アシュベル家の言霊
夕刻の茶会が終わり、屋敷には静かな夜気が満ちていた。
セイラは盆を胸に抱え、当主の部屋の前で一度深く息を整えた。
扉を軽く叩くと、中から穏やかな声がする。
「……入っていいよ、セイラ」
部屋に入ると、当主は書類の山に囲まれていた。
柔らかなランプの灯りが、彼の喉元に刻まれた淡い文様を照らす。
「お茶を、お持ちしました」
「ありがとう、セイラ」
カップを置くと、当主は少しだけ笑った。
「いやあ、昔馴染みと久々に会ったから、つい盛り上がってしまったよ。長く付き合わせてしまって……悪かったね」
「……いえ。お気になさらず」
セイラは淡々と返しつつも、視線はわずかに揺れた。
その揺れを隠すように、静かに問いかける。
「……当主様は、無人島に行きたいのですか」
当主は目を瞬き、すぐに小さく笑い声を漏らした。
「今日の話かい? はは……ないよ。そもそも僕たちは、外に出られないからね」
セイラの指が、盆の縁をわずかに強く握る。
「煩わしいものを持っているからね」
当主はそれに気づかないまま、喉元へ手を添えた。
「先々代なんて、言葉を発することすらできないほど力が強かったらしい。それに比べたら、僕らはずいぶん薄まったよ。ようやく——あんな他愛もない話をできるようになった」
セイラの胸が、ぎゅうと縮む。
当主は静かに続けた。
「……でも、そうだね。無人島なら誰もいない。言葉の力を気にする必要もない。いや、そもそも……話す相手もいないから、言葉すら忘れてしまいそうだよ」
その呟きに、セイラは思わず一歩踏み出していた。
「——私が、忘れられないようにいたします」
当主の手が止まった。
机に広げられた書類は、一族が代々扱ってきた誓約書・契約文・公正証書——言霊の力で効力を持つ”言葉の魔術”だ。
セイラはその横で、ほんの少し震える声を落とした。
「……私は、どこまでもお供いたします」
当主の背中がわずかに揺れた気がした。
「ですから……」
セイラは勇気を振り絞り、声を絞り出した。
「……私を、連れて行っては……くれませんか」
部屋に静寂が落ちた。
当主は何も言わない。
返事はなく、わずかに俯いた横顔だけが、ランプの灯に揺れていた。
***
村の外れに、ひっそりと広い森がある。
その奥に建つアシュベルの館は、いつからそこにあるのか誰も知らない。そんな不気味な屋敷で、セイラはメイドとして働いていた。
ずっと昔——ある双子がアシュベル家で生まれた。
兄には言霊の力があった。
子供は、力の強大さゆえに言葉を発することもできなかった。触れた紙にさえ効力が宿り、筆談さえままならなかった。
しかしその能力を乱用したのは、弟だった。
兄の触れたノートを持ち出し、ある没落貴族を滅ぼした。
兄はその時初めて、言葉を発した。
アシュベル家の長い呪いの始まりだった。
アシュベル家には代々、言葉に力を宿した子が生まれるようになった。
初代は力が強すぎて、屋敷の外へ出ることすら許されなかったという。初代が言葉に出して決めたことだった。
——言葉は、人を救うより、傷つけるほうが早い。
その恐れから、館はゆっくりと閉ざされていった。
けれど一族は、その力をただ呪いとして抱いたわけではない。
“契約書”“誓約文”“公正証書”——
言葉に強制力を宿せる彼らは、それらの文を作り、村や国の仕事を請け負うことで、ひとつの生業を築いた。
私は、そんな屋敷に仕えるただの使用人にすぎない。
アシュベルの血は、私には流れていない。
外の世界を歩ける、普通の人間だ。
——本来なら、いつだって辞めていい立場だった。
母が勤めていたから、というだけで働き始めた場所。
けれど、気がつけば私は、あの屋敷を出たいと思ったことが一度もなかった。
……いや、違う。
“ある人のそばを離れたくなかった”のだ。
