半分だけ開いた扉
翌朝、雪は少しだけ弱まっていた。
吐く息が白い道を流れ、遠くの森の奥に館の影が見える。
その前で、ひとりの男がタバコをふかしながら座り込んでいた。
手には買い物袋。どうやら町から戻ってきたらしい。
年の頃は三十前後、外套の裾には街の埃がついている。
「……あんたら、ダンジョンに挑むのか」
声は低く、少し掠れていた。
レイが警戒を滲ませながらも頷く。
「調査のために。村の方ですか?」
「生まれも育ちも、そうだ。けど、もう出た。今は外の町にいる」
男は肩をすくめ、煙を吐き出した。
「親の様子見で帰ってきただけだ。……ここには、ずっとはいられねぇ」
言葉のあとに、雪の粒が音もなく落ちた。
ノーラが小さく問いかける。
「どうしてですか?」
男は目を細め、煙を見送った。
「村のやつらは悪いやつじゃない……でも、息が詰まるんだよ」
雪を蹴りながら、男は館の方を見やる。
「……俺も昔、一度だけ入ったことがある」
その言葉に、三人は一瞬息をのんだ。
「……どうだったんですか?」
レイの問いに、男は少し笑って、静かに言った。
「……クリアできなかったよ」
煙が風に散り、残り火が雪の上に落ちた。
「地元の仲間たちと挑んだんだけどな。みんな途中で黙った。
“もう考えたくない”って言ってさ。……俺も、結局同じだった」
レイの胸の奥で、何かがひりついた。
ノーラは本を抱きしめ、視線を落とす。
「最初のうちは、考えないことが怖かった。でも、なにを言っても、誰も聞いちゃくれない。……それが一番、堪えたな」
吹雪の音が一瞬止む。
男の吐く息が白く滲む。
「まぁ……もう関係ねぇけどよ」
かすかに笑って、男は煙草を雪に押しつける。
「あんたらの、昨日の酒場でのやりとり見てたよ――クリアできるといいな」
そう言い残し、男はゆっくりと村の方へ歩き出した。
雪の中に、その足跡だけが残る。
***
館の前に立つと、風が止んだ。
雪は細かく降り続いているのに、ここだけは不自然な静けさがあった。
崩れた石段。凍りついた扉。
近づくたびに、胸の奥で何かが圧し掛かるような感覚がした。
「……ここが、ダンジョン」
ノーラが呟く。
レイは頷き、手袋越しに扉の縁をなぞった。
氷の下に、何か文字のような刻印が見える。
「数式……?」
「いえ、たぶん詩文です。『問う者、答える者、記す者、護る者、導く者――欠ければ道は閉ざされる』」
ノーラの声は、雪の静寂に吸い込まれるように消えた。
紫が扉を押す。
低い音を立てて、重たい空気が流れ出る。
薄暗い内部には、無数の数字と線が刻まれていた。
まるで壁そのものが、誰かの思考を記録しているかのようだった。
足を踏み入れると、床の模様が淡く光る。
五つの円が描かれ、それぞれに小さな文が刻まれている。
『防ぐ者は前に、導く者は後ろに。記す者は中に、問う者と答える者は隣り合う。それが道を開く。』
「……位置の指定?」
レイが目を細める。
ノーラは壁を見ながら、静かに計算を始めた。
「多人数前提……。少なくとも五人が同時に動かないと、全ての条件が満たされません」
「つまり、三人じゃ……」
「扉が完全には開かない、ということです」
沈黙が落ちた。
紫は足元の円を踏み、扉に手をかけた。
「試してみるか」
レイとノーラもそれぞれ別の円に立つ。
淡い光が走り、壁面の文字が動き出す。
数式が変化し、円が震える。
しかし途中で、光が途切れた。
ごう、と風が吹き抜け、扉が半分だけ開いたところで止まる。
奥の闇が、まるで覗き返すように静止している。
「……足りない」
ノーラの声が震えていた。
「あと少なくとも二人分の“役割”が埋まっていない。導く者と、護る者……」
紫は扉の隙間から覗き込み、眉をひそめた。
「――五人以上の役割が同時に必要、か」
「多ければ多いほどクリアが容易になるように設計されています」
「……考えたな、そのシスター」
レイは小さく呟く。
その声にノーラは微かに反応したが、何も言わなかった。
扉の奥から、風が吹き抜けた。
冷たいはずの空気に、なぜか熱のような感触があった。
それは、まるで誰かの思考の余韻が、まだここに残っているかのようだった。
扉は半分だけ開いたまま、重く止まった。
その隙間から吹き抜ける風は、人の息のように温かく、湿っていた。
奥には、幾何学的な光の紋様がゆらめいている。
「……奇妙だな。普通の罠とは違う」
紫が扉を押してみたが、それ以上は動かない。
ノーラが壁際の彫り込みを指でなぞった。
その表面には、子供が描いたような単純な模様――地図と駒、そして言葉の断片が刻まれていた。
「これ……」
彼女は小さく息を呑んだ。
「“言霊ゲーム”の盤面に、似ています」
レイが覗き込み、眉を寄せる。
「まさか、あの子たちの遊びが……」
「いえ、“遊び”ではなかったのかもしれません」
ノーラはポケットから昼間のルールブックを取り出した。
表紙に描かれている模様が、壁の紋様とぴたりと一致している。
「……まさか」
レイが息をのむ。
「これ、村に伝わる“遊び”そのものが……ダンジョンの構造を模している?」
「逆、かもしれません」
ノーラは指で紙を撫でながら答えた。
「このダンジョンが、村の日常の“形”を作った。――それを人々は遊びとして受け継いできたのかも」
雪の音が途切れ、空気が張り詰める。
ノーラは静かに本を開いた。
ページの奥、細かな注釈の部分に小さく文字が刻まれている。
『※この物語の全容を読んだ者は、プレイヤーとして参加することはできません。
以後、あなたはゲームマスターとして観測者の役割を担うことになります。』
ノーラの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「……そう、ですか」
かすれた声でつぶやき、ページを閉じる。
レイがその表情の変化に気づく。
「どうしたの?」
「……いえ、少しだけ、立場を失っただけです」
ノーラは笑ってみせたが、その笑みは少し歪んでいた。
「読んでしまったんです。ルールブックを。本当は“知らないまま進む”ことが、このゲームの第一条件でした」
「つまり、もう一緒には……?」
「はい。私はもう、プレイヤーではなくなりました。外から、見届ける側です」
雪が静かに降り積もる音だけが響く。
ノーラは本を胸に抱きしめたまま、微かに息を吐く。
「……まるで、人生みたいですね」
「人生?」
「ええ。 知りすぎたら、もう“中”には戻れない」
その言葉に、レイは何も言えなかった。
ただ、降り続ける雪の向こうで、館の闇がゆっくりと口を開けていくのを見つめていた。




