第9話 美少女に至るまでの前日譚 9
私の眼前には、紅蓮があった。
鮮やかな花の色にも似た炎は、まるで、大きな生き物が大口を開けているかのように揺らめき――そのまま、私を一息に飲み込む。
「浄炎開花・紅蓮」
紅蓮の炎が、私の体に絡みついた。
ぐるぐるぐるぐると、竜巻のように私の体の周囲を回りながら、絡んでいく。さながら、糸巻の棒のように、幾重にも炎に巻かれた私は、視界が紅蓮一色に染められて。
「――――温度、ぬるま湯」
「ふわぁあああああ……一気に疲労が抜けていく気分だァ!」
私は思わず、腹から情けない声を上げた。
いやぁ、極楽、極楽。何だろうね? 一瞬にして、マッサージの気持ちいい感じが体中を駆け巡るというか、凝り固まった疲れが炎によって融けていくような気分。
「ったく、普通はこの炎に好き好んで身を焼かれようとは思わねぇだろうが」
そんな情けないオッサンの姿を見て、治明は馬鹿を見るような目で私を見る。
あれ? 『俺の炎には、疲労回復の効果もあるんだ。試してみるか?』と誘ってくれたのは、治明の方じゃないか。
「散々、魔獣を焼き殺した後に、それを素直に信じるのか、アンタは?」
「信じるさ。だって、今は仲間だろう?」
「俺が変な気を起こしたらどうする?」
「起こさない。少なくとも君は、そんなことをしない。だって、君は私を殺したところで、何も得をしないじゃあないか」
「…………ふん。変なオッサンだ」
私と治明は共に、魔獣討伐の仕事を終えた所だった。
後山町には合計、四つの境界があり、それぞれ出現する魔物の質は異なったりしているらしい。私が芦屋に見守られながら、初仕事をこなしたのが、一番ランクの低い境界。あの林の中では、ランクEまでの魔獣しか出現しないのだとか。
そして、私が治明と共に仕事をしていた境界……朽ちた山寺跡が、二番目にランクの高い境界である。ここにはランクDまでの魔獣が出現し、日が悪いと、それが複数出現することもあると説明を受けていた。
脅威度ランクD。
軍隊ほどの装備を整えても、魔力を扱えぬ一般人では対処が難しいクラスの脅威。仮に、無理やり倒すのであれば、対人ではなく、対物兵器の使用を検討しなければならない魔物。このクラスになるともはや、魔力を纏わぬ銃弾など何の意味も持たないだろう。
だからこそ、我々退魔師の本領というのは、ランクD以上の脅威を排除することなのだと、芦屋は熱のある言葉で語っていた。
ランクD以上の魔物を単独で退治出来てこそ、一人前。最低限、それだけの強さは持って欲しいと。
ならば、それらを……『ランクD以上の魔獣を三体同時に、軽々と焼き殺した』この少年は、一体、何人前ぐらいの強さを持つ退魔師なのだろうか?
「ん? なんだよ、オッサン? さっきから、俺をじっと見て。言っておくが、俺にそんな趣味は無いぜ?」
「安心して欲しい。私にもそんな趣味はないさ。さっきは、単純に、君の強さに尊敬の眼差しを向けていただけだとも」
「はっ。言っておくが、背中が痒くなるようなお世辞で、俺がほだされるなんて思っていたら、大間違いだ」
「ふふふ、そうかい? そりゃあ、残念」
「ちっ、食えないオッサン」
ちなみに、何故、私が治明と一緒に仕事をしているかというと、芦屋からの提案だからだ。
『基本的には私と山田さんで組みますが、変則的に、ペアを変える時もあります。常に、決まったツーマンセルで動けるとは限りませんからね。どのような組み合わせでも、最低限、互いの邪魔にならない程度の練習はしておきたいところです』
私以外、後山町在住の退魔師は全員、学生なのである。
機関に就職している私と違って、学生たちは忙しい。テストに行事に、青春イベントが目白押し。基本的には互いのペアで動くとしても、急に何かしらの予定が入る可能性は十分ある。
そこで、比較的時間に余裕のある私の出番というわけだ。
今は研修中であり、新人として先輩方々におんぶにだっこという現状だが、私が成長すれば、最低ランクの境界ならば、単独で『間引き』が可能となる。
学生退魔師たちはその時間の都合上、どうしても放課後の夕方からの勤務となるので、出来れば、その前に諸々の雑事を終わらせて、気持ちよく先輩たちを出迎えたい。
うん、頑張ろう。早く、一人前の退魔師として認められるために。
「なぁ、オッサン……吉次さん」
などと、私が密かに決意を固めていると、何やら治明から声を掛けられる。
ふむ? ぶっきらぼうな態度に見えるが、かつてないほどの殊勝な声。一体、何だろうか?
