火に消えた声
紫の指先が喉元へ触れ、空気がぴたりと止まる。
「……Invoke」
世界の色がひとつ鈍く沈み、空気が一段濃くなる。宣言空間が閉じ、外界は音ごと隔絶された。
焔羅は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「はいはい、始まっちゃったねぇ」
紫は表情を動かさないまま、焔羅へ視線を落とす。
「……もう一度聞く。お前の部屋は、ここ、もしくはこの近くだな」
「……そうじゃないかもしれないし、そうかもしれないねぇ」
「お前は慎重で、ビビりだ。そういう——みみっちい距離の取り方をする」
焔羅の瞳が細くなる。
「……もうそんなに情報得てるの? 優秀だねぇ、さすが」
「質問する側じゃないだろ、今は」
言葉が喉奥でせき止められた。焔羅は唇を噛む。見えない縄が首に絡みつくような感覚。
紫は静かに、古びた手記を開いた。
「この手記に、旧館の火事のことが書いてあった」
「へぇ」
——使用人の?
その一瞬、焔羅の眉が引きつった。
紫は淡々と続ける。
「アシュベル家は、たまたま生まれた言霊の子を起点に能力が血に伝播したらしい」
「ずいぶん教えてくれるんだね」
「これは全員に必要な情報だからな」
紫は焔羅の表情を一つひとつ拾いながら、まるで手探りで核心へ近づいていく。
「使用人の女は、代々この屋敷に仕えていた」
焔羅が息を吸い込む。だが紫は間を与えない。
「血の繋がりもないのに」
「——それが何だよ」
声が上擦った。紫はそれを見逃さなかった。
「家に留まり続けた」
焔羅の指先が、無意識にテーブルの縁を掴む。
「……だから"どこにでもいける"はずなんだ」
焔羅の目が揺れた。
「……いけないでしょ」
紫は言葉を返さず、じっと見つめた。
「……いけない、でしょ……」
焔羅の声が低く沈む。宣言空間が心の揺らぎを拾い、本音が喉から這い上がってくる。
「とらわれてるだけだろ。呪いみたいに」
「——ふざけんな」
焔羅の感情が刃のように跳ねた。余裕が顔から消える。
「なに? 自分のこと言ってんのかよ」
「……どこへでも行けたんだ」
焔羅の呼吸が浅く、速くなる。
「どこへでも行けるなら——」
止められない本音。動揺で声が裏返った。
「どこにいたっていいだろ……!」
「……気づいてないんだな」
「気づいてねぇのはそっちだろ……?」
紫は手記を開き、指で一節をなぞった。
「"残しておくんだ、逃げ道を"」
焔羅の顔色が変わる。血の気が引いていく。
「優しいつもり? 誰も頼んでねぇだろ」
「逃げ道というのはな——相手の選択肢を狭めないためにある」
紫は静かに言葉を落とす。
「…………逃げ道なんかより……」
焔羅は奥歯を噛んだ。
「悪いと思うなら、最後まで責任持てよ」
喉の奥から血の味がする気がした。
「責任があるからこそ、距離を置くんだ」
顔色を変えずに答える紫にさらに苛立ちは加速する。
「ちげぇだろ。だったら……ちゃんと……ずっと」
「一緒に?」
焔羅の喉が動く。
「…………ちゃんと……懐に入れろよ……一人に、ほんとはなりたくないくせに」
言葉が飛び出した瞬間、焔羅は息を呑んだ。——しまった。手が震える。
「……あーもう、やだやだ。勝手に悲しい方に行かれんの」
隠すように、いつもの調子のトーンに声音を戻す。それはもう今更だった。
紫は静かに、焔羅の言葉の震えを受け止めていた。
「逃げるなら……一緒に逃げろよ。残すなら……こっちごと残せよ」
焔羅は紫を睨みつけた。
「……そのくらいしねぇなら、優しさで片付けんな」
紫のまつ毛が震えた。
「……このゲームの"禁句"ってな」
紫は焔羅の胸の内へ指を滑らせるように言葉を紡ぐ。
「言ってほしかったこと、なんじゃないか」
「……知らないけどさ」
「知ってるだろ」
紫は手記を閉じた。そして静かに告げる。
「これは"使用人"の手記じゃない」
