沈む村
調査隊は雪道を抜け、村の大きな飲み屋に入った。昼だというのに客が多く、火鉢の赤に頬を染めた年配の女たちが、酒を片手に談笑している。
「……楽しんでいるところすまない。今、村で起きている天変地異の原因を調べている。何か知らないか」
紫は臆することなく声をかけた。焔の明かりに白い横顔が浮かぶ。女たちは一瞬、目を丸くし、その視線が吸い寄せられる――紫の気配は女性にも効くらしい。
「そういやぁ、今年はまた家がひとつ沈んじまったねぇ」
ひとりが思い出したように言う。それを皮切りに、声が連なる。
「そうそう、でもまあ住めるとこはまだ残ってるし。なんとかなるよ」
「水路が歪んでるって言うけどさ、昔からちょっとずつ動いてたしねぇ」
「時代よねぇ。今日明日のことじゃないし」
「不便はあるけど、生きてりゃ慣れるもんよ」
笑いが火鉢のぱちりという音に混じる。雪に軋む家々よりも、ここでは盃の温もりのほうが現実らしい。
「……でも、このままじゃ村そのものが沈むかもしれない。 どうにかしなきゃ――」
堪えきれず、レイが口を挟んだ。拳は袖の中で固くなる。
女たちは一斉にこちらを振り返り、あやすように笑う。
「若いねぇ、そんなに焦っても仕方ないさ」
「人は死ぬ時は死ぬ。心配してもどうにもならんよ」
「まあまあ、お茶でも飲んで落ち着きなさいな」
言葉が喉で途切れ、レイは絶句した。
沈みゆく土の気配と、のんきな笑い声。
その二つの温度差だけが、胸をきつく締めつけた。
そんな話をしていると、すぐ横から諍いの声が上がった。
「お前なぁ、報告が足りないんだよ! 熱意ってもんが感じられん!」
店主らしい大柄の男が、若い従業員を怒鳴りつけている。
「……前に言いましたけど」
若者は小さな声で反論する。
「聞いた覚えはないな!」と店主が遮る。
若者は短く、あー、と声を漏らすと、口をつぐんだ。その様子に店主は深くため息をついた。
「……もう、いい、裏で欠品確認でもしてこい」
若者は、短く返事をするとキッチンに消えていった。
「最近の若いのはダメだな、何言ってるかほんとに分からんですわ」
店主はカウンターの近くの常連客に話しかける。
「最近の子はぼーっと突っ立てるだけだよなぁ」
酒が入り赤ら顔の男は、酒の肴を待っていたかのように返した。
「まぁ、でもどこまで成長させてやれるかだけ考えながらやってますよ」
「偉いなぁ」
「だめなやつはほんとに駄目ですわ、でもうちで働いて一つでも上達してくれたら思います」「最近の子は道徳心もないから、伝わるといいな」
「ほんとですね、学校でも数学とか国語とかなんかいらんですわ、道徳さえやっとけばいい「ほんとに、それが正解ですわ、マスターみたいな教師がいればいいのにねぇ」
笑い混じりのやりとりに、キッチンへの扉の隙間から見える若者は顔を伏せて、さらに奥に下がっていくのが見える。
ノーラは堪えきれず口を開いた。
「……お言葉ですが、そもそも“何がダメだった”のか、具体的に説明していただけますか?」
不意を突かれ、店主と常連は口ごもる。ノーラは続けた。
「彼が伝えたかどうかは確証がありません。あなたが聞いていなかったかも確証がありません」
二人は顔を見合わせ、言葉を失った。だがノーラは止まらなかった。
「それに、国語や数学は不要ではありません。古典や物語を読むことで、人は他者の生き方に触れ、知恵や民族性を知ることができます。数学の思考は“なぜそうなるのか”を考える手がかりになり、答えが一つではない問題に立ち向かう視点を与えます。あなたたちの言う“道徳”を守るための基盤にだってなるんです」
熱を帯びた言葉に、周囲がしんと静まる。だが店主は、にやりと笑った。
「きっと勉強ばっかりしてきたんだな。君も若いし、年を取ったらわかるよ」
「……三十です。若くもありません」
ノーラは即座に返す。
「子供を産んだら、また変わるかもなぁ」
「まぁ、女、子供にはわからんか」
常連が笑い混じりに言い、場の空気は再び緩んだ。
ノーラは一瞬目を伏せ、「……あー……はは」と困ったように笑った。
――伝わらない。
その絶望の影が、揺らめく火鉢の炎に映っていた。
そのとき、レイが低く声を落とした。
「……お前らのどこに道徳があるんだ」
酒場のざわめきが止まる。
レイは椅子の背から身を起こし、店主と常連を鋭く見据えた。
「女とか若いとか、子供とか。理由にもならない理由で軽んじて、話を聞かない――そんな奴のどこに道徳があるんだって言ってるんだ」
店主と常連は顔を見合わせ、ざわついた。
「なんだと?」
「外から来た奴が偉そうに」
だがレイは止まらない。
「自分の欲しい答えしか聞かず、相手の言葉を考えない。それはただの暴力だ」
場が凍りつく。
ノーラは言葉を失い、唇をかすかに震わせた。
「……」
火鉢の炎がぱちりと弾ける音だけが、静まり返った空気に響いていた。
数秒の静寂ののち、店主と常連の顔が赤くなる。
「外から来た小僧が……!」
「調子に乗るな!」
怒号が飛ぶ。椅子が軋んだ。
その瞬間、紫がすっと立ち上がった。
剣は抜かない。ただ鞘ごと机に叩きつける。
鋭い金属音が酒場に響き、全員の声が止まった。
紫は表情ひとつ変えずに告げる。
「――この辺の天変地異の調査をしている。何か知っていることはあるか」
店主は怯むように一歩下がりながらも声を張る。
「お、俺たちはまだ話をしてるんだ!」
常連も怒鳴る。
「女はすっこんでろ!」
しかし紫の視線が彼らを射抜いた瞬間、再び場は凍りついた。
紫がゆるやかに立ち上がった、その刹那――。
床板を踏む音さえなく、彼の影が揺れた。
気づけば、剣先が店主の喉元に突きつけられていた。
冷たい金属の感触が皮膚に届く寸前。店主の喉が、ごくりと鳴った。
紫の目は笑っていなかった。
「……少し手持ち無沙汰で、身体が動いてしまった」
低く淡々とした声に、店内が凍りつく。
ざわめきは広がったが、誰ひとりとして口を開けなかった。
店主の顔は血の気を失っていた。
「……お、俺の死んだ親父が言ってた……。あのダンジョンができてからだって……」
常連も青ざめ、かすれ声で続ける。
「変なシスターがいた……子どもに妙な“ゲーム”を教えてたんだ……言葉遊びみたいな……」
「趣味で数学とか小難しいこと考えるのが好きなやつでな」店主が震える唇で吐き出す。
「……多分、道楽だったんだろうが……」
紫はそれ以上追及せず、剣を静かに鞘へ収めた。
「助かった」
レイとノーラの肩を軽く抱え込み、耳元で低くささやく。
「……ああいう馬鹿と話すのは時間の無駄だ。行こう」
二人は言葉を失ったまま、紫の導きに従った。
背後には、凍りついた空気と、誰も笑わない酒場だけが残った。