「別に呼び捨てでいいって。この業界だと、君の方が遥かに先輩なのだし」
「いや、流石にアラサーのオッサンの名前を、呼び捨てとか、躊躇うぜ、俺でも」
「苗字なら呼び捨てにしても大丈夫なのかい?」
「こう、なんとなく、距離感があるから大丈夫」
「じゃあ、親しみを込めてヨシ君と呼んでくれ」
「なんでそこから、一気に距離を詰められんだよ?」
「研修中、子供たちからはそう呼ばれることもあったからね。反応しやすいんだ、いざという時に」
「…………それを言うぐらいなら、吉次で」
「うん、何だい? 治明」
私はわざと煙に巻いて、相手の緊張を解してから、朗らかに笑った。
戦っている時はプロフェッショナルなのに、こういう日常の動作ではやはり、年相応の少年だ。そこに安心を覚えるのか、不安を覚えるのかは、今は置いておこう。
「アンタはさ、その…………彼女とか居るのか?」
「ふむ。居ないけれど?」
「…………と、年下趣味とかじゃねぇだろうな?」
ああ、そういう。
視線を左右にさ迷わせながら、恐る恐る尋ねてくる治明の姿に、私は懐かしい気分になった。そうだね、私にもそういう時期があったかもしれない。
「安心しなさい。職場の同僚、その上、未成年に手を出すほど私は落ちぶれてはいないよ」
「んなっ!? そ、んなこと、言ってねぇだろうが! 別にぃ!!」
「いや、態度でバレているから、誤魔化しは無意味だよ。普段もあの調子だと、既に周囲の人々にバレている可能性すらある」
「…………マジで?」
「マジだよ」
おおう、と呻き語を漏らして、頭を抱える治明。
はっはー! いやぁ、青春だなぁ! いいなぁ! 素敵だなぁ! 仕事終わりに、石階段に座りながら、男子高校生とこういうトークするの楽しいなぁ!
背後に、お化け屋敷も真っ青な朽ちた山寺が無ければ、もっといいのだが、それは状況的に致し方ない。
「まー、それは置いといて。好きな女子の周りに、別の男が生えてきたら、そりゃあ、心配だ。気持ちはわかるとも」
「は、はぁあああああ? 俺はまだ、認めてないんですけどぉ!?」
「ふふふっ、安心しなさい。この私は外見の通り、冴えないアラサーだよ? 28歳、独身。今まで女性とのお付き合いした経験も無い童貞さ。こんな男に、年頃の女子高校生が興味を持つはずがないだろう?」
「…………え? 童貞なの?」
「童貞だよ」
私がさらりとカミングアウトすると、治明がちょっと引いていた。
ひどくない? 気持ちはわかるけれど、酷くない?
「なん……え? なんで? だって、ほら、えっと…………貧乏なの? 風俗に行けないほど貧乏なのか? その、女と付き合えなくても、大人はそういう手段で童貞とか捨てるって、俺は、思っていたんだけど、違うのか?」
「ケースバイケースだよ。人によって考え方は違う。私はたまたま、そうじゃない考え方だったというだけの話さ」
「…………ちなみに、なんで? 金?」
金の問題じゃなかったら、何なの? という顔でこちらを見てくる治明。
その視線に、私は少し悩んだ末、本音を言うことにした。普段ならば、どうでもいい他人、以前の同僚たち相手ならば、本音などは口が裂けても言わない。けれど、相手はこれから青春真っ只中の少年なのだ。ここで偽って、変に格好つけた言葉を吐くよりも、心の中にしまっておいた本音を応えて、青春の一ページの記憶として欲しい。
「他人と抱き合うのは気持ち悪いから」
「……えっ?」
「お金を払ってまで、他人と抱き合うとか、ほとんど罰ゲームじゃあないか。そりゃあ、性欲はあるけれど、そんな嫌な想いをしてまで解消したくないというのが、私の本音さ」
「うわぁ」
「ふふふ、まだ子供の君には分からない話かもしれないけれどね?」
「分かりたくない、一生分かりたくない……うわぁ」
「なんで、露骨に距離を取るんだい? 大人が本音を吐露するなんて、とても珍しくて、勇気のいる行為なのだよ? 馬鹿にされて笑われるならともかく、なんでそんなリアクション?」
「…………こわっ」
「なんで恐怖を覚えているんだい?」
おかしい。
馬鹿にされたり、笑い飛ばされるのは想定の範囲内だけれど、冒涜的な生き物を見るようなリアクションをされるとは思わなかったぞ。
やめろやめろ、怖がるんじゃない。私は君と同じ人間だ!
