夢の配役
廊下はやけに長く、踏むたびに床板の音が遅れて返ってくる。
兆は首をかしげながら歩き、気づけば広いホールへと抜けていた。
ダンジョンに入ってすぐ光に包まれ、気づけば古びた屋敷のとある一室で目を覚ました。どうやら全員別の場所に飛ばされたらしい。兆はゲームのルールも定かではないまま、とりあえず体を動かすことにした。
鼻をくすぐるのは、古い紙と鉄の匂い。
正面には重厚な扉が一つ。
扉の前には、なぜか秤が置かれていた。
——何を量れと言うのか。
兆が秤に近づいた瞬間、扉がひとりでに軋みを上げ、ゆっくりと開き始めた。
兆は反射的に構える。
扉の向こうには、淡い明るい金色の髪を揺らした光が立っていた。
「……お前か」
兆の声に、光は表情を変えずに視線を向けた。両手をひらひらと揺らしながら、敵意がないことを示す。
「待ってください」
光は扉の縁に片手を添えたまま、息を整えるように言った。
「一旦、手を組みましょう」
兆は目を細める。
「不用心じゃないか。仲間を作るのは」
「仲間じゃありません」
光は静かに訂正した。
「一旦手を組むだけです。
ここは……一人では、解析できない」
その声音があまりに無機質で、嘘の響きがない。
兆はほんの一瞬だけ迷った。
光は食えない女だ。頭も切れる。心理戦で勝ち目がないことは理解している。今回のダンジョンでは圧倒的「不利だって考えてます?」
自分の思考に光の言葉が重なった。
「確かに私はセンパイより賢いし、そのうえ可愛いので、そう思うのも無理はないと思います」
今可愛いは関係あるか? 俺にそんなことで張り合って何になるんだ、と頭に浮かんだ。
「センパイ馬鹿だなぁ、ほら、私のペースにのせられてる」
やわらかいようなどす黒いような声音で光は言葉を続ける。
「でも私だけだと、力が足りなさすぎる。表の仕組みをクリアできる自信がありません。お互いに苦手なとこ、補いあいませんか? ね?」
光は秤を指さしながら、静かに笑った。
くるくると円を描く指先を見つめる。
——その瞬間だった。
視界が揺れる。
光の立つ位置と、暗がりの奥の空気が、別の景色に重なった。
床のきしみも、光の気配も、一瞬だけ遠のく。
***
冷たい風が吹いた夜から、男はなぜか礼拝堂に顔を見せるようになった。
まるで教えも聞くつもりもない癖にだ。
シスターはそんな彼を無視して、机の向こうで本を開いていた。本来ならば通報案件のこの男をすぐそばに置いた状態で。
数式が並ぶノート。
物語が綴られた手記。
アシュベル家に伝わる、古い記録。
男はただ黙って座り、たまに問いかけた。
「……それ、なんて書いてあるんだ」
「数式です。水の流れを計算しているんです」
「……なんで」
「村が、沈んでいくから」
短い会話。
それでも、男の目にはいつも微かな光があった。
それが“興味”なのか、“寂しさを埋めるもの”なのか、
シスター自身にも判断がつかなかった。
「……なんで」
「小さなゆがみがあるんです。誰も気にも留めない歪み。それがどんどん広がっていく」
子供のような男の問いかけに、シスターは律義に、丁寧に言葉を重ねる。
「やべぇじゃん」
「……でもだいぶ先のことです。私たちが死んだあとの遠い話。だから、こんなのは」
静かに目を細めながら、ノートに指を滑らせる。
「……でも、やべぇだろ」
男の言葉に、シスターの手に力が入る。鋭利なノートの縁がシスターの指を切り裂いた。指先に伝う赤い液体。
「あー、何してんだよ」
シスターの細い腕をつかみ、男は指の赤いしずくを舐めとる。さらにシスターの手に力が入る。
倫理観の通じないこの男は、人食いの一族なのだ。
他愛のない会話ですっかり忘れていた。
そんなシスターの表情に気づいた男は、静かに眉を下げて笑った。
「……怖い?」
瞼の裏に、礼拝堂の古い十字架が揺れた。
***
「……センパイ?」
光の声で我に返る。
扉の向こうから漂う空気は、食堂のものではなかった。
空腹を誘う香りではなく、計算しつくされた静けさ。
「……わかった。 一旦だけだ」
秤はわずかに揺れ、何かを求めている。小さな声で光の「……ちょれー」という声が聞こえたが、兆は素知らぬ顔で横を通り、扉の中へ足を踏み入れた。
まるで、自分の知らない記憶の続きを追うように。
***
閃光とともに調査隊メンバーが消えていったダンジョンの前で、ノーラはボード盤のような石板と向かい合っていた。
目を閉じては、石板の駒をゆっくりと動かしていく。
「兆さんは心理戦を避ける傾向がある。……思考力はありませんが、直感が強いので、無意識には理解していそうですね」
ダンジョンの仕組みのせいだろうか。
目を閉じると、各メンバーの会話や思考が、断片的に頭へ流れ込んでくる。
「……兆さんは、びっくりするほど、この役にぴったりですね」
***
気分の悪い夢から醒め、キサラギは薄暗い廊下を歩いていた。
きっと今のは、自分に”割り当てられた役”の過去だ。
胸糞が悪いほど自分と親和性のある夢だった。
足取りに重さが滲む。
苛立ちを紛らわせるようにタバコに手を伸ばしたが、匂いでバレる可能性を考えて結局火はつけない。そのまま歩き続け、気づけば厨房へと続く小さな扉の前に立っていた。
扉には古びた札が打ち付けられている。
——《命令レシピ》。
読んだ瞬間、胸の奥に微かな違和感が走った。
札に指先で触れると、何かが沈んだような音がする。
この食材保管庫に、何か”鍵”がある——そう踏んだキサラギが扉を押そうとした、まさにその時。
「——Invoke」
背後から、低い呼気のような声が落ちてきた。
命令の響きを持つ、焔羅の声だ。
キサラギはわずかに眉を動かしただけで、振り返らずに言う。
「……いきなりだな。不躾すぎる」
「いつも指示されてばっかだから、たまにはいいんじゃない?」
軽く笑う、いつもの調子。
「……ちょっと構ってよ、キサラギ」
目の下に刺青を携えた男。
——焔羅だった。




