この田は誰のものか(戦国時代の境目争い)
この田は誰のものか。
田に向けて問いを投げても答えはかえってこない。
通りかかった者に問えば答えがかえってくる。これはどこそこに住む誰兵衛が耕す田だと。
いやいやと。通りかかった別の者が割り込んでくる。耕してる者は小作で地主はあちらの家の主だと。
それも違うと。田を見下ろす高台にある社の神主が思う。豊葦原瑞穂国のすべては大八州を生みし高天原直系たる皇尊のものであろうと。地主も小作も一時この田を借りているだけだと。
その論が成り立つのであればと。もはや田のみえぬ山むこうの屋敷にいる城主なら呟くであろう。天皇から負託を受けた朝廷から業務委託された御所様から領国を任された守護様から命じられた現地法人である守護代たる自分こそ、田の持ち主であると主張してよいのではと。
この田は誰のものか。
つまるところこの問いは正否ではなく納得を求めるものといえる。
相手が納得しないなら、納得させるしかないのだ。
ときに相論で。あるいは暴力で。
これから語るのはそういう物語のひとつである。
冬のはじめ。ある殿原が来年の農事を計画していたところ隣の集落にある本家筋の家から文がきた。殿原というのは地侍だ。田を耕す百姓であるが、槍を握る武士でもある。
一読して眉間に皺を寄せる。
殿原は不機嫌さを隠すことなく家人を呼びつけ文をみせた。
「田を返せといってきた」
「文によりますと集落をまたいでの飛び地であり、近くの家が田を持つのが筋との主張です。こっちからだと川と尾根こえた先にありますからね、あそこ」
「いまさらか。あっちの当代が流されたんで、こっちの隠居殿に押し付けた田だろうが」
「十年前の大水のときですね。そのころは幼かった嫡男も育ち、田の世話ができるようになったそうです。これまでの当家の支援に感謝すると」
「まだ自分のところが本家のつもりか。何代前だと思ってる」
「どうします?」
「返さん。押領するぞ」
田は投入した労働量に応じて実りをあげる。
しかるに、ひとつの家が供給できる労働量は安定しない。
人は老いる。急な事故や思わぬ病気もある。そして子が元気に育つとは限らない。
田一枚あたりの労働量が不足すれば調整が必要になる。
調整といっても簡単にはいかない。後の世であれば軽トラで橋をこえ丘をこえ気軽に通える距離にあっても、歩いて通うのだ。往復にかかる時間が長いほど投入できる労働量は減る。それを避けるために集落間で養子縁組することもある。田ではなく人の方を移動させるのだ。
面倒であるがこれを怠ると後で必ず揉める。こたびのように。
殿原は押領を進めるため、まずは自分の集落の寄り合いで支持を固めることにした。寄り合いでの決は大人衆だけが票をもつ。されど人口構成に応じて若衆の発言力は高い。殿原は大人のひとりだが地頭にねじ込まれてこの地に婿入りした経緯から地の大人衆によそ者として警戒されている。逆に槍働きで手柄をあげて今の地位を獲得したことから若衆の憧れであり、こちらが彼の支持基盤である。
「田を押領する件。寄り合いはどんな感じだ」
「若衆の賛同は得られましたが、大人衆は渋い顔です。若衆に嫌われたくないので誰もはっきりと口にしませんが、田を返してもいいだろうという空気です」
「わかりやすいな。どこも明日は我が身か。代替わりのたびに田を毟られたのでは大きい家ほど苦しかろう」
「ですがヨソの集落のことですからね。若衆の反感を買ってまで反対することでもなし。決をとれば勝てますよ」
「ふむ……この機会に地頭さまに話を通しておくか」
「地頭さま経由で寄り合いの大人衆に圧をかけるのですか」
「それもあるが向こうの代官にも圧をかけたい。地頭さまに兵をだしてもらう」
