銃声の隣で
湿った廊下を歩かされる。
案内役の隊員は一言も発さず、ただ寮の一番奥――人気のない棟へとキサラギを連れて行った。
辿り着いたのは、古びた扉の前。
ノックもなく乱暴に開けられた先から、強い薬品の匂いが鼻を刺した。
散乱した紙束と、本と、未整理の瓶。
机には解剖図や数式の書きなぐられた羊皮紙が積み上がり、窓は半分以上が黒布で覆われている。
その部屋の中央――椅子に座る一人の男。
髪は無造作に伸び、目の下に濃い影を落とし、指先には乾いた薬液の痕がこびりついている。
英雄だと聞いていた。疫病から人を救った「勇者」だと。
けれど目の前の人物からは、光のかけらも感じられなかった。
――鋭い眼差し。
まるで、触れれば切り裂かれる刃物のような冷たさ。
「……なんだそのチビ」
低い声が部屋の奥から響く。
顔を上げた男――前勇者は、淡々と、キサラギを見もしないまま吐き捨てた。
***
執務室の空気はいつも以上に重かった。
机の上には今までの任務記録が山のように積まれ、紫の名で異様な量埋められていた。
レイはそれをめくりながら、思わず小さく息をのむ。
(……こんな短期間で、これだけ)
紫の任務処理の速さ。数字の羅列だけで、その有能さが嫌でも伝わってきた。
「……で、紫は?」
書類から顔を上げたキサラギの声は短く荒い。
「まだ熱下がらないね。まぁ、あんだけ毒吸っちゃってこのくらいで済んでるの奇跡だけどね」
焔羅が肩をすくめながら答える。
まだ顔色は悪く、包帯の巻かれた腕をだらりと下げていた。
「お前もう動けるだろ。ガキといってこい」
「え、パワハラ? 転職しよっかな」
包帯のまかれた腕をわざとらしく痛がり、軽口を叩く焔羅に、キサラギは舌打ちを返す。
視線を横に向けると、壁際で報告書を整理していた光が冷たい声で告げた。
「無理です。解析班は既に手一杯。人員は割けません」
その声音に揺らぎは一切ない。
「……チッ」
キサラギは不快げに顔をしかめた。
アサヒと兆は別任務、ニアも不在。残っているのは――。
キサラギの視線が、自然とレイに落ちた。
数秒の沈黙。
その間に、居心地の悪さがじわじわと広がる。
「……ガキの面倒なんざごめんだ」
吐き捨てるように言うキサラギ。
キサラギは下の面倒を見るのが苦手だった。
必要なときには指導するが、付きっ切りで見てやることはない。
ましてやレイに対しては一層嫌な気持ちが芽生えていた。
レイはわずかに眉を寄せたが、反論はしなかった。
静かに書類を抱え直し、ただ次の指示を待っている。
(……そういうとこが、気に食わねぇんだ)
心の中で悪態をつきながらも、キサラギは言葉を飲み込む。
きっちり応じる。相手の毒も理解したふりをして何でも呑み込む。子供らしさを置き去りにして。
だが、その上、妙に強い責任感のせいで引かない時がある。何にも力などないくせに。
弟のアサヒと組んだ方がまだ幾分かキサラギは釣り合いが取れる。
その気配を察してか、焔羅がわざとらしく口を開いた。
「いいじゃんいいじゃん。たまには二人で行ってきなよ。キサラギが拾ってきたんだし」
「……拾ってねぇ。勝手についてきただけだ」
吐き捨てるように言うキサラギ。
レイは少し気まずそうにする。
だが、その指先は資料をしっかりと握りしめていた。キサラギから目をそらさずに。
その表情さえも、キサラギは苛立った。
だが、今は他に人員がいない。
嫌悪と諦めの狭間で、キサラギは煙を吐くように短く言った。
「……チッ。行くぞ」
***
崩れかけた施設の内部は、湿気と薬品の匂いが混じり合い、息を吸うだけで喉が焼けるようだった。
床には折れた管や拘束具が散乱し、壁には無残に取り付けられた鉄枠が並んでいる。
その中から、かすかな呻き声が漏れていた。
制圧済みの研究施設――。今回の任務は、その後処理だった。
残された装置や毒の残骸を調査し、必要なら破壊する。
そして、もう“戻れないものたち”を処分すること。
レイは思わず足を止めた。
光の届かない片隅に、痩せ細った実験体が身を丸めていた。
その顔には、まだ“人間だった痕跡”が残っている。
荒い呼吸、震える指先、かすかにこちらを求める視線。
拳が、ぎゅっと握りしめられる。
(……生きてる。まだ……)
助けたい。そう思うより先に、体が硬直した。
今まで目の当たりにしてきたのは“まだ間に合うかもしれない”状況ばかりだった。
だが、ここにあるのは――手遅れになった者たちの群れ。
もうどうにもできない現実だった。
その隣を、靴音が迷いなく通り過ぎる。
キサラギだ。
彼は銃を抜き、ほんの一瞬で引き金を絞った。
乾いた音と共に、呻きは途絶える。
レイは息を呑んだ。
目の前で人の姿をしたものが倒れ、ただ静寂だけが残る。
その一瞬の動揺を見逃さず、キサラギが冷ややかに言い放った。
「……怖かったらそこで見てろ、坊ちゃん」
言葉は刃のように鋭く、レイの胸に突き刺さった。




