かすかな弧
館の廊下は静かだった。
雪を含んだ外気が細く入り込み、冷たい匂いを運んでくる。
ふと、半開きの扉が目に入った。
(……なにか、聞こえる)
リュミナがそっと覗くと、薄暗い室内には二人の男がいた。
一人は床に膝をつき、もう一人はその前に立っている。
「もっと頭を下げろよ」
乾いた笑い声。嘲るような声音。膝をついた男が、さらに額を下げた。
そのとき、男がふと扉の気配に気づき、ゆっくりとこちらを向いた。
リュミナと目が合う。ゆっくりと弧を描く男の唇。
——瞬間。
廊下に、乾いた破裂音のような響きが走った。
「——”動くな”」
男の開きかけた唇よりも先に、リュミナの後ろから声を投げられた。
短い命令。
それだけで、空気が一瞬みしりと重く沈んだ。
リュミナは、命令が降った刹那――
ぴたりと身体が動かなくなった。呼吸すら、奪われたように。
(……動かない? 本当に……)
リュミナは驚きに目を瞬いた。
声のした方を見ると、廊下の陰に立つ青年がいた。
黒い外套を羽織った鋭い目の男――アデウス。
アデウスは男を睨みつけ、牽制するように目を細めた。まるでこれは自分のものだと言わんばかりに。
「あんまり、面白いもんじゃないだろ」
指を鳴らすと、空気がふっとゆるんだ。
「『楽にしろ』」
薄い光が解け、リュミナの身体が再び動き戻った。
リュミナはまだ状況を理解できず、口を開いた。
「……いまの、は?」
「……“呪い”」
アデウスは窓辺に片手を置き、雪の積もる村道を眺める。
「ここの一族は、変な呪いにかかってる。言葉に、力が宿る」
「……呪い……」
「ああ。昔は館の外にすら出られなかったらしい。初代がかけた呪いのせいでな」
アデウスは淡々と続けるが、その声には諦念の色があった。
「今は村までは行けるようになった。それでも――縛られてることに変わりはねぇ」
少し間を置いて、肩をすくめた。
「最初はただの遊びだったんだとよ。“従うって楽でいい”とか、“従わせるのも悪くねぇ”とか……そんな狭い屋敷のつまんない冗談が始まりだった」
「……遊び、だったんですか?」
アデウスはかすかに笑い、天井を見上げた。
「“考えるのに疲れたやつら”が、安心だの優越だのにすがって……いつの間にか、この館はイカれた“言霊の巣窟”になっちまった。いや、イカれてたからこんなことになったのか」
そして、リュミナの首元を見る。
そこには昨日刻まれたばかりの、淡く光る輪――従属印。
「触んなよ。それ、揺らすと痛ぇだろ。別に嫌だったら外せるから言え」
リュミナは小さくうなずく。視線が落ち、光が震えた。
少しの沈黙の後、アウデスは大きく、長く息を吐いた。
「……今が一番、この一族が“栄えてる”らしいぜ」
言葉の端には毒が混ざっているのに、どこか哀しさもあった。
「……どうして?」
「決まってんだろ」
アデウスは手の甲を見下ろした。
そこには薄い刻印――
誰かに命じ、誰かを縛り続けた者の証が刻まれている。
「“従わせて、従われて、言葉で世界を縛ってる”からだよ。そりゃあ、なんでもできるように見えるさ、変な万能感が生まれるんだ」
リュミナはその痕跡をじっと見つめた。
「アデウス様は……多くの方を従えているのですか?」
「俺は悪い奴だからな」
その言葉は軽かったが、そこにあったのは悪ぶりではなく——重い責任。
そして、どうしようもない孤独だった。
「覚えとけ」
アデウスは歩き出し、リュミナの横をすれ違いざまに言う。
「“背負う”のは命令した側だけだ。
だからこそ――軽々しく使わせるな。使わせるんじゃねぇ」
リュミナは静かに頷いた。
アデウスの背中は大きい。
なのに、どこか壊れそうな影が差している。
ふいにアデウスが立ち止まり、振り返りもせず言った。
「……それと万能感ってのはな、従わせる方だけが生まれるものでもない」
声が、少しだけ低く落ちる。
「……従う方も、万能感って生まれるんだよ」
リュミナは息を呑んだ。
視線を戻す。
膝まずいていた男の口元は――主人よりも濃く、歪んだ弧を描いていた。
***
庭園の霧は濃く、鉄柵の迷路は静かに軋んでいた。
一人で柵に触れればダメージを受ける——そう気づいてから、空気はさらに張り詰めていた。
「……気をつけろよ。さっきの音聞いただろ、柵にひとりで触ると——」
キサラギの言葉を遮るように、「アサヒ」は無理に言葉を挟んだ。
「はい……でも、えっと……」
妙に言葉を飲み込んでいる。
「あの……触れても……そんな、大したことには……ならない、と思います」
キサラギは眉をひそめた。
アサヒは先にこの庭に来ていて、当然柵にも触れているだろう。
だがキサラギが試したときのあの衝撃は、“大したことない”などと到底言えない。
「アサヒ。触れたら“どうなる”?」
静かに問い直す。
「えっと……あの……ちょっと、“びっくりする”だけで……」
(こいつ、まじか)
アサヒは“痛い”“傷つく”“危険”“ダメージ”——
そういった語を、まるで避けるように一切言わない。
それは、嘘が下手というレベルではなく、
“その語を発すること自体が禁じられているかのような”不自然さだった。
「こっち……このルートなら、安全かもしれません」
「アサヒ」が指した先を見て、キサラギは眉をわずかに寄せた。
その角度が、微妙に“避けている”ように見えたからだ。
(……あの方向を嫌がっている?)
アサヒは地図を持っているわけでもない。
なのに、明らかに“そこだけ通りたくない”挙動がある。
「アサヒ、お前……何か知ってるのか?」
「えっ、いや、なんにも……」
明らかに言葉が詰まった。
その“嘘のつき方”が、アサヒにしてはあまりに拙かった。
(こんなわかりやすい嘘つくか……?いや……嘘自体、滅多につかないやつだろ)
キサラギの胸に、ひとつの仮説が広がる。
(——あの方向に、行ってほしくない理由がある)
そう考えると、すべてが腑に落ちた。
「アサヒ。さっきから避けてる場所があるだろ」
「べ、別に……そんな……」
また、目が泳ぐ。
アサヒの嘘は明確だったが、その“理由”だけが霧の中に隠れていた。
「……嘘をつくな」
アサヒがびくりと肩を震わせた。
「嘘なんか——」
「アサヒ、お前……“言いたくないこと”を避けてる」
一瞬、「アサヒ」の呼吸が止まったように見えた。
(図星、か)
彼は“ある言葉”を避けている。
それが何なのかまでは、まだ見えない。
「……仕方ないな」
キサラギは喉元へ手を当てる。
「……Invoke」
宣言が落ちた瞬間、空気が一段硬く沈む。
アサヒは項垂れるように肩を落とし、両手で顔を覆った。
その仕草は絶望そのもののように見える——が、その指の隙間で、唇がほんの僅か、上がった。