「兵を……ですか」
「不満そうだな」
「地頭さまに兵をだしてもらうなら、その経費はこちらもちになります」
「米も銭も蓄えはある。払えぬことはなかろう。自分の懐から経費を出せばそれは発言力となる。いらん介入されずにすむ」
「わかりました」
殿原は本家に対して正式に田の返却を断った。田をめぐる集落間の争いは政所に持ち込まれる。
「田んぼの境目争いか。どちらを応援してもこちらが恨まれるヤツだ。お役目とはいえ因果な話よ。おい小坊主。あのへんの記録はあるか?」
「はい住職様。書庫に一番古いと思われる絵図面がありました」
「ふむふむ。この絵図によれば揉めてるのは湿地だった土地だな。そこを開拓した家は……あ、途中で絶えてるな」
「そこから耕作放棄ですね。年貢の記録が空白の年が続いてます」
「再び拓いた若衆頭が新しい家をたて田の所有を認められたのが新たな初代か。で、そのまま長男が継いだ。これが二代目」
「このときに次男が隣の集落に婿として入ってます」
「三代目が大水に流されて死んだのが十年前。大勢が流され人手が足りなくなり、残された後家が前の代に隣の集落に婿に行った次男の息子に助力を求めた。この十年はそいつが隣の集落から人手をやって田を耕したと。遠いのによくがんばったなぁ」
「今年になり幼かった息子が元服したので田を返してほしいと申し出たら断られたという流れですね。どう裁定します?」
「どうするもこうするも集落は別だし二十年ならともかく十年じゃ式目からいっても所有権を移すことはできん。政所としては元に返せとしかいいようがないぞ。それでも揉めるなら血のつながった身内なんだし話し合いで決めろと」
「それが田を耕してた側も、この十年で新しい婿養子に代替わりしてまして。地頭さまのところで槍働きした殿原が入ってきてます」
「うわー。地頭さまの方かー。あそこ荘園の代官さまとは」
「仲が悪いです」
「だよなーっ!」
「どうします?」
「この件、地頭さまと代官さまの両方に黙って進めることはできそうか?」
「無理です。今頃は、どっちも訴えを受け取ってるころかと」
「よし! この件は放置!」
政所は多くが寺である。相論となれば読み書きできなければ話にならないからだ。
古くから田を拓くときは寺を一緒に勧請するので所領に関する記録は政所にある。だが記録があるからといって裁定できるとは限らない。裁定とはくだされた側が不満でも従うことで成り立つ。
不満だから従わない、という事態になれば田をめぐる争いは代官と地頭の争いとなる。
本家側から訴えを持ち込まれた代官はしばらく考えてから、鉄砲をもって狩りにでかけた。
それから数日の後。
代官の姿は守護代の屋敷にあった。
「久しぶりだな代官よ。今日は何用か」
「狩りでこのあたりまで来ました。守護代さまにご機嫌伺いをと」
「狩りか。相変わらず石火矢を握って野山を駆け巡っておるらしいな。さて、なにが穫れた」
「鴨と鷺、そして兎。どれも台所に届けてあります」
「大猟だな。石火矢の腕前もずいぶんあがったようだ」
「仏の加護にございますれば」
「このところは狩りだけでなく戦でも石火矢を使うと聞く。わしも一丁欲しいのだが、なんとか手に入らんかな」
「難しゅうございます。石火矢は鉄砲や火縄という呼び方もございますが、そもそもが高価な上に玉薬がこれまた高うございます。それがしは仏縁で手に入れておりますが、なかなか。なかなかに」
鉄砲は高い。そして強い。
高くて強い鉄砲を手に入れるには“信用”が求められる。
“信用”とは何か。それまでの取引実績である。
取引実績があるのは誰か。寺である。銭のない時代から寺は物資集配所としての役割を持つ。
