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『ロックミュージック研究会』  作者: たうゆの
8曲目 Welcome To Our Festival
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3.母さんの手

 親父とアヤさんが去った病室では、変わらず母さんが話の中心にいた。


「ねぇ、ケイ。ロックミュージック研究会っていうのは、何をする部活なの?」


 母さんは目をキラキラさせながら言った。好奇心旺盛な母さんはいつだって新しいことに興味津々だ。


「そのまんまだよ」


 不機嫌なわけではないが、どうしてもぶっきらぼうになってしまう。俺は医者の話というのが気になっていた。母さんは気にならないのだろうか。


「そのまんまって、なに? ロックミュージックを研究するの? 研究って言ったって色々あるじゃない? 時代背景と合わせた考証だったり……」


「いや、研究会って名前だけど、そういうことはしないかな。みんなでバンド組んで、楽器弾いてる」


「バンド? ギター始めたって言ってたのは、そういいうことだったのね。バンドなんてすごいじゃない」


 母さんはわざと大袈裟に明るく振る舞っているように見えた。


「別にすごくなんかないよ」


「手、貸して。ギターを弾く人は指先が硬くなるんでしょ? 昔聞いたことがある」


 そう言って差し出された母さんの腕を見て、ゾッとした。触れたら折れてしまいそうな程、細い腕。その腕からは、囚人を繋ぐ鎖のように管が伸びていた。


「あ、あぁ。少し……硬いかな」


 差し出された母さんの手に自分の左手を重ねる。母さんの手は驚くほど冷たかった。

 幼いころ、母さんと手を繋いで歩いたことを思い出す。あの時の母さんの手はどうだっただろう。情景は思い浮かんだが、体温までは思い出せなかった。

 母さんの手の温度が、俺を不安にさせる。俺の体温が母さんに移って、次第に母さんの手の温度を感じなくなる。まるで俺のエネルギーを母さんに与えてるようだ。それで母さんが良くなるならいくらでもくれてやる。

 母さんは俺が思っている以上に良くないんじゃないか。ずっと頭の片隅にあった不安が、ハッキリとした形となって現れた気がした。


「あら、すごいじゃない。これ痛くないの? ほら、マリちゃんも触ってごらん。ギター弾いてると、こんな風になるんだって」


 母さんは嬉しそうに笑って、マリちゃんに俺の手を向けた。マリちゃんは母さんの笑顔で安心したのか、それまでの不安そうな顔を解いて笑った。


「本当だぁ!! すごいね!!」


 無邪気にはしゃぐマリちゃんを見て、母さんは満足そうに微笑んだ。だけど、俺は母さんやマリちゃんのように笑うことができなかった。漠然と、今回も大丈夫だろうと思っていたのが、母さんの手に触れると心配で堪らなくなっていた。だから、マリちゃんの笑顔をまた壊してしまうかもしれないと分かりつつも、訊かずにはいられなかった。


「母さん」


「なぁに?」


 母さんは、俺の気持ちが全く分からないわけじゃないと思う。いや、きっとすべて分かっている。心配していることも、不安で怯えていることも、きっと全て察している。それでもなお、察したうえで母さんは明るい声で小首を傾げるのだ。


「体調は大丈夫なの?」


 どう言えばいいか分からなくて、抽象的な言葉になる。具体的に訊いて、具体的な言葉が返ってくるのが怖かった。

 マリちゃんは、やはり少し怯えたように俺の後ろに引っ込んでしまった。その顔は不安というよりも心配している顔だ。


「大丈夫よ〜。じゃなきゃこうやってあなたの相手なんかしてないでしょ?」


 変わらず明るい声で答える母さんだが、俺は安心することができない。大丈夫なわけないことくらい分かっていたからだ。大丈夫なら倒れるわけがない。医者から何か話があるわけがない。


