薬と冷めたカップ
夜風にさらされながら、ニアはカジの家の前で足を止めていた。
あの夢の続きを確かめるように、無意識にここまで来てしまったのだ。
けれど、その扉の前には、先客がいた。
小さな影――その姿に、思わず声をかける。
「……こんな時間に、どうしたの?」
振り向いた少女は、驚いたように目を見開き、すぐに少しだけ笑った。
「ねえちゃんこそ。カジに用か?」
小さな体にオーバーオール。クロガネと同じ色の髪、どこか似た口ぶり――
それだけで、ニアには察しがついた。
「クロガネさんの、娘さん?」
少女はにっこりうなずいてから、家の扉を見上げ、ぽつりとこぼした。
「……カジが、昨日ちょっと、泣きそうな顔してやがって。
だから、父ちゃんになにか言われたんじゃないかって、ちょっと心配で来たんだ」
ニアは、目を伏せる。その理由が、少しだけわかる気がした。
娘は続けた。まるで、自分自身に語りかけるように。
「私にとっては、父ちゃんはすごく良い人なんだよ。
母ちゃんが“ダメ”って言うことも、父ちゃんは“いいよ”って、こっそりやらせてくれてた。夜のお菓子とか、寒い日でも外で遊ぶとか、ね」
けれど、そこから声の調子が少し変わる。
「でも、今思うと、母ちゃんが“ダメ”って言ったのにはちゃんと理由があったんだ。
私、体弱いからさ。甘いもの食べすぎると夜喘息が出たりしてたのに……。
なのに、“母ちゃんなんて嫌い!”って言っちゃって。たくさん泣かせた。
……たぶん、それが原因で、母ちゃん、出てったんだと思う」
少女は唇を噛みながら、それでも笑おうとした。
「でも、今は母ちゃんと一緒に住んでる。最近やっと、笑ってくれるようになったんだ。
……でも、父ちゃんのこと、ずっと好きなんだ。母ちゃんも、好き。
だからね――“元通り”には、もうなれないんだって、ちゃんとわかってるけど……でも、
それでも、大切なの」
ニアは黙って彼女を見ていた。
言葉の端々からにじむ想い――ちいさな子どもが、抱えてしまった大きな傷。その痛みと、強さに、心が震えた。
「……父ちゃんや母ちゃんには話したの?」
彼の問いに、娘は首を横に振った。
「…ううん。話してない」
ニアは一瞬考えて、そして優しく笑う。
「親子だからって、なんでも言わなきゃいけないわけじゃないって、僕は思う。でも、伝えたいって思えたときは、伝えてもいいと思う。伝わっても、伝わらなくても……君の父ちゃんも母ちゃんも、ちゃんと“親”だから。君のこと、大事に思ってる」
少女は照れたように目をそらし、そっと頷いた。
***
テーブルの上には、娘が残した薬の包みと、冷めたカップ。
シノがぽつりと口を開いた。
「…あなたのそれは、全部“甘やかし”なの。あの子のためになってない」
頭を抱えるように、俯くシノに、クロガネはゆっくりと眉をひそめた。
「……お前が厳しすぎるんだ。病気のことばかり言ってたら、あいつ、笑えなくなるだろ」
その言葉にシノの肩がピクリと揺れた。
「それに……やっと生まれてきた子なんだ。病気なんて気にせず、ほかの子と同じように過ごさせてやりたい」
手元のコップをいじりながら、彼は続ける。
「いや、むしろ……あいつは、ほかの子とは違う。きっと美人にも育つし、頭もいい。きっと、たくさん才能を持ってる。……親として、逆に忙しくなるかもなあ」
まるで希望をなぞるように言うその声に、シノは少しだけ目を伏せ、ため息をついた。
そして、静かに、けれどはっきりと告げる。
「……あなたの劣等感を、アカリに向けないで」
その一言で、クロガネの中に何かが音を立てて崩れた。頭が、一気に熱くなる。
「なんだと?……そういうお前は、できた母親なのかよ!」
響く震えた大きな声。
「アカリの病気が悪化したのも、お前のせいじゃないのか!」
視界が、怒りでにじんだ。
シノは黙ってこちらを見ている。けれど、その顔はなぜか、よく見えない。
そして、不意に。
「……父ちゃん? 母ちゃん?」
静かに開く扉。そこには、あの小さな、かけがえのない娘――アカリの姿があった。
クロガネは、戸惑いながらも娘を抱き上げる。
「なあ、アカリ。お前は父ちゃんのほうが好きだよな? お菓子食べさせてやったり、遊びにいっぱい連れて行ってるしな?」
クロガネはアカリを抱き上げ、問いかけた。
「うん! 父ちゃんのが好き! 母ちゃんはなんでも“だめ”って言うもん。母ちゃん、きらい!」
シノの顔がどうしても見えない。
いや――違う。見ようと、しなかった。
その視線の先には、ひび割れたコップが転がっていた。