守護代の前に平伏する男は一向宗系列の荘園代官だ。僧ではないが門徒侍で、寺を通して鉄砲や玉薬の仕入れに伝手がある。
仏教は殺傷を禁じる。だが鉄砲は例外だ。後の元禄年間(17~18c)の話になるが鉄砲について書かれた岸和田流秘伝書が長野市の森田神社におさめられた。それによれば鉄砲は釈尊の時代に大唐の無意鬼という凄腕の職人が開発し、釈尊は鉄砲と共に説法を行ったという由緒ある仏具だ。なので鉄砲が命中して死んだ者は人も鳥類畜類も即神即仏疑いなしと伝わる。釈迦の時代と唐の時代では千年くらい開きがあるが気にしてはいけない。
(こいつの仏縁は石山本願寺か。守護不入なのが残念だ)
守護代は口の端を歪める。在京する守護の代わりが守護代だ。
しかし領内の多くは守護不入だ。目の前で平伏する代官が管理する荘園も宗門の管轄で守護の介入は許されない。荘園に関してはむしろ鎌倉時代から土地に根付いてる地頭職の方が大手を振って侵食を重ねている。
今は存在しない鎌倉殿の名で出された書状に基づく怪しげな権限の方が、今も京に実在する御所と公儀に認められている正式な権限より大きいのだから笑える話だ。
「──か?」
会話が途切れた隙間に守護代がすべりこませた地頭の名前に、下げたままの代官の頭がビクリと動く。
「……ご賢察の通りにございます」
「ふっ。普段は寄り付かないそなたが狩りの獲物をしこたまもって訪れたのだ。何か頼み事があるのはわしでもわかる」
代官は田をめぐる境目争いについて守護代に語り、助力を求めた。
代官の紙の上での主は一向宗だ。
守護代の形式上の主が守護であるように。
どちらにとっても主は遠い。それに武力を持たない。持っているのは権威だけ。
権威だけといっても馬鹿にはできない。権威は正当性を示し、正当性は造反を防ぐ。
身内との揉め事こそが恐ろしい地方領主にとって、権威と正当性を保証する主が遠くにいて、介入する武力を持たないのはありがたいとさえいえた。
これまでは。
(時代は変わった。昔に比べ米がどこにでも届くようになった。米が届くところは兵も届く。日本のどこも武力介入できる時代になったのだ)
朝廷が蝦夷と戦っていた時代。米が届く範囲はごく一部だった。
運ぶのが人か馬か船かで距離に差はあるものの米が届かない場所に兵は届かない。朝廷と蝦夷の戦いといっても実態は坂東の有力者が朝廷の命というお墨付きをもらって地元の健児を集め、蝦夷と戦争していたのである。
この構図は武士の世になっても変わらなかった。お墨付きをだすのが朝廷から将軍に代わっただけである。日本中で行われた南北朝の戦いも全国を走り回ったのは指揮官と供回り衆だけで、数の上での主力は常に現地の武士団だった。
現地招集の武装民兵を積極的に戦わせることは難しい。かき集めた米が尽きるまでという時間制限もきつい。だから指揮官と供回り衆が先頭に立って勇猛に戦う必要があり、死傷率も高かった。
流れが変わったのは享徳の乱(1454年~)からだ。経済の発達に伴い15世紀半ばから日本各地で米の流れが太く長くなった。これにより、どこが戦になった場合でも戦場の近くまで兵糧を集積することが可能となる。
そして集積した米を使うことで従来は戦力化できなかった小者・中間・軽輩者を軽歩兵として戦場に出すことができるようになった。軽歩兵を前線に出せば、貴重な決戦兵科である甲冑武者を温存する戦い方も可能になる。
武力行使にかかるリスクとコストは目に見えて下がり、揉め事の解決に武力行使が実用的な選択肢として選ばれるようになった。
それゆえに──
(地頭側が兵を出してきて、武威で田を奪いにくる可能性を考えねばならぬわけだ。家ひとつの代官には荷が重いだろう)