***
午後の庭園には、穏やかな陽が差していた。
石畳の上を、小さな影が駆けてくる。
「叔父様!」
当主は読んでいた書類から顔を上げ、穏やかに笑った。
「どうした、そんなに慌てて」
「見てください、これ!」
少年——まだ十歳にもならない甥が、手に何かを握りしめている。
小さな石ころ。よく磨かれて、陽に透けている。
「綺麗でしょう? 川で見つけたんです」
「ああ、綺麗だな」
当主は少年の頭に手を伸ばしかけ——
ふと、手を止めた。
代わりに、石ころを指先で受け取る。
「よく見つけたね」
「叔父様にあげます」
「……ありがとう」
当主の声は優しかったが、どこか遠かった。
少年は気づいていない。ただ、嬉しそうに笑っている。
そのとき——背後から、女性の声がした。
「あらあら、当主様のお邪魔をしてはいけません」
振り返ると、少年の母親が立っていた。
整った顔立ち。
「……構わないよ。邪魔なんかじゃない」
当主は静かに答えた。
母親は深く頭を下げる。
「恐れ入ります、当主様」
その声には、抑揚がなかった。
まるで、決まった言葉を繰り返すだけの人形のように。
当主は目を伏せた。
「……少し、休んでいてくれ」
「いえ、当主様のためなら——」
「休んでくれ」
強い口調。
母親は一瞬、戸惑ったように目を瞬いた。
だがすぐに、再び頭を下げる。
「……かしこまりました」
彼女は少年の手を引き、庭園の奥へと歩いていった。
少年が何度か振り返り、手を振る。
当主は小さく手を振り返した。
***
それから数分後。
母親が屋敷の誰かに呼ばれ、少し離れた場所へ向かった。
彼女はもともと、移動するサーカス団の踊り子だった。
自由に、風のように旅をしていた。
だが今は——屋敷に嫁ぎ、それをよく思わない者たちから、無用に呼びつけられたり、嫌がらせを受けている。
当主は、その光景を何度も見てきた。
けれど、止めることができなかった。
彼女の息子の少年は一人、当主の隣に座っている。
当主は何も言わず、ただ庭の木々を眺めていた。
「……叔父様」
少年が小さく声をかけた。
「母上、たまに踊りを見せてくれるんです」
「……踊り?」
「はい。とても、楽しそうなんです」
少年の声が、ほんの少しだけ明るくなる。
「母上が言うには、遠くの北の方にある国は、冬になると湖が凍って、その上に乗れるんだって」
「……ああ、聞いたことがある」
「母上、本当はそこで、いつか踊りたかったんだって」
当主の手が止まった。
少年は俯き、小さく呟く。
「……でも、今は——」
言葉が途切れる。
「母上は、苦しそうです」
当主は何も答えられなかった。
ただ、少年の小さな背中を見つめていた。
***
甥と別れた後、当主は庭園のベンチに座っていた。
そこへ、セイラが茶を運んできた。
「お疲れ様です、当主様」
「……ありがとう、セイラ」
カップを受け取り、当主は一口飲む。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、当主が口を開いた。
「……僕らの言葉は、強すぎるんだ」
セイラは黙って聞いている。
「どんな言葉にも、微弱に力が乗っている。意図しなくても、相手を縛ってしまう」
当主は遠くを見つめた。
「きっと——彼女も、当てられたんだ。無意識に」
セイラは静かに答えた。
「……奥様の、意思です。屋敷に残ったのも、きっと」
当主は複雑そうに笑った。
「……そう信じたいけどね」
セイラは何も言わなかった。
ただ、当主の横顔を見つめていた。
——もし、私も同じだったら?
もし、この想いも、言葉の余波に過ぎなかったら?
そんな不安が、胸の奥で小さく蠢く。
だが——それでも。
セイラは、盆を胸に抱きしめた。
風が吹き、木々が揺れた。
その音だけが、二人の間に流れていた。




