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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十四章 アシュベル家の館

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アシュベル家の言霊


 夕刻の茶会が終わり、屋敷には静かな夜気が満ちていた。

 セイラは盆を胸に抱え、当主の部屋の前で一度深く息を整えた。

 扉を軽く叩くと、中から穏やかな声がする。

「……入っていいよ、セイラ」

 部屋に入ると、当主は書類の山に囲まれていた。

 柔らかなランプの灯りが、彼の喉元に刻まれた淡い文様を照らす。

「お茶を、お持ちしました」

「ありがとう、セイラ」

 カップを置くと、当主は少しだけ笑った。

「いやあ、昔馴染みと久々に会ったから、つい盛り上がってしまったよ。長く付き合わせてしまって……悪かったね」

「……いえ。お気になさらず」

 セイラは淡々と返しつつも、視線はわずかに揺れた。

 その揺れを隠すように、静かに問いかける。

「……当主様は、無人島に行きたいのですか」

 当主は目を瞬き、すぐに小さく笑い声を漏らした。

「今日の話かい? はは……ないよ。そもそも僕たちは、外に出られないからね」

 セイラの指が、盆の縁をわずかに強く握る。

「煩わしいものを持っているからね」

 当主はそれに気づかないまま、喉元へ手を添えた。

「先々代なんて、言葉を発することすらできないほど力が強かったらしい。それに比べたら、僕らはずいぶん薄まったよ。ようやく——あんな他愛もない話をできるようになった」