話を聞くかぎり現時点で田は十年近く地頭側の実効支配下にある。
集落は代官側にあり飛び地ならぬ飛び田だが、実効支配というのは大きい。
行動を起こす必要があるのは地頭側ではなく、代官側だ。
「田を取り戻すとして、どうやるつもりだ?」
「まずはこちらの絵図を」
「うん」
絵図の写しが広げられる。のぞきこむ。
問題となる田は元は湿地帯だ。今もしばしば大水に悩まされる。
「田を見下ろすこの丘に稲荷社があります」
社といっても普段は無人だ。登った先には石彫の狐と小屋がひとつ。小屋は農作業のための道具や資材置き場を兼ねる。煮炊きができ宿泊所としても使える。
「田植えや稲刈りの時には、ここに人足どもが寝泊まりします」
「となれば、地頭衆の兵もここにくるな」
「はい。地頭衆はこちらが十を用意すれば二十。二十を用意すれば四十を置きまする」
「数で脅すか」
隣の集落から田を奪う。
これほどに互いの上下関係をあからさまにすることはない。
“あいつら”より“おれら”の方が上。田を奪うことに何の利もない水呑百姓すら胸を昂揚させることだ。
とはいえ得られるのが高揚感だけなのも事実である。代償に自分たちが怪我することも、人死が出ることも望みはしない。
だからこそ倍の兵がいる。
弱い“あいつら”が抵抗せず諦めてくれるように。
強い“おれら”の下風についてくれるように。
「代官は、いくらまで用意できる」
「正直に申しまして現状では十。無理をしても二十が限界です」
「そりゃ、たりんな」
「はい。たりません」
「それでわしに兵を出せと」
「お願いします」
守護代は腕を組み、ふむ、と思案する。
悪い話ではない。守護不入を続けていた寺社預かりの荘園ひとつを自分のものにするための足がかりは魅力的だ。代官が鉄砲を持っていることからもわかるように寺社勢力とはこの時代の信仰協同組合である。守護不入が破れても代官と寺社とは完全な手切れとならない。なんだかんだいって銭や米、材木や布などの流れは維持される。鉄砲と玉薬も。
問題は荘園と代官ではなく、守護代の方にこそある。
「地頭側はいくらまで出てくる」
「最大で百とみます」
「……うん。そのくらいは出せるな」
ここは思案のしどころだ。
地頭と同様、守護代としても流血沙汰は避けたい。
であれば地頭の倍の兵を用意せねばならない。相手が百ならこちらは二百だ。
出せぬ数では、ない。
守護代がこっちに命じ、そっちに声をかけ、あっちに金や米をまけば二百は用意できる。
とはいえそれは、古い貸しを取り立て、新たな借りを作ってようやくだせる数だ。
残念ながら守護代の立場は盤石とはほど遠い。田一枚を奪い返すだけでかような大騒ぎにしては鼎の軽重が問われよう。この一件が終わったあとで守護代に責任を取らせて隠居させ、別の者にすげ替える動きもでるだろう。
悩む守護代に、代官が視線を絵図に向けたまま声をかける。
「守護代様に兵五十をだしていただければ。わたしに策がございます」
「策だと?」
「はい。我が忍び働きをごらんにいれたく」
十日ほどの後。
せせらぎの音を聞きつつ、代官はぼんやりと空を見上げていた。
夜明けから潜んでいるこの場所は沢に突き出した岩の上にある。
岩の下を流れる清流は少し下流で屈曲している。砂が堆積した内側は水飲み場に最適だ。
ここにいるのはひとりである。炊事の煙や排泄の臭いを避けるため昨夜は離れた山中で寝た。荷物持ちの下人もそこに残してある。
太陽が上がる。気温も上がる。火を使えない身にはありがたい。
声が聞こえた。足音がする。沢の上を通る道から人と馬が降りてくる。
