影の案内人
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先ほどの焔羅との対話のダメージもまだ残る中、キサラギは庭園を歩いていた。ずくずくと疼く心の臓を抑えながら進む。
庭園の奥は、迷路のように鉄柵が入り組んでいた。
柵の一本に触れた瞬間、隣の柵が開いた。しかし、開かれた扉は、重みに負け、そのまま閉じる。そしてキサラギに胸の奥へ鈍い痛みが走る。
(……これは1人ではクリアできない仕組みだな、しかもうまくやらないと片側が怪我する)
嫌な仕掛けだ。
キサラギは眉をひそめ、次のルートを探そうとした。
そのとき。
「……キサラギさん」
背後から穏やかな声がした。
振り返ると、アサヒが木漏れ日の向こうに立っていた。
少し息を切らし、心細そうに目を伏せている。
「……アサヒか」
「はい。えっと……ここ、複雑すぎます。
どこを歩けばいいのか、全然わからなくて……」
不安そうに袖を握る仕草。
困ったような目の動き。
——どれも、アサヒらしかった。
キサラギはほっと息をつき、表情を少しだけ緩めた。
「……ああ。一人じゃ厳しい」
アサヒは柵に近づき、そっと指を伸ばす。
触れる直前に引っ込め、柵の角度と足場を観察した。
「……この柵、触ると……誰かが傷つく仕組みっぽいです」
キサラギは驚いたように目を向けた。
「……気づいたのか」
「なんとなく、です。風の流れが……違和感があったので」
(風の流れ……?)
理由は曖昧すぎる。
だがアサヒの直感は昔から妙に当たる。
そう思うと、不自然さはすぐ霧散した。
アサヒは迷路の全体をじっと眺める。
その目は真剣で、少し苦しそうでもあった。
キサラギは無意識にアサヒから視線を外す。
子供の苦しい表情を見るのはどうも苦手だった。
(……レイと違って、こいつは無茶しねぇ。慎重だ)
キサラギはそう思い、アサヒの判断を静かに待った。
やがてアサヒは、小さく息を吐き——
「……このルートなら、たぶん安全です」
そう言って、柵の角度と通路の隙間を示した。
その指先は震えていた。
だが、声はしっかりしている。
「どういう理屈だ?」
「説明が難しいんですけど……
向こう側の柵の“反応”が、ここだけ薄いんです。
……試すなら、今しかないと思います」
キサラギは視線を柵へ向けた。
確かに、言われてみれば異常はない。
音も、風も、匂いも変わらない。
(……こいつの勘、馬鹿にできねぇしな)
アサヒは心配そうにキサラギを見た。
「……け、見当違い、ですか?」
アサヒはよくこのような顔をする。折れる気がないくせに、情けのない顔。
勇者というものは矛盾のある表情をよくする。
「いや……信じる」
その一言に、アサヒは小さく笑った。
安心したように、ほっと。
(……なんだ、その顔)
妙に胸がざわついたが、キサラギは気づかないふりをした。
「行きましょう。……慎重に」
アサヒが先に歩き出す。
柵には触れず、慎重に隙間を歩く。
その背中を見つめながら、キサラギは短く息を吸った。
——庭園のどこかで、微かに誰かの呻き声がした。
キサラギは気づかなかった。
アサヒの歩調が乱れ、肩がほんの少し震えたことにも。
***
扉を抜けた先は、薄暗い廊下だった。
石畳が長く続き、奥にはまた別の部屋の影が沈んでいる。
光は淡々と前を歩きながら、手のひらを軽く押さえていた。
血はもう止まっているが、あれだけ平然と傷をつけたくせに、不思議とその仕草だけは人間らしかった。
「……やっぱり、こういう仕掛け多いな。犠牲とか、条件とか」
兆は手のひらを見ながらぼそりと呟く。
光は横目でちらりと兆の傷を確認した。
「センパイは採血慣れしているので、助かります」
「……慣れてねぇよ」
光はふわりと首を傾げた。
いつもの、生身なのか機械仕掛けなのか判別できない微笑。
「でも、定期検診には慣れてますよね?」
「……まあ、あれは仕事みたいなもんだが」
歩みが少しだけ緩くなる。
兆は前を見据えたまま、ぼそりと続けた。
「あれ、お前が担当になってからだよな。以前の担当より……回数多くねぇか?」
「当然です。あなたの場合、チェック項目が多いので」
光はさらりと言い、石畳を靴先でコツ、と弾く。
「あなたの血液は、変動が激しいんです。興味深いデータが多い」
「……なあ、光」
兆はげんなりしたように眉を下げた。
「お前、いつも俺の血を見て何が楽しいんだ?」
光は一瞬だけ瞬きをした。
そのあと、ためらいなく答える。
「データです」
「……だろうな」
「あなたは興味深いサンプルですから」
言い切るその声は透明で、悪意も羞恥もない。
ただ純粋に“研究者”の響きだけがあった。
「それに——」
光は指先で自分の袖を整えながら、さらりと続けた。
「あなたの場合、後遺症がいつ出るかわからないんですよね?」
兆の足が一瞬止まった。
「……おい。待て。それどういう意味だ」
「言葉通りです」
光は歩みを止めない。
「あなたの体質は、不安定です。
精神状態・環境・刺激……どれも影響する。
だから毎回、血液データを見るのが楽しみなんです」
その“楽しみ”の言い方があまりにも無邪気で、
兆は頭を抱えたくなる。
「……お前、少しはオブラートに包めよ」
「センパイのためを思って、正確に説明しているだけです」
「はいはい、ありがとよ」
兆がため息をついたとき——
廊下の先で小さく“カチリ”と音がした。
新しい扉が、ゆっくりと開く気配。
光はそちらへ顔を向け、わずかに目を細めた。
「次の部屋ですね。
……センパイ、動揺すると症状出ますから、心拍を整えてください」
「お前のせいだろうが」
「はい、わかっています」
光は悪びれず頷いた。
兆は頭をかきながら、その後ろ姿を追った。
(……こいつ、よくわかんねぇな)
そう思いながらも歩調を合わせる自分に、
兆はふと気づかなかった。




