観測者の夜
研究室の窓から、やわらかな光が射していた。
長期休みに入ったこの時期、研究棟には人の気配がほとんどない。
ノーラはいつも通り、ひとり机に向かっていた。
授業もないこの時間は、誰にも邪魔されずに考えを掘り下げられる。
実家に帰る気も起きなかった。帰っても、何を話せばいいのかわからないからだ。
静かな部屋の中で、紙の音だけが響いていた。
――扉がノックされる音がした。
顔を上げると、年配の教授が立っていた。
手には、ノーラが提出した論文の束。ページをめくる指が一瞬止まる。
「……これを書いたのは君か?」
低く驚いた声。
「この考察、すばらしいよ。とても面白い」
胸の奥がじんと熱くなった。
それは、生まれて初めて“私”に向けられた賛辞だった。
誰にも理解されず、要領も悪く、何をしても遅れていた自分が――
たった一度だけ、人並みに認められた瞬間。
そのときノーラは静かに思った。
――これが、私の唯一“人並みにできること”だった。
***
『――つまり、ダンジョン攻略に人手がいる、というわけですね?』
雪の灯りが乱反射し、白い光が室内を淡く照らしていた。
三人は、光の声が響く通信端末に目を向ける。
「はい。街で流行っている“言霊ゲーム”が、そのままダンジョンの構造になっているようです。
私は調査のために物語部分まで読んでしまったので、観測者の役しかできません。
少なくとも、あと三人以上は必要になります」
ノーラは厚手のノートを閉じ、静かに伝えた。
紫が腕を組み、ぶっきらぼうに言葉を継ぐ。
「多ければ多いほど、クリアには近い。……できるだけ人を寄こしてくれ」
『了解です。ちょうど兆センパイの定期検診が終わったところなので、二人で向かいます。それと――近くで任務中のキサラギさんたちにも連絡しておきますね』
通信が切れると、室内に再び静けさが戻った。
外では、雪がさらさらと降り続いている。
***
みんなが寝静まった後だった。
窓の外には、音もなく雪が降り続いている。
机の上のランプだけが、小さく部屋を照らしていた。
ノーラはページを指でなぞりながら、“観測者としてのルール”をもう一度読み返していた。
――この物語の結末を、知っている。
まだ誰も知らないことを、ひとりだけ知っている。
それなのに、なにもできない。
その背中に、静かな足音が近づいた。
「……眠れないんですか?」
ノーラが顔を上げる。
扉の陰に、レイが立っていた。
「今日は驚かないんだね」
「はは……なんとなく、来るかなって思って。ちょこっと待ってました」
「……なんか、行動バレてるみたいで恥ずかしいな」
「レイくんという人を、学び中ですから」
なんでもない会話に、短い沈黙が混じる。
レイの視線が、机の上のルールブックに落ちた。
「また読んでたの?」
「……未練がましくも、少し離れがたくて」
「……」
「ダメですね。深くは言えませんが、物語に感情移入してしまうんです。
でも私は、もう“なんとかする権利”を失ってしまった」
ノーラは苦く笑い、両手で本を包み込む。
「昔から要領が悪くて、なにもできないんです、私。
せっかく人並みにできることがあったのに、それすら叶わなくなってしまった」
レイは、ノーラを見つめていた。
言葉をかけようとして、かけられなかった。
「……シスターの気持ちが、痛いほどわかるんです。
もう彼女にとって遅いかもしれないけど……どうか、どうにか……」
その声は震えて、最後は雪の音に消えた。
ランプの灯がわずかに揺れる。
ノーラは喉元に手を当てる。
細い首の皮膚から、かすかに漏れる淡い光。
まるで呪いのような、痛みを孕むその感覚。
レイの目には、ノーラの姿がゆっくりと別の誰かに重なっていく。
アサヒの影。紫の背中。ニアの横顔。
かわるがわる、誰かの痛みが彼女に重なって見えた。
――ああ、だめだ。この思いを、淘汰してはいけない。
窓の外では、雪がまだ降り続いていた。
静かな白の中で、ノーラの喉の光だけが、かすかに瞬いていた。
「ノーラ、俺ーー」
ランプの光が、机の上の本の金文字を照らした。
***
「楽しくないなら、早くやめたほうがいいわ」
熱くなる喉元を抑えながら、うずくまるノーラに、母は言った。
冬の台所。湯気の立つやかんの音が、妙に遠くに聞こえた。
「……楽しいとか楽しくないとか、そういうのじゃないんだよ、これは。やらなきゃいけないの」
自分が生きるために、そうでなきゃ生きられないようなもので。まるでガンのような。
「やらなきゃいけないとか、そうふうに思うなら、やらないほうがいいに決まってるわ」
違う。違うのに。どうにも伝わらない。
奪わないでほしい。誰にも唯一のものを。
熱い感覚を、現実感を、リアリティを、みんな本当は知っているはずなのに。
それを口にした瞬間、誰もが目をそらす。
「あー……はは……」
ノーラはあきらめたような乾いた声を、熱い喉から吐き出した。
台所の灯りが、少し遅れて消えた。




