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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十二章 前勇者ととある少年のお話

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奇跡の影

 湿った通路を進むにつれ、空気は重く淀んでいった。

 壁に沿って並ぶ鉄の管からは、低い機械音と薬液の滴る音が絶え間なく響く。

 その先――薄暗い広間に足を踏み入れた瞬間、キサラギは思わず息を呑んだ。

 壁に縫い付けられるように、人の形をしたものが並んでいた。

 手足は不自然にねじれ、皮膚は裂け、管や金属片に覆われている。

 だが、まだ「人の痕跡」がそこに残っていた。

 かすかに目を開き、こちらを見つめる者がいた。

 濁りきった瞳の奥に――「助けて」という必死の光。

 キサラギの足が止まった。

 声にならない吐息が喉を震わせる。

 その横を、勇者が黙って通り過ぎる。

 無言のまま、一人の前に膝をつき、ゆっくりとその体に手を触れた。

 淡い光が零れ、裂けた皮膚が閉じ、欠けていた指が戻っていく。

 だが――それは外側だけだった。

 内側に残ったものは、すでに壊れていた。

「……たすけて……」

 乾いた唇が、同じ言葉を繰り返す。

 人の姿を取り戻しながら、心は戻らない。

 勇者はしばし静かに見下ろしていた。

 そして、その額に手を当てる。

 光が強く瞬き、やがてその身から力が抜けた。

 呻きも止み、ただ安らかな顔で息絶える。

 キサラギの瞳が揺れた。

 胸の奥を強く握り潰されるような痛み。

 息を呑む少年を見て、勇者は低く呟く。

「……ここまで来たら、治すことはできない」

 淡々とした声だった。

「俺は疫病を食い止めた。だが、これは……人間たちがやったことだ。その上、ここまで壊されたら、もう助けられない」

 傍らにいた実験個体――獣のように改造された犬を、勇者は静かに撫でた。

 その毛並みの奥では管が蠢き、目は虚ろに濁っている。

 だが、触れられたその瞬間だけ、獣はかすかに尻尾を揺らした。


***


 時間は流れた。

 施設の残骸を後にしても、キサラギは何もできないままだった。

 それでも勇者の任務には、幾度となく同行した。

 そこで――見せつけられたのは、圧倒的な力だった。

 戦場。

 傷だらけの兵士が呻きながら運ばれてくる。

 勇者がその体に触れた瞬間、光が迸る。

 裂けていた皮膚は一瞬で閉じ、流れ出ていた血がぴたりと止まった。

 兵士は驚いたように目を見開き、そのまま意識を取り戻す。

 周囲から歓声が上がった。

「奇跡だ!」「やっぱり勇者様だ!」

 疫病に苦しむ村。

 寝台に伏した村人の額に勇者が手を置く。

 次の瞬間、炎のように燃えていた熱がすっと引いていく。

 苦しげにうわ言をつぶやいていた人々は、安らかな寝息に変わった。

 村人たちの目には涙が浮かび、感謝の声があふれる。

 魔物に噛まれた男。

 体内に広がる毒が肌を紫に染めていく。

 勇者は迷いなくその胸に手を当て、光を注ぎ込む。

 血管を走っていた毒が、光の流れに押し流されるようにして消えていった。

 男は息を吹き返し、涙ながらに勇者の手を握った。

「勇者様……! 本当に……!」

「神の御業だ……!」

 人々の歓声と涙が、勇者を取り囲んだ。

 奇跡としか呼べない光景が、そこにあった。

 ――だが 彼らの熱とは裏腹に、勇者の横顔は冷え切っていた。

 誇らしげでもなく、救ったことに安堵する様子すらない。

 ただ淡々とこなしていくだけというような顔。

 それが、キサラギにはどうしても理解できなかった。

 目の前で人が生き返るような光景が広がっているのに――

 なぜ、この人間は笑わないのか。

***

 ある日のことだった。

 夕暮れに沈む村の広場へ、慌ただしい声が響いた。

「勇者様! 勇者様、お願いします!」

 数人の村人が駆け込んでくる。

 彼らの腕の中には、痩せ細った男が抱えられていた。

 顔は土気色に変わり、唇は乾ききり、荒い息は今にも途切れそうだ。

 手足は痙攣し、白目を剥いたままかすかに呻いている。

 明らかに、手遅れの状態だった。

「……勇者様なら、勇者様ならきっと……!」

 縋るような声が飛ぶ。

 その目には絶望と期待が入り交じり、狂気にも似た光が宿っていた。

 前勇者は黙って膝をついた。

 血と土にまみれた男の胸に、静かに手を当てる。

 光が生まれる。

 皮膚のただれが一瞬で閉じ、潰れた血管が繋がる。

 だが――その直後、男の体は痙攣を強めただけだった。

「……ッ」

 勇者はもう一度、力を込める。

 眩い光が男を包み、呼吸が一瞬だけ整った。

 しかしすぐにまた、荒い息へと戻っていく。

 三度、四度――。

 光は奇跡のように傷を閉じ、血を止める。

 だが、その奥の命までは掬い上げられなかった。

 やがて沈黙が落ちる。

 その場にいた誰もが息を殺す。

 縋るように家族が叫んだ。

「やめないでくれ! あんた世界を救ったんだろ!? たった一人でいい……! 目の前の人間を助けてくれ!」

 涙と嗚咽に掻き乱された声が、広場に響き渡る。

 勇者は顔を伏せ、動かない瞳で男を見つめた。


 そして、静かにゆっくりと掌に再び光をためる。

 ――今度は治癒の光ではなかった。

 キサラギは、この光を見たことがあった。

 旧施設でみた、呻きも止ませ、ただ安らかに向こうに送る光。

 光に照らされた勇者の顔をみたときキサラギは息を飲んだ。

 その瞳に宿るもの――そこに光はなかった。

 動かぬ瞳の奥に、深く沈む影。

 それは後ろ暗い悲しさであり、決して人々に見せることのない絶望の色だった。

 そして彼の唇がかすかに動き、何かを言葉を発しようとしたが、それすらも許されないことかのようにつぐんだ。


 ゆっくりとのばされる光の宿った手。

(……だめだ)

 キサラギの胸に、重苦しい何かが沈み込んでいった。


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