「母さん……。倒れたんだろ? それにその管。前はなかったよね?」


 我慢できずに結局、具体的なことを訊いてしまう。不安や恐怖よりも本当のことを知りたい気持ちが勝った。


「ちょっと疲れちゃっただけよ〜。心配しなくても大丈夫だから……」


「嘘はもういいよ!! 本当は死ぬほど苦しいんじゃないの!?」


 心配をかけまいとした母さんの言葉を遮って、大声をあげる。マリちゃんが、ビクッと体を震わせたのが分かった。


「母さん……。本当のことを言ってよ。苦しかったら苦しいって言ってくれよ。痛かったら痛いって……。俺……母さんが苦しんでるのに馬鹿みたいに笑えないよ。母さんの苦しみを俺にもしっかり分けてよ。俺は母さんに楽しいことを分けてあげるから……」


 そこまで言うと、溢れ出る涙と嗚咽で言葉にならなくなった。まだまだ伝えたいことはあったのに、上手く言葉にならない。

 隣でマリちゃんが啜り泣く声が聞こえた。怖がらせてしまった。けれど、自分でももう止めることができない。

 ヒロシさんが優しくマリちゃんの頭を撫でて、病室から出て行く気配を感じた。気を遣ってくれたのだろう。


「そうね……。心配ばかりかけちゃって、ごめんね。ケイがそう言ってくれるなら少しだけ、分けてもいいかな?」


 母さんはそう言うと下を向いて、一呼吸置いた。俺は声にならない声で肯定した。


「本当は、お母さんも怖いんだ。お母さんの体はどうなっちゃうのかなって。いつになったら元気になれるのかなって。すごく怖い。自分の体だからね。なんとなく分かるの。分かっちゃうから余計に怖い」


 母さんは泣いていた。母さんが泣いているのを見るのは、この時が初めてだった。


「でもね、一番怖いのはケイやあの人、それからアヤ。みんなの生活を、人生を壊してるんじゃないかってこと。お母さんがこんなだと、みんなしたいことができないでしょ?」


 それはまるで「死にたい」と言っているように聞こえた。そんなつもりはなかったのかもしれないが、俺には堪らなく苦しい言葉だ。


「そんなことないよ。ちゃんと元気になって、またみんなで色々なところに出かけたりするんだろ?」


「そうね……」


 母さんはそれ以上、言わなかった。言わなくても分かってしまう。伝わってしまう。それほどに重く分かりやすい沈黙。俺は何も言うことができなくなっていた。

 母さんの苦しみを半分背負うつもりでいたのに、かけるべき言葉が思い浮かばない。


「せめて……あと四年。ケイが成人するまでは生きてたいな……。ワガママかもしれないけど……ケイとお酒が飲みたい」


 あと四年は……。あまりに短い。その短い時間ですら、母さんにとっては熱望しなければならないほど遠い未来だというのか。


 母さんも俺もそれっきり黙ってしまった。これほど重く苦しい沈黙は初めてだった。どれくらいそうしていたのか分からない。不意に母さんが顔を上げる気配がした。その視線は、入口をとらえている。

 病室のドアが静かに開き、親父とアヤさん、それからその後ろにヒロシさんとマリちゃんが立っているのが見えた。

 親父の顔を見ると目の周りが赤い。ついさっきまで泣いていたのが丸わかりだ。それだけで、医者の話というのが良くない話だったというのが分かってしまう。


「あら、あなた。泣いてたの? 二人ともそっくりな顔して」


 母さんはおどけるように言った。俺や親父と同じように、母さんもさっきまで泣いていたのに。その顔はそんなことを微塵も感じさせない、いつもどおりの顔だった。そんな母さんの慣れが怖かった。


