序章:7年ぶりの故郷
【SIDE:鳴海朔也】
忘れてしまいたいくらいに辛い出来事があって。
逃げてしまいたくなるほどの悲しい気持ちを抱いて。
都会の騒々しさから逃れるように、傷心の俺が訪れたのはかつての生まれ故郷。
故郷と呼べる町は綺麗な海に面した田舎町。
ふと、その町に帰りたくなくなった。
逃げ場を求めるように救いを求めた。
そんな生まれ故郷で、俺にとって運命を変えてくれる出会い。
何かが待ち受けているような予感がしていた――。
「……まだ春だって言うのに気温が高いな」
電車から降りたばかりの俺を待ち受けるのは見渡す限りのオーシャンビュー。
蒼き海が広がる光景は久々に眺めると爽快だ。
潮風の匂いに海鳥の鳴き声、砂浜に打ち寄せる青い波。
「7年ぶりか。本当に久々だ、美浜町に帰ってきた感じがする」
自然が多く残る田舎町、美浜という名前の通り海に面している町だ。
美浜町って名前自体は日本全国の海が綺麗な町でよくある名前だ。
この美浜町は人口は2万人程度の小さな町で、過疎化も進んでいると聞いている。
都会とは全く違う田舎独特の光景。
昭和時代を思わせる古い建物や町並みは懐かしさと古さを感じる。
俺の名前は鳴海朔也(なるみ さくや)、大学を卒業したばかりの22歳。
中学生を卒業と同時に親の仕事の関係で俺は東京へと引っ越した。
都会での生活が長く、田舎だったこの町の記憶が薄れ始め、もう2度と戻る事はないと正直、思っていた。
しかし、運命とはあるものである。
「まさか、この町に戻ってくる事になるとはな」
俺は荷物を抱えながら、駅から外へと出る。
目の前に広がる浜辺、海を眺めていてもいいのだがあいにく遊んでいる時間はない。
「ここから歩いて行けば時間通りか」
俺は春の穏やかな気候を肌で感じながら道を歩きだす。
この春、大学を何とか卒業した俺は教師として美浜町に戻って来た。
中学の頃から教師になる夢を抱いて、実際になれたのはいいのだがが、この田舎町で教鞭を振るう事になるとはまったくもって想像はしていなかったのだ。
県立美浜高校、それが俺の職場となる高校の名前である。
「と言っても、俺は通ったことがないから母校ってわけでもないんだけど」
中学卒業と同時にこの街から去っているので、実際に美浜高校には通っていない。
そもそも、この町には高校がひとつしかない。
母校でなくても、ここで教師になろうとすると選択肢はなかった。
駅前でタクシーでも使おうと迷うと思ったが、結局歩いて行く事にする。
まだまだ新生活で金は使うので節約せねばならない。
「……潮風か。ここ最近、まったく忘れていた感覚だ」
肌に触れる潮風とその匂いは俺に懐かしさを思い出させてくれる。
しばらくの間、歩き続けていると懐かしい商店街にたどり着いた。
「かもめ通り商店街、か。懐かしいなぁ」
古びた田舎町の商店街、この先を抜ければ確か高校があったはずだ。
想像していたよりも、駅前の商店街はシャッター通りとひどいありさまではなく、それなりに繁盛しているように見える。
すっかりと寂れた町を想像していたので、どこか安心する。
もちろん、昔のままの店もあれば店が変わっている所もある。
「おや、もしかして、朔ちゃんじゃねぇか?」
魚屋の前を通った時に一人のおじさんに声をかけられる。
俺の名前を呼ばれて振り返ったら、その顔に見覚えがあった。
「……はい? あっ、斎藤のおじさん!?」
「おおっ、本当に朔ちゃんか! 久しぶりだな! 何年振りだぁ?」
元気のいい大声で挨拶してくるおじさんが俺の肩を叩いてくる。
俺の親友の父親であり、商店街でも人気のある魚屋の店長でもある。
「ずいぶん雰囲気が変わったが、懐かしいな。どうしたんだい? この町へ帰省か?」
「いえ、そういうのではなくて……」
俺の家族は今でも東京暮らしでこの町には誰も住んでいない。
当時、俺の父親の仕事の都合で暮らしていただけ。
俺にとっては生まれ故郷でも、鳴海家にとは過去の住処というところだ。
「スーツ姿? もしかして、もしかするとこの町のどこかに就職ってか?」
「はい。実は美浜高校の教師としてこの町に赴任することになったんです」
「おー、教師かい。朔ちゃんは教師になったのか。それはよかったぜ。あの高校も人手が足りないって嘆いていたからなぁ。朔ちゃんが戻ってきてくれたか」
俺の肩を嬉しそうに叩いて喜ぶおじさん。
戻ってきた事を歓迎されるのは嬉しいことだ。
「この町から出ていく若者はいても、戻ってくる若者はほとんどいない。都会に行ってしまった奴らはもう帰ってこねぇ。それが現実だからな」
「……そういうものですか」
「うーん、若者に魅力の乏しい町だからな。就職先も限られてるし、それも自然の流れってやつだろうが、寂しいものだぜ」
