1.捨てる覚悟
夏フェスでのことがずっと引っかかっている。
リサさんのこと。
リサさんは『Pinky & Brack』の活動休止を発表した。唐突に。何の前触れもなく。せっかくフェスに出られるほどのバンドになったのに、そのフェスのステージ上で……。
とやかく言える立場にないのは分かってい。けれど、何か腑に落ちないモヤモヤしたものが、頭の中を渦巻いていた。
オリジナル曲をどうにかして作ろうと試行錯誤していたあの日。偶然カフェにやってきたリサさんは言っていた。
『アタシはさ、大事なものを天秤にかけるんだ。ここぞって時にはね。どちらか一つだけって決めるの。めちゃくちゃ苦しい選択をあえてする。片方は捨てる覚悟で神様に捧げるの。そうやって選んだことからは逃げられなくなるでしょ?経験上、そうすれば絶対にうまくいくよ』
活動休止とは言っていたが、リサさんは『Pinky & Brack』を捨てたんじゃないだろうか。他の何か大切なもののために。そんな疑念が頭にこびりついて離れない。俺にはその心当たりがあった。それはもうどうしようもないくらい確信めいた心当たりだった。
俺は、カフェでリサさんと会ったあの日のことを思い返していた。
カフェで会った日から少しして、リサさんからメッセージが届いた。俺はリサさんと連絡先を交換することができたのに加えて、思いのほか早くメッセージがもらえたことで浮かれていた。内容は「スタジオ入る日が決まったから、良かったらおいで」という簡素なものだった。オリジナル曲のとっかかりとなる短いフレーズはできたのに、そこからなかなか曲にできなくて困っていたときだった。これ以上ないタイミングだ。
この時、リサさんが指定した日は土日の二日間だったが、土曜日は母さんの病院に行くことになっていたから、日曜日だけ行かせてもらうことにした。
リサさんからは「君一人で来な」と言われていた。バンドのことを考えれば本当はみんなで行って、みんなで曲作りのコツを教えてもらった方が良かったのかもしれない。だから、本当はリサさんの言葉を無視してみんなでスタジオに行くべきだったのだろう。しかし、俺はそうしなかった。
みんなで押しかけて、リサさんが怒ってしまうかもしれない。曲作りの苦悩なんてものはそんなに多くの人に晒していいものじゃないから、一人だけ特別に許可してくれたのかもしれない。そうやって自分に言い訳をして、みんなへの罪悪感をごまかした。
色々と頭の中で理由をつけたが、結局のところ俺はスタジオに一人で行きたかった。リサさんともう一度二人っきりで会いたいと思っていた。
曲作りやバンドのことを抜きにしても、リサさんは魅力的だ。三つ年上ということもあるせいか、大人の色気もある。俺だって多感な高校生だ。あんなに魅力的な年上の女の子と二人っきりで会えるとなれば、素直に嬉しい。だから、やっぱり少し浮かれていたんだと思う。
リサさんからの誘いがあった数日後。
突然、親父から連絡があった。その日は課題曲のレコーディングを翌日に控えた木曜日で、俺は客のいないカフェでギターを弾いていた。
今にして思えば、家で毎日顔を合わせているのにわざわざ電話をして来ることに違和感を覚えるべきだった。そうすれば、その時点で心の準備ができただろう。よくよく考えれば、緊急事態に決まっている。そして、親父が俺に急ぎ連絡しなければならないような緊急事態は、一つしかない。
それなのに俺は、何も考えずに親父の電話に出た。あまりにも不用意だった。
電話に出るなり親父は、静かな声で言った。
「母さんが、また倒れた」
それだけ言って、黙ってしまった。
始めは親父が何を言っているのか分からなかった。
母さんは俺が小学五年生のときに倒れて以来、長いこと入院している。そして、その病状はとりあえずのところ小康状態だったはずだ。退院できない程度に良くはないのだろうが、特別心配するほど悪くもない。それが俺の認識だった。だから、普段母さんのことを考えることはあっても、それは心配や危惧をするようなものではなかった。
母さんが倒れたと言われてもすぐには事態が飲み込めない。
「どういうことだよ……」
そう言うのがやっとだった。そう言ったきり言葉が出てこない。電話口からは、親父が何か言っているのが聞こえたが、何を言っているのか理解できなかった。親父も俺も明らかに動転していた。小学五年生の時のことが頭をかすめる。
そんな俺の様子を見ていたアヤさんが、異変に気付いてそばまで来てくれた。俺の表情やケータイの表示画面、漏れる音声から状況を察したのだろう。俺の手からケータイを奪い取ると、親父に向かって「今、病院?今すぐ行くからそのまま待ってて」と言って電話を切った。アヤさんは、動揺する俺たちと違って冷静だった。
「ケイくん。私は今からお母さんの病院に行ってくるね。ケイくんはここで待ってなさい。ケイくんが来る必要があると私が判断したら電話するから。電話にはいつでも出られるようにしてて。それから、お店は臨時休業の札を出しておくから閉めちゃっていいよ」
アヤさんの言葉は、俺の耳を右から左に流れていった。アヤさんが何を言っているのか、その半分も分からない。
「大丈夫。心配しなくていいよ」
色々と慌ただしく準備をすると、アヤさんはそう言ってカフェを出て行った。「大丈夫」その言葉だけはしっかり俺の耳にも届いた。あのときも大丈夫だった。心配するようなことじゃない。俺は必死にそう言い聞かせていた。
アヤさんがいなくなると、客のいないカフェはしんと静まり返って、もの寂しい場所になった。
ふと気がつくとそこにはSGがあった。
『片方は捨てる覚悟で神様に捧げるの。そうやって選んだことからは逃げられなくなるでしょ?経験上、そうすれば絶対にうまくいくよ』
リサさんの言葉が頭に浮かんだ。捨てられない。捨てられるわけがない。
俺は完全に自分を見失っていた。考えるべきことが何なのか。すべきことは何なのか。その優先順位もなにもかもが分からなくなっていた。
俺は、ただただ呆然と真っ赤なSGを見つめ続けていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
俺はミズキの「大丈夫?」という声で我に返った。高校に進学して以来、ミズキは部活が忙しく、ほとんどカフェに来ることはなかった。学校で会えば挨拶や軽い雑談はするが、中学のときに比べるとその頻度は大きく減っていた。ミズキが忙しくなったこと以上に、俺がロミ研に入って、仲間ができたことが大きかったのかもしれない。高校進学以来、ミズキはそんな俺に遠慮しているように思える。
ミズキがやってきたのはきっと偶然ではない。俺のことを心配したアヤさんが連絡したのだろう。
「ケイ。大丈夫?」
ミズキの声からは、事情を聞いているのか聞いていないのかが分からなかった。単に「ケイくんが落ち込んでいるから元気付けてあげて」と言われているだけということもありうるが、あのアヤさんに限ってそんな中途半端なことはしないだろう。だから事情はしっかり伝わってるはずだ。
「うん。なんとか。びっくりしたっていうか……なんていうか。でもこれで二度目だから慣れてる」
無理にそう言って笑っても、ミズキは少しも笑わなかった。むしろ、より心配そうに表情が曇る。
「本当に大丈夫?ねぇ、ナナカちゃんとかエリちゃん、それにケイガくんに連絡して来てもらう?」
どうしてもケイガや他のロミ研メンバーには連絡して欲しくなかった。