「すまん、ちょっと目にゴミが入って」


 親父は見え透いた嘘でごまかした。


「それで? 先生の話はなんだったの?」


 母さんの質問に、親父はすぐに答えることができないようだった。代わりにアヤさんが答えようとしたところを手で制して、親父が口を開く。


「大したことじゃなかったよ。このまましっかり治療していきましょうって」


 誰もが嘘だと分かったが、誰も問い詰めることができない。嘘をついた理由も、嘘をつかなければならない親父の気持ちも、みんな分かっていた。


「そう。それじゃあ、これからも変わらずってことね。ガッカリ。私はてっきり退院して、またみんなで暮らせるのかと思ったのに」


 そう言って頬を膨らませる母さんを、親父も俺も黙って見ていることしかできなかった。


「しっかり治療していけばそんなのすぐだよ」


 ようやく絞り出した親父の声は震えていた。それを隠すように、慌てて付け加える。


「あ、今日はもう帰らないと。また明日来るから」


 そう言うとサッサと病室を出て行ってしまった。その横顔は、やっぱり泣いているように見えた。

 俺たちは母さんにそれぞれ声をかけて、慌てて親父の後を追った。


 親父に追いついたのは、駐車場まで来た時だった。


「アヤ。ヒロシさん。それにマリちゃんも。今日はありがとう。アヤ、ヒロシさん。さっきの件だけど、少しだけ考えさせてくれ。結論が出たら、改めてまた連絡するよ」


 そう言われたヒロシさんは、大きくうなずいていた。

 それを確認すると、親父は早々に運転席に乗り込んでしまった。置いていかれては困るので、俺も慌てて車に乗り込む。

 マリちゃんが小さく手を振っているのが見えた。俺も小さく振り返す。それを見たマリちゃんは安心したように微笑んだ。もしかしたら怖い思いをさせたかもしれないと思っていたから、その笑顔を見て俺も安心した。

 親父は一度挨拶がわりのクラクションを鳴らすと、すぐに車を走らせた。

 病院の敷地から出てもしばらく親父は何も言わなかった。俺の方から何か話をした方が良いか迷っていると、親父の方から口を開いた。


「……母さん。あんまり良くないそうだ」


 予想どおりだった。予想どおりでも、やっぱりその言葉は棘のように胸に刺さる。構えていたのに、そんなことはお構いなしに俺の胸に確かに突き刺さった。


「先生が言うには、放っておいたらもうそんなに長くないらしい」


 長くない。何が長くないのか。本当は分かっているのに、俺の脳みそは分からないふりをする。「放っておいたら」という言葉に縋りたくなる。


「放っておかなかったら?」


「うん。治療の為に長期間海外に行く必要があるそうだが、方法がないわけじゃないらしい。けど、それには金がすごくかかる」


 お金の問題は俺には分からない。うちの家庭が裕福ではないことくらい分かっているが、母さんの命に変えられるものはないはずだ。


「海外なんていくらでも行けばいいじゃないか。俺だってついていくよ。お金。なんとかならないの?保証がなくても確率があるならそれに賭けてみたいって、俺は思っちゃうよ」


「分かってるよ。俺だってそうだ。そんなの決まってる」


 親父は苦々しく言った。


「それなら、医者の言う、その方法ってやつに掛けてみようよ。俺もバイトでもなんでもしてお金稼ぐからさ」


「バカなこと言うな。たかが高校生のバイトでなんとかなる金額じゃない。それに……アヤたちが、金は何とかしてくれるって言ってくれている。まだ返事はしていない。昔からの友人と、その夫に金の工面をしてもらおうだなんて……いくら自分の妻のためとは言え、簡単には受け入れられない」


「どういうこと? 母さんの治療にかかるお金をアヤさんたちが出してくれるの?」


「アヤは喫茶店を買い取りたいと言ってくれてるんだ。喫茶店を手放すのが嫌なんじゃない。俺はできれば自分の力でなんとかしたいんだ」


 親父の気持ちが理解できないわけではない。

 俺だって友達にお金を借りるのは抵抗がある。ギターを買いに行ったとき、結果としてケイガからお金を借りる形になった。あの時だってやっぱり嫌だったし、あの後すぐに返している。

 だから、親父が躊躇するのもうなずける。金額も、ギターなんかとは比較にならないほど高額なのだろう。

 だけど、もはやそんなことを言っている場合ではない。母さんの命がかかっているんだ。母さんを救うためならなんだってする。俺にできることならなんだって……。


 親父だって最後はきっとそう結論付けるだろうと、俺には分かっていた。

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