声の残響
雪の積もるダンジョンの前で、ノーラは石板に向かっていた。
駒を動かし、記録を取る。
メンバーたちの会話が断片的に流れ込んでくる。
「兆さんは、地下牢で子どもを選んだ。躊躇いはあったけれど、自分の手で鎖を外した……」
ペンを走らせる。
「光さんは、兆さんを"安全"と見做していた。でも——」
その時だった。
視界が、ぐらりと揺れた。
「……っ」
ノーラは石板の縁を掴む。
めまい。
いや、これは——
世界が、別の景色に塗り替わっていく。
***
瞬きをした瞬間——
目の前の廊下が、別の風景に書き換わる。
古びた木の机が整然と並び、
黒板の前には誰もいない。
なのに、席には生徒たちの“影”が座っていた。
チョークの粉の匂い。
教科書をめくる紙の音。
……実在した記憶の“手触り”だけが鮮やかに残っている。
ノーラは息を呑んだ。
(……なぜ? 私には、対応キャラがいないはず……)
子どもたちは無言で座っている。
顔は見えない。
ただ、黒板には問題が書かれていた。
『正解は……どれだと思う?』
声が響く。
子どもたちの影がざわざわと動き、
いくつかの選択肢を奪い合うように手を伸ばす。
「Aだよ」「違う、B!」「先生はCが好きなんだよ!」
ノーラは小さく首を振る。
「……違う。答えは、もっと——」
その瞬間。
子どもの一人が、ゆっくりとノーラを指差した。
『忘れないで』
ノーラの喉が、じわりと熱を帯びた。
息ができない。
喉元に、見えない手が触れているような感覚。
「……っ、ぁ……」
ノーラは喉を押さえ、その場に膝をついた。
***
教室で、子どもたちに教える教師の声が響いていた。
語学の授業が始まっている。
だが、教室の隅で——
一人の少女が、ずっと数式を解き続けていた。
ノーラだった。
問題集のページをめくり、鉛筆を走らせる。
先の授業で出された問題が、どうしても気になって仕方がない。
解けるまで、次に進めない。
教師の声が遠くで聞こえる。
「先生、なんで勉強しなきゃいけないの?」
子どもの一人が、退屈そうに手を上げた。
「……大事なことだからよー。みんな席座ってー」
教師の声には疲れが滲んでいる。
「つまんない」
「そう言わずに、ね」
教師は溜息をつき、教室を見回した。
そして——隅で問題集に向かうノーラに気づく。
「ほら、ノーラさんも算数の授業は終わりよ?」
ノーラは聞いていない。
鉛筆の音だけが、カリカリと響く。
「ノーラさん? 聞いてる?」
反応がない。
教師の声が、少しだけ鋭くなる。
「……ノーラさん!!!」
びくり、と肩が跳ねた。
ノーラは顔を上げ、きょとんとした目で教師を見る。
「……え?」
教師は深く息を吐いた。
疲れと、諦めと、ほんの少しの苛立ちが混ざった溜息。
「……もういいわ。好きにしなさい」
その言葉に、ノーラは小さく頷き——
また、問題集に目を落とした。
周囲の子どもたちが、ひそひそと笑う声が聞こえた。
でも、ノーラには聞こえなかった。
ただ、数式だけが世界の全てだった。
***
ノーラは石板の前で、荒い息を吐いていた。
喉の熱は、ゆっくりと引いていく。
手が震えている。
石板の駒が、一つ倒れていた。
流れ込んだのは、アシュベル家の記憶でもなんでもない。私自身の記憶。
なのに不意によぎった。
「……私にも、"部屋"がある……?」
小さく呟く。
だが、答えは返ってこない。
ただ、雪の音だけが静かに降り続けていた。
***
真っ暗な闇の中。
暗闇の外の鉄柵が軋む。
冷たい金属音の向こうに、かすかな嘘の匂いが漂っていた。
「……アサヒ。さっきから妙だぞ」
キサラギは立ち止まり、アサヒの顔をのぞき込む。
「妙……ですか?」
「柵に触れると“どうなるか”を、ずっと言おうとしない」
アサヒは肩を揺らし、小さく目を伏せた。
「い、いや……言ってるんですけど……その……“びっくりするだけ”って……」
「びっくりじゃ済まない。痛い。危険だ。傷も——」
キサラギが言いかけた瞬間、
アサヒの表情がびくり、と強張った。
キサラギは確信した。
「傷、だ。……その反応。なぜだ?」
「い、いえ……別に……」
アサヒは首を横に振るが、顔は青ざめている。
「じゃあ訊く。柵に触れたら“痛む”のか?」
「……それは……」
「“危険”なんだな?」
「そ、それも……その……」
「じゃあ——“傷つく”?」
その瞬間、アサヒは反射的に口を押さえた。
喉の奥で何かが暴れたような反応。
(……なんなんだこの違和感……いや、あいつの“嘘の不器用さ”か……?)
キサラギは一歩近づく。
「アサヒ。お前、何を言いたくない?」
詰めるような言い方にアサヒは目線をそらす。
「アサヒ、お前が今、避けた言葉……“傷つく”だ」
「ち、違います……」
「じゃあ言ってみせろ。
柵に触れると——“傷つく”のか?」
言わせようとするキサラギ。
「アサヒ。言え」
「……だめ、です……」
「なぜ?」
「……言ったら……キサラギさんが……」
そこで言葉を切る。
キサラギの眉が動く。
「俺が……どうする?」
「……怒る?嫌な気持ち?になるかもしれないから……」
震えてるのに強い言葉。
(……なるほど、そういうことか)
キサラギの胸が締め付けられた。
キサラギは深く息を吸った。アサヒが避けているアサヒらしい言葉。
「……”傷つけたくない”」
アサヒは喉を抑えながら、膝をつく。おそらく対話の作用で喉が焼けるのか。
「————」
顔を伏せ見つめる黒い床に小さな声で言葉を吐き捨てる。しかし、その言葉はキサラギには届かなかった。