「は、早く、早く童貞を捨てないと……俺はこんな悍ましい生き物に成りたくない……っ!」
「酷くない? 人間扱いすらしてないじゃん、もう」
「こんな気持ちを抱いたのは、幼い頃、あの怪物を見た時以来だぜ……」
「やめよう? 今後の伏線になりそうな重要な記憶をこんなところで思い出すのは」
その後、私は何とか怖がる治明を宥めて、落ち着かせた。
やれやれ、ちょっと青少年には刺激が強かったかな?
「大人になっても、こんなのは御免だぜ」
「そうかい? でもまぁ、これで私が芦屋とそういう仲になるような存在じゃないということを理解してもらったと…………あっ」
ここまで来て、私はようやく思い出す。
そういえば、芦屋は…………うん。
「あっ?」
「…………や、何でもないよ」
「そんなわけないじゃん」
「さぁ、さっさと事務所に帰ろうか。そろそろ暗くなって来たし」
「…………」
「無言で土下座をしようとするのは止めなさい! なんだよ、君たちは! ええい、未成年が私に頭を下げるんじゃない! くそ、完全に私が忌避することを把握されている!」
真顔で土下座しようとする治明を押しとどめて、私はため息を吐く。
適当な嘘を吐こうにも、じっと見つめるこげ茶色の瞳の前で、虚偽が通じるようには感じなかった。
「分かったよ。でも、大したことじゃないかもしれない。君は既に知っていて、私が余計な気を遣っているだけなのかもしれない」
「前置きはいいから、さっさと言えよ」
「……これは、最近、私が芦屋と一緒に午後のティータイムを楽しんでいた時の事なのだけれどね?」
私はつい先日のことを思い出す。
退魔師を始めてから、一か月記念。初任給が口座に入っていたのを確認した私は、駅前の菓子店でちょっと上等な和菓子を買って、芦屋に振る舞うことにしたのだ。
もちろん、他の先輩方にも何かしらの差し入れをする予定ではあるが、まず、教育係として散々世話になっている芦屋に渡すのが筋だと考えたのである。
偶然と、気まぐれだったのかもしれない。
私が差し入れた和菓子が偶然、芦屋の好物であり、無表情ながらも喜んでくれたから、つい気を緩ませてくれたのかもしれない。
ぽろっと、世間話の延長として、プライベートなことを話してくれたのだ。
「芦屋、好きな人が居るって」
「………………えっ?」
「詳しいこと知らないけれど、相手、年上だって」
「……………………とし、うえ?」
「学校の友達に、よく相談しているんだって。年上の男性って、どんなファッションが好きかなぁ? とか」
「ファッション……好き……年上……男性……」
「えっと、知らなかったの?」
「…………しら、な、かった……は、ははは」
「乙女の秘密だから、言いふらしたりするつもりはないけれど。でも、芦屋からは『親しい間柄の人は普通に知っていることですから、同僚間では気を遣わなくていいですよ』って言われたから、てっきりその、ね? 芦屋に好きな人が居ることを前提で、それでも、横から『俺の魅力で掻っ攫ってやるぜ!』という感じだと、その時は思っていたんだけど……えー、うん」
「知らなかった……知らなかった……は、はははは……道化、無様……」
「違ったみたいだね?」
完全に目が死に、心此処に在らず、といった風体の治明。
その姿は、先ほど圧倒的な強さを見せつけた退魔師とは程遠い。
これが学生退魔師。強く、けれど、精神的に脆い彼らに対して、私は大人として一体、何が出来るのだろうか?
…………とりあえず、今は彼をどうにかして、励ますことを考えるとしよう。
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「別に構いませんよ。むしろ、そうなればいいと狙っていたことでもあるので、気を病まないでください、山田さん」
「そ、そっかぁ。あの、治明の方は?」
「これを機に、私を諦めていただけると皆が幸せになりますね?」
ちなみに、私の行動やら、治明のリアクションも全て、芦屋の掌の上だった模様。
うん、最近の女子高生って怖いわ。