(この先は登り道がつづく。その前に馬の背から荷をおろして楽にしてやり、水を飲ませて励ます。想定通りだ)
温石を握っていた手を懐からだし、指を屈伸させる。
鉄砲の火皿に口薬を入れて火蓋を閉じる。
岩の上に置いておいた火縄を振る。匂いを確認し、火鋏に挿す。
鉄砲を構える。
(南無阿弥陀仏)
念仏を唱える。心を空にする。火蓋をあける。引き金を引く。
鉄砲の音が冬の空に響いた。
「荷駄がやられたか」
「はい。石火矢で。忍び働きです」
「代官だな。くそったれ」
殿原から報告を聞いた地頭が罵る。
ふたりがいるのは押領を狙う田を見下ろす丘にある稲荷社だ。共に詰める兵は百あまり。狭い社には入りきらぬので、丘全体を使っている。
「馬に水を飲ませるため俵をおろして沢に降りたところを撃たれました」
「撃った代官はどうした」
「逃げられました」
馬を殺された馬借が怒り心頭で山に分け入ったものの、代官の荷物持ちが仕掛けた獣用の罠にかかって滑落し、骨折している。
「米はどれだけ残っている」
「俵で残ってるのは六つ。かき集めれば俵もうひとつ分くらいは」
「百人で食えば、七日分か」
一日で米一俵が兵の腹に消える。
米俵は馬か牛で運ぶ。一頭が俵二つを背負い、一日かけてもってくる。
二日に一度運べば十分。その予定だった。
「荷駄が撃たれた場所には見張りの者を置いてあります……が」
「同じ場所から狙撃される心配がないだけだな」
地頭と殿原は打開策を検討した。
代官については捨て置く。山狩する余裕はない。
今いる稲荷社まで米を届ける手を探るのが先決だ。
確実に運ぶなら荷駄を増やす手がある。複数の経路に分散して通らせてもよい。
荷駄への狙撃を防ぐなら数人を前方に出して物見を強化する手も有効だ。狙撃可能地点は限られるからだ。
押領する本家方の集落から米を買い取る手もあった。突飛だが無理ではない。この十年の農作業を通して培った伝手がある。
策なら、いくらでも思いつく。
しかし、思いつくだけではダメなのだ。実行できなければ。
「どれも今は無理だな」
「はい」
兵站は事前の準備と手配の積み重ねだ。そして兵站にまつわる作業の多くが文書化されておらず関係者間の暗黙の了解に頼っている以上、急場での変更は難しい。地頭と殿原が後方に下がって直接指揮を取る必要があった。それでは現場の手綱が握れない。不測の事態もありえた。
「今回は引くぞ」
地頭が決断した。今なら兵の数で勝る。強攻も可能ではある。ただし血は流れる。
「残念です」
殿原は納得する。ここで流れた血は恨みとして残る。田は欲しいが遺恨はいらない。
「ただでは引かん。おまえのところ妹がいたよな」
「恥ずかしながら出戻りですが」
「使うぞ。ねじ込む」
「お願いします」
こうして地頭と代官の境目争いは、代官側の勝利となった。
殿原は兵を引いて田を返し、本家は遺恨を残さぬ証として殿原の妹を惣領の嫁に迎えた。
惣領は十二才。
嫁は二十五才だ。
早く一族を回復させたい本家側としては出産回数に制限がある年長の嫁を受け入れることは苦渋の決断である。
「いろいろ思うところあるだろうけど、よろしくね」
「はっ、はいっ」
初夜の床にて。
惣領の少年は背筋をピンと伸ばし、年上の嫁に挨拶する。
「最初の子はわたしのね。女の場合でも婿を取らせて家を継ぐ方向で」
「婿取りはわかりました。最初の子というのは?」
「妾。取れっていわれてるよね」
「あ……えー、はい」
「妾腹の子でも、子ができるのはいい。でも兄弟は他人の始まり。次の代で揉めないよう序列はきっちりつける方向でいく。了解?」
「わかりました」
「本家が揉めるとね。殿原がまた欲かいて介入してくるから」
「田の件はお稲荷さまに起請して決着したはずですが」