俺もまさか戻ってくるとは思ってませんでした。
そう内心で思いつつも、愛想笑いで誤魔化す。
「朔ちゃんが帰ってきて嬉しいぜ。うちの末娘も今は、あの学校に通っていてな。先生としてよろしく頼むな。そういや、町に戻って来た事は皆には言ったのかい? せがれからも聞いてなかったが」
「いえ、実はまだ誰にも。斎藤は今どうしていますか?」
あれから7年、携帯の電話番号も知らず。
伝える手段もなく、まだ誰にも伝えていない。
この町を出て行って以来、斎藤達とも全然連絡をとっていなかったからな。
「うちのせがれか? アイツは漁師になってな、いっちょ前に自分で船だして漁師やってる。今の時間だとこの町の漁業組合にいるはずだ。朔ちゃんはこれから用事があるんだろ?」
「えぇ、これから学校の方に挨拶をしなくちゃいけなくて。そうだ、斎藤が帰ってきたらこの住所へ、夕方くらいに来てくれるように伝えてもらえますか?」
斎藤はこの町で長い付き合いだった幼馴染のひとりだ。
まずは親友に会っておくべきだろう。
メモ帳に連絡先と住所を書いた。
おじさんは「おぅよ」とその紙を受け取ってくれる。
「アイツも朔ちゃんに会えること、きっと嬉しいはずだ」
「……そうだといいんですが」
腕時計を見るとそろそろいい時間だった。
「それでは、失礼します。またそのうちに来ますよ」
「おぅ。町の皆には俺から朔ちゃんが帰って来た事を言っておいてやるからな。ははは、これはいい知らせだ。みんなも驚くぞ」
「えぇ、よろしくお願いします」
挨拶を終えて、そのまま立ち去る。
商店街を抜けた先に広がるのが目的の高校だ。
中学校と高校が隣同士に建てられている。
「……美浜高校。ここが俺の職場になるのか」
過疎化の進む田舎町。
子供の数も減っていく現実通り、生徒数にも影響している。
在校生徒数も数百人規模と少なめだった。
「少ないねぇ。田舎を捨てて都会暮らしをしてた俺が言うのもアレだけど」
少子高齢化、日本の全国で起きている問題だ。
田舎となれば当然教師の数も制限される。
教師の道もそう容易くはなかった。
かつての生まれ故郷で教師をすることになったのは運命と呼ぶべきか。
因果な運命。
田舎町から東京に出て大学に通い、紆余曲折を経て、再び生まれ故郷の教師をすることになったのだった。
「俺の教師生活が始まる、か。期待に満ち溢れているな」
だが、教師になるということは子供の頃からの俺の夢だ。
ずっとなりたいと憧れていた。
期待と不安が半分ずつ、俺は緊張しながら高校へと入ることにした。
俺は学校に入ると通りすがりの生徒に職員室を尋ねて教えてもらう。
予定の時間通りに職員室へとたどり着くと俺を出迎えてくれたのは年配の教頭先生だった。
「キミが鳴海君ですか。教頭の山中と言います。どうぞ」
ちょっとお堅そうで厳しそうな眼鏡をかけた初老の先生だった。
俺は応接室に案内されて、椅子に座る。
まずは簡単な説明を受けながら、自己紹介をしておく。
「はじめまして、鳴海朔也です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。鳴海君のような若い人は中々、このような町には来てくれなくてね」
「私はこの町の出身でもありますから」
「聞いているよ。だが、この学校の出身ではないんだってね?」
「残念ながら。中学卒業と同時に東京へ出ていったので。それでも縁あって、この学校で働かせてもらうことになりました」
あいにくこの学校の事はほとんど知らない。
地元の人間ならば普通に通う事になる高校だ。
俺もあのまま町に残っていればきっとここの卒業生だったはずだ。
「そのようなキミがまた町に戻ってきてくれるのは嬉しいよ。田舎暮らしなど若い人にはつまらないだろう? どうしても地方の若手の教師不足は深刻でねぇ」
斎藤のおじさん同様、この町の人間としては過疎化は問題らしい。
就職で何とか地方へ人材を呼び込もうという動きは就職活動の時に何度も目にしてきたものだ。
実際、それほど地方は厳しい現状なのだろう。
「……俺も、都合がよかったんです」
そう、俺がこの町に戻って来たのはもうひとつの理由がある。
それは都会で忘れることのできない心に負った傷があること。
この生まれ故郷に戻る事で少しは癒せるのではないか、と思っていた。
「鳴海君。今後ともよろしく頼むよ」
山中教頭先生から握手をされて俺はどこか照れくさくなる。
数年ぶりに戻って来たこの場所で俺は新しい生活を始める。
それがよかったと思える日が来るのを信じて……。
桜舞い散る4月上旬。
気分を一新し、俺の新生活が始まる――。




