雪の夜、考える人
飲み屋を後にすると、雪はますます強くなっていた。
村の奥へ進めば、森に囲まれた館――ダンジョンの入口がうっすらと見えている。
夜の帳の中、窓の割れた外壁から冷たい風が漏れ出していた。
紫は足を止めて、わずかに目を細める。
「……暗いな。中に入るのは危険だ」
吐く息が白く散る。
ノーラも頷いた。
「構造を把握するのも、最低限の明かりが必要ですし……今は無理です」
手帳を胸に抱え、雪をはらう仕草。
レイは振り返り、館の影をじっと見据える。
胸の奥で小さな苛立ちが燻っていたが、理性で押し殺した。
「……わかった。なら、今日は休もう。明日だ」
短い合意ののち、三人は宿屋へと引き返した。
雪を踏みしめる足音だけが、村道に続いていた。
***
宿屋の二階。
吹雪の音が窓を叩き、薄暗い廊下に夜灯の明かりが滲んでいた。
その窓辺に、ひとり腰掛けている影があった。
分厚い本を両手に抱え、眉間に皺を寄せてページを追っている。
「……何読んでるの?」
声をかけると、ノーラはびくりと肩を震わせた。
「――ッび」
真剣すぎて、周囲に気づいていなかったらしい。レイの呼びかけにノーラは大きく肩を跳ねさせる。
「ごめん。脅かすつもりはなくて」
「い、いえ……。いつも周りが見えなくなるのは、私の悪い癖なので」
苦笑して眼鏡を直し、本を胸に抱える。
レイは壁にもたれかかり、視線を落とした。
「……それ、昼間の?」
「はい。お昼に子供たちが遊んでいた“言霊ゲーム”のルールブックです。基本の物語と、進行の手順が書かれていました」
「ゲームの本……?」
「ええ。この土地で流行っているものを知ることも、手がかりになるかもしれません。村の人たちの気持ちに歩み寄る一つの手段ですから」
その言葉に、レイは少しだけ目を見開いた。
「……ノーラはすごい。あんなこと言われても、歩み寄ろうとするなんて」
「歩み寄っているというより……可能性を捨てたくないだけです」
ノーラはかすかに俯き、ページを閉じた。
「……私って、めんどくさい性格でしょう?」
分厚い本の表紙を撫でながら、メガネの奥の目をほんの少し悲しげに細める。
「なんでも長ったらしく話すし、整合性が取れてないのが苦手で……。ああいう場所では、うまく流すのが“大人のやり方”なんでしょうけど、どうしてもできないんです」
困ったような笑みを浮かべる。
レイはしばし黙り、それからゆっくり口を開いた。
「……事実は、人を傷つけることもある」
ノーラが顔を上げる。
「でも、考えずに済ませることだって、人を傷つけるんだと思う。昼間の店主は“ダメなやつ”だと彼に言った。でもダメなやつの定義なんて、人によって変わる。店主から見れば彼がダメだった。逆に誰かから見れば、店主の方こそ“ダメ”だって言われるかもしれない」
窓越しに雪の闇を見ながら、レイは言葉を続けた。
「つまり、“ダメ”なんて価値は曖昧で……それを自覚しておくことが大事なんじゃないかなって」
ノーラの瞳が大きく開かれる。
「……そう。そうなんです。私もそう思っていて……ああ、レイさんはすごいなぁ。私より、うまく言える」
頬に紅が差し、彼女は嬉しそうに笑った。
「でも……」
ノーラは胸元で本を抱きしめ、声を少し落とす。
「自覚し続けるのって、疲れるものです。だから……せめて私は、その役割を担いたい。普段考える暇のない人を、大事な時に少しだけ引き戻せるように。そのために、私はいろんなことを知って、調べていたいんです」
その言葉に、レイは静かに頷いた。
窓の外では、雪がさらさらと降り積もっていた。
雪の音が遠のいていく。
ノーラは膝の上の本を見つめたまま、熱くなった喉に手を当てた。
***
ときどき、喉が焼けるように熱くなる時があった。
たとえば、人がめんどうくさそうに目をそらすとき。
言葉がうまく伝わらなかったとき。
喉の奥がじりじりと灼けるように熱かった。
その感覚を誰かに伝えようとしたことは一度もない。
ただ、過ぎ去るのを待つしかなかった。
大人たちの視線。
子供たちのからかい。
そのどちらも、咳き込む私をますます苦しめた。
咳を止めようと喉に手を当てると、母が冷たく言った。
「……わざとらしいこと、しないでちょうだい」
原因のわからない咳に、母はいつも苛立っていた。
私の肩が震え、息が止まりそうになっても、
母の眉は一度も緩むことがなかった。
ある日の定期検診で、医師が言った。
「喉の奥に、小さな石が見えます。おそらく“才能の石”でしょう。外からは見えませんが、これが原因かもしれませんね」
母はレントゲン写真に目を落とし、静かに言った。
「この子の才能はなんなんでしょう。成長も遅いのに」
「まだ断定はできませんが……IQが高い。学問的な方向かもしれませんね」
「そんなことはないと思います。この子、口を開くと意味のわからないことばかりで」
「それは語彙が追いついていないだけです。考えていることの層が深いんですよ」
「……信じられません。仮にそれが本当だとして、何になるんです?女の子なのに、かわいげもない。意味なんか――」
「お母さん、それ以上は……お子さんが聞いています」
医師の声が途中で途切れになり、母は別室に連れて行かれた。
病院を出た帰り道、母がぽつりと言った。
「要領悪く育ててしまって、ごめんね」
その言葉は謝罪ではなく、呪いのように聞こえた。
私は幼いころから、人並みに何かができたことがなかった。