「……は?」
「手記の筆跡を見ろ。教育を受けた者の字だ」
紫は指で手記の表紙をなぞった。
「それに——使用人なら、主人を"あの方"と書く。だがこの手記は、使用人を"彼女"と呼んでいる」
焔羅の顔色が変わる。
「これは"当主"の手記だ。だから使用人の言葉が曖昧だった」
紫は焔羅の目を見つめた。
「だが——お前の反応でよくわかった」
「……っ」
焔羅の拳が震える。
「逃げ道を作るふりをして、結局、しっかりと拒絶はできなかった。勇気がなかったからだ」
紫の声が、かすかに低くなる。
「やるなら——最初から突き放さなきゃいけなかった」
「なあ紫ちゃん……」
焔羅が顔を上げた。
「それ、あんたの話か?」
紫の瞳が揺れた。言葉が喉元まで上がってくる。
「ほんと……だめな当主様だな」
紫が息をため、禁句を告げる構えをした瞬間——厨房全体がギィンッと軋み、床から鎖の幻影が這い上がる。
そして。
「"どこにもいかないで"」
——その言葉を聞いた瞬間。
厨房の空気が凍りついた。鎖の幻影が焔羅の足首に絡みつく。
焔羅の口元が、ゆがんだ弧を描いた。笑っているのか、泣いているのか。頬を汗が一筋、伝い落ちる。
ゲームなのに。
罠なのに。
——嬉しかった。
***
旧館の離れが燃えていた。
夜の静寂を破り、炎が赤い呻きを上げながら窓を割る。
セイラが異変に気づいたのは、たまたま廊下の掃除をしていた時だった。
当主の姿が見えない。甥は無事に避難している。——嫌な予感がした。
息が焼けるほど走り、離れの奥へ踏み込むと。
「——当主様!」
崩れ落ちた梁に挟まれ、当主は床に伏したまま動けなくなっていた。
意識は朦朧としているが、かすかにこちらへ目を向ける。
「……セイラ、なのか」
「すぐに……すぐに助けますから……!」
引こうとしても、木材はびくともしない。
炎はどんどん迫り、熱で足元の石が弾けた。
「……早く逃げなさい」
「いやです! 置いていけません!」
「……間に合わない」
当主は静かに言った。その声は、燃えさかる音の中でもはっきり届いた。
「では……ここで一緒に……」
「馬鹿を言うな」
炎が、二人のすぐそこまで迫っていた。
今にも爆ぜるような熱気。呼吸が痛い。
当主は、苦しい息のまま言葉を続けた。
「……君は、親の代から勤めてくれていたね」
セイラの喉が震える。
「でも、何の血のつながりもない。
君は——どこにでも行ける」
「……どこにもいけません」
迷いはなかった。
むしろ胸の奥から、自然とその言葉があふれた。
「私には、当主様しかいません」
当主の目が揺れる。
セイラは熱に汗を浮かべながら、しかし真っ直ぐに告げた。
「使用人にも優しい当主様を、お慕いしております。
優しいからこそ、自ら言葉を飲んで、人を傷つけないようにしている当主様を……お慕いしております」
当主は静かに笑った。
「……かわいそうに」
「……え?」
「きっと小さいころから、言葉に当てられてしまったんだ」
「違います、私は——」
轟、と炎が天井を破った。
熱風が二人を飲み込むように押し寄せる。
限界だった。
当主はうっすらと目を開き、喉元へ手を当てた。
「……っ! いや……いやです、やめてください……!」
セイラが叫ぶよりも早く——
「“どこにでも行きなさい”」
その一言で、セイラの足が勝手に動き出した。
心と逆方向へ、身体だけが裏切る。
「いや……いやです……!
ほんとうは、一緒にいてほしいって……顔に書いてあります……当主様……!」
涙がこぼれた。
出口へ押し出される直前、セイラは必死に振り返った。
炎に包まれようとする当主が——
苦しさよりも先に、どこか安堵したような微笑を浮かべていた。
セイラの耳には、もう届かなかった。
「……どこにもいかないで」
それは、炎の奔流の中に消えていく
たったひとりの本音だった。




