奇跡の影
湿った通路を進むにつれ、空気は重く淀んでいった。
壁に沿って並ぶ鉄の管からは、低い機械音と薬液の滴る音が絶え間なく響く。
その先――薄暗い広間に足を踏み入れた瞬間、キサラギは思わず息を呑んだ。
壁に縫い付けられるように、人の形をしたものが並んでいた。
手足は不自然にねじれ、皮膚は裂け、管や金属片に覆われている。
だが、まだ「人の痕跡」がそこに残っていた。
かすかに目を開き、こちらを見つめる者がいた。
濁りきった瞳の奥に――「助けて」という必死の光。
キサラギの足が止まった。
声にならない吐息が喉を震わせる。
その横を、勇者が黙って通り過ぎる。
無言のまま、一人の前に膝をつき、ゆっくりとその体に手を触れた。
淡い光が零れ、裂けた皮膚が閉じ、欠けていた指が戻っていく。
だが――それは外側だけだった。
内側に残ったものは、すでに壊れていた。
「……たすけて……」
乾いた唇が、同じ言葉を繰り返す。
人の姿を取り戻しながら、心は戻らない。
勇者はしばし静かに見下ろしていた。
そして、その額に手を当てる。
光が強く瞬き、やがてその身から力が抜けた。
呻きも止み、ただ安らかな顔で息絶える。
キサラギの瞳が揺れた。
胸の奥を強く握り潰されるような痛み。
息を呑む少年を見て、勇者は低く呟く。
「……ここまで来たら、治すことはできない」
淡々とした声だった。
「俺は疫病を食い止めた。だが、これは……人間たちがやったことだ。その上、ここまで壊されたら、もう助けられない」
傍らにいた実験個体――獣のように改造された犬を、勇者は静かに撫でた。
その毛並みの奥では管が蠢き、目は虚ろに濁っている。
だが、触れられたその瞬間だけ、獣はかすかに尻尾を揺らした。
***
時間は流れた。
施設の残骸を後にしても、キサラギは何もできないままだった。
それでも勇者の任務には、幾度となく同行した。
そこで――見せつけられたのは、圧倒的な力だった。
戦場。
傷だらけの兵士が呻きながら運ばれてくる。
勇者がその体に触れた瞬間、光が迸る。
裂けていた皮膚は一瞬で閉じ、流れ出ていた血がぴたりと止まった。
兵士は驚いたように目を見開き、そのまま意識を取り戻す。
周囲から歓声が上がった。
「奇跡だ!」「やっぱり勇者様だ!」
疫病に苦しむ村。
寝台に伏した村人の額に勇者が手を置く。
次の瞬間、炎のように燃えていた熱がすっと引いていく。
苦しげにうわ言をつぶやいていた人々は、安らかな寝息に変わった。
村人たちの目には涙が浮かび、感謝の声があふれる。
魔物に噛まれた男。
体内に広がる毒が肌を紫に染めていく。
勇者は迷いなくその胸に手を当て、光を注ぎ込む。
血管を走っていた毒が、光の流れに押し流されるようにして消えていった。
男は息を吹き返し、涙ながらに勇者の手を握った。
「勇者様……! 本当に……!」
「神の御業だ……!」
人々の歓声と涙が、勇者を取り囲んだ。
奇跡としか呼べない光景が、そこにあった。
――だが 彼らの熱とは裏腹に、勇者の横顔は冷え切っていた。
誇らしげでもなく、救ったことに安堵する様子すらない。
ただ淡々とこなしていくだけというような顔。
それが、キサラギにはどうしても理解できなかった。
目の前で人が生き返るような光景が広がっているのに――
なぜ、この人間は笑わないのか。
***
ある日のことだった。
夕暮れに沈む村の広場へ、慌ただしい声が響いた。
「勇者様! 勇者様、お願いします!」
数人の村人が駆け込んでくる。
彼らの腕の中には、痩せ細った男が抱えられていた。
顔は土気色に変わり、唇は乾ききり、荒い息は今にも途切れそうだ。
手足は痙攣し、白目を剥いたままかすかに呻いている。
明らかに、手遅れの状態だった。
「……勇者様なら、勇者様ならきっと……!」
縋るような声が飛ぶ。
その目には絶望と期待が入り交じり、狂気にも似た光が宿っていた。
前勇者は黙って膝をついた。
血と土にまみれた男の胸に、静かに手を当てる。
光が生まれる。
皮膚のただれが一瞬で閉じ、潰れた血管が繋がる。
だが――その直後、男の体は痙攣を強めただけだった。
「……ッ」
勇者はもう一度、力を込める。
眩い光が男を包み、呼吸が一瞬だけ整った。
しかしすぐにまた、荒い息へと戻っていく。
三度、四度――。
光は奇跡のように傷を閉じ、血を止める。
だが、その奥の命までは掬い上げられなかった。
やがて沈黙が落ちる。
その場にいた誰もが息を殺す。
縋るように家族が叫んだ。
「やめないでくれ! あんた世界を救ったんだろ!? たった一人でいい……! 目の前の人間を助けてくれ!」
涙と嗚咽に掻き乱された声が、広場に響き渡る。
勇者は顔を伏せ、動かない瞳で男を見つめた。
そして、静かにゆっくりと掌に再び光をためる。
――今度は治癒の光ではなかった。
キサラギは、この光を見たことがあった。
旧施設でみた、呻きも止ませ、ただ安らかに向こうに送る光。
光に照らされた勇者の顔をみたときキサラギは息を飲んだ。
その瞳に宿るもの――そこに光はなかった。
動かぬ瞳の奥に、深く沈む影。
それは後ろ暗い悲しさであり、決して人々に見せることのない絶望の色だった。
そして彼の唇がかすかに動き、何かを言葉を発しようとしたが、それすらも許されないことかのようにつぐんだ。
ゆっくりとのばされる光の宿った手。
(……だめだ)
キサラギの胸に、重苦しい何かが沈み込んでいった。




