに私と治明の間には互いに、緊急時には己の救難信号を受け取れるように準備していたのだ。
私の場合は、一定の魔力の収束を封印呪具であるブレスレットに込めると治明に『マジやばい、助けて!』という信号を送れる。この前、救難信号を邪魔された経験があったので、結界で邪魔されても無事に信号が届くような魔道具を注文したのが、私の窮地を救う一手となっていたのである。
「…………ぐふっ」
「「あっ」」
ただし、その代償として、颯爽と登場した治明は、私たちの痴情を見た瞬間、目を剥いて倒れてしまったのだけれども。
この後、気分が萎えた彩月によって私は解放されたのだが、その代わり、気絶した治明が無言で引きずられていく姿を、見送ることしか出来なかった。
…………うん、今度会ったら、治明には謝罪とお礼をしなければいけないね。