 セイラの胸が、ぎゅうと縮む。

 当主は静かに続けた。

「……でも、そうだね。無人島なら誰もいない。言葉の力を気にする必要もない。いや、そもそも……話す相手もいないから、言葉すら忘れてしまいそうだよ」

 その呟きに、セイラは思わず一歩踏み出していた。

「——私が、忘れられないようにいたします」

 当主の手が止まった。

 机に広げられた書類は、一族が代々扱ってきた誓約書・契約文・公正証書——言霊の力で効力を持つ”言葉の魔術”だ。

 セイラはその横で、ほんの少し震える声を落とした。

「……私は、どこまでもお供いたします」

 当主の背中がわずかに揺れた気がした。

「ですから……」

 セイラは勇気を振り絞り、声を絞り出した。

「……私を、連れて行っては……くれませんか」

 部屋に静寂が落ちた。

 当主は何も言わない。

 返事はなく、わずかに俯いた横顔だけが、ランプの灯に揺れていた。

***

 村の外れに、ひっそりと広い森がある。

 その奥に建つアシュベルの館は、いつからそこにあるのか誰も知らない。そんな不気味な屋敷で、セイラはメイドとして働いていた。

 ずっと昔——ある双子がアシュベル家で生まれた。

 兄には言霊の力があった。

 子供は、力の強大さゆえに言葉を発することもできなかった。触れた紙にさえ効力が宿り、筆談さえままならなかった。

 しかしその能力を乱用したのは、弟だった。

 兄の触れたノートを持ち出し、ある没落貴族を滅ぼした。

 兄はその時初めて、言葉を発した。

 アシュベル家の長い呪いの始まりだった。

 アシュベル家には代々、言葉に力を宿した子が生まれるようになった。

 初代は力が強すぎて、屋敷の外へ出ることすら許されなかったという。初代が言葉に出して決めたことだった。

 ——言葉は、人を救うより、傷つけるほうが早い。

 その恐れから、館はゆっくりと閉ざされていった。

 けれど一族は、その力をただ呪いとして抱いたわけではない。

 “契約書”“誓約文”“公正証書”——

 言葉に強制力を宿せる彼らは、それらの文を作り、村や国の仕事を請け負うことで、ひとつの生業を築いた。

 私は、そんな屋敷に仕えるただの使用人にすぎない。

 アシュベルの血は、私には流れていない。

 外の世界を歩ける、普通の人間だ。

 ——本来なら、いつだって辞めていい立場だった。

 母が勤めていたから、というだけで働き始めた場所。

 けれど、気がつけば私は、あの屋敷を出たいと思ったことが一度もなかった。

 ……いや、違う。

 “ある人のそばを離れたくなかった”のだ。

***

 午後の庭園には、穏やかな陽が差していた。

 石畳の上を、小さな影が駆けてくる。

「叔父様!」

 当主は読んでいた書類から顔を上げ、穏やかに笑った。

「どうした、そんなに慌てて」

「見てください、これ!」

 少年——まだ十歳にもならない甥が、手に何かを握りしめている。

 小さな石ころ。よく磨かれて、陽に透けている。

「綺麗でしょう? 川で見つけたんです」

「ああ、綺麗だな」

 当主は少年の頭に手を伸ばしかけ——

 ふと、手を止めた。

 代わりに、石ころを指先で受け取る。

「よく見つけたね」

「叔父様にあげます」

「……ありがとう」

 当主の声は優しかったが、どこか遠かった。

 少年は気づいていない。ただ、嬉しそうに笑っている。

 そのとき——背後から、女性の声がした。

「あらあら、当主様のお邪魔をしてはいけません」

 振り返ると、少年の母親が立っていた。

 整った顔立ち。

「……構わないよ。邪魔なんかじゃない」

 当主は静かに答えた。

 母親は深く頭を下げる。

「恐れ入ります、当主様」

 その声には、抑揚がなかった。

 まるで、決まった言葉を繰り返すだけの人形のように。

 当主は目を伏せた。

「……少し、休んでいてくれ」

「いえ、当主様のためなら——」

「休んでくれ」

 強い口調。

 母親は一瞬、戸惑ったように目を瞬いた。

 だがすぐに、再び頭を下げる。

「……かしこまりました」

 彼女は少年の手を引き、庭園の奥へと歩いていった。

 少年が何度か振り返り、手を振る。

 当主は小さく手を振り返した。

***

 それから数分後。

 母親が屋敷の誰かに呼ばれ、少し離れた場所へ向かった。


彼女はもともと、移動するサーカス団の踊り子だった。

自由に、風のように旅をしていた。

だが今は——屋敷に嫁ぎ、それをよく思わない者たちから、無用に呼びつけられたり、嫌がらせを受けている。

当主は、その光景を何度も見てきた。

けれど、止めることができなかった。

 彼女の息子の少年は一人、当主の隣に座っている。

 当主は何も言わず、ただ庭の木々を眺めていた。

「……叔父様」

 少年が小さく声をかけた。

「母上、たまに踊りを見せてくれるんです」

「……踊り?」

「はい。とても、楽しそうなんです」

 少年の声が、ほんの少しだけ明るくなる。

「母上が言うには、遠くの北の方にある国は、冬になると湖が凍って、その上に乗れるんだって」

「……ああ、聞いたことがある」

「母上、本当はそこで、いつか踊りたかったんだって」

 当主の手が止まった。

 少年は俯き、小さく呟く。

「……でも、今は——」

 言葉が途切れる。

「母上は、苦しそうです」

 当主は何も答えられなかった。

 ただ、少年の小さな背中を見つめていた。

***

 甥と別れた後、当主は庭園のベンチに座っていた。

 そこへ、セイラが茶を運んできた。

「お疲れ様です、当主様」

「……ありがとう、セイラ」

 カップを受け取り、当主は一口飲む。

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、当主が口を開いた。

「……僕らの言葉は、強すぎるんだ」

 セイラは黙って聞いている。

「どんな言葉にも、微弱に力が乗っている。意図しなくても、相手を縛ってしまう」

 当主は遠くを見つめた。

「きっと——彼女も、当てられたんだ。無意識に」

 セイラは静かに答えた。

「……奥様の、意思です。屋敷に残ったのも、きっと」

 当主は複雑そうに笑った。

「……そう信じたいけどね」


セイラは何も言わなかった。

ただ、当主の横顔を見つめていた。


——もし、私も同じだったら?

 もし、この想いも、言葉の余波に過ぎなかったら?


そんな不安が、胸の奥で小さく蠢く。


だが——それでも。


セイラは、盆を胸に抱きしめた。


風が吹き、木々が揺れた。

その音だけが、二人の間に流れていた。


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