「だから別件に仕立てて介入してくる。地頭さまもついてるから何代たっても介入してくるのは覚悟しないと」
「殿原と対立してもいいんですか?」
「いったでしょ。兄弟は他人の始まりだって。こっちの家に嫁に入ったからには、わたしはこの家の者。逆に殿原の家を乗っ取るつもりでいく。いいわね!」
「は、はい」
ウソである。嫁は威勢のいい口調の下に本音を隠す。
正確にはウソではないがウソになる可能性がある。子供ができない。生まれてすぐに早逝する。未来は常に不確定だ。この災害列島の住民なら、神も仏もサイコロをふりまくることを知っている。
嫁は特によく知っている。思い知らされている。
その上で嫁は、目の前の旦那に好感を抱く自分を認識している。生真面目で礼儀正しく、何より今回の一件に浮かれていない。
「確認しておきたいのは藁の所在です。稲荷社で確認しましたが今年の刈り取り分の藁がすべて持ち去られてました。これでは来年の準備に差し障りがでます」
婿のいうとおりだ。
境目争いはすでに次の段階に進んでいる。今は殿原側が引いて本家側が田を取り戻したことになってるが、きちんと田の世話をできなければ再び揉めることになる。
「わかった。実家に戻ったときに殿原から藁を返すよう言質をとっておく」
「ぼくが出向いて銭や籾で藁を買い戻してもいいです」
「それはダメ」
しっかりしてるようでも子供だ。駆け引きがわかってない。
「藁仕事は農事の基本。意図的に妨害すれば立場が悪くなるのは殿原の方。ここは強気にでる」
「はい」
「銭と籾を余分にだすのは、その後の代かき代の方」
「なぜでしょう」
「今回の騒動で代官が馬を殺してる。馬借も獣罠にかかって大怪我をしたからね。馬追いたちの間に不満と怒りが溜まってる」
「わかりました」
駆け引きがわかってないのは困るが、素直なのはよいことだ。
育て甲斐がある。嫁は思った。指導者目線だ。
なので、十以上も年下の幼婿からの一言は不意打ちとなった。
「あなたの前夫について確認したいことがあります」
灯芯の燃える音が響く。
「……なにを?」
嫁は平静な声で返事をした。深呼吸五回分の間をおいてなので動揺は隠せていない。
「できればすべてを」
「無理ね。前夫とのすべてを全部話そうと思ったら、一夜じゃ終わらない。だからまずあなたが知ってることを語って」
ウソである。嫁は真面目な顔の下に本音を隠す。
もしも実家が自分のことでウソをついていたら、そのウソとあからさまに矛盾するのはまずい。少なくとも初夜の床でバレてよい話ではない。
「義兄から聞いたのは、あなたの前夫が亡くなってることだけです。ぼくと母は夫が亡くなって後家となったあなたが殿原の家に戻り、今度はぼくと結婚することになったのだと思ってました。でも実際は違った。あなたは離縁され殿原の家に戻り、その後であなたの前夫は亡くなってる。……あの、どうしました。拳を握ったりして?」
「殿原がすぐバレるウソをつかなかったから」
嫁は必要とあれば実家と戦う気概をもって嫁いだが、可能であれば実家の力も利用したいと考えている。そして互いを利用する関係は相手を軽んじてすぐバレるウソをつくようでは構築できない。真実を詳らかにしたくない場合でも決して虚偽は口にせず、相手がこちらに都合のいい解釈をしてくれるようしなくては。
「前夫は死んでる。わたしは死ぬ前に離縁された。どちらも事実よ」
目を閉じる。出会ったときのことを思い出す。十年以上前の祭りの夜だ。
ひと目で恋におち、ひと月で周囲を説得し、祝言をあげた。
「でも最初の子が流れてね。だんだんすれ違うようになったの」
二番目の子は無事に生まれたが、四才を迎える前に病気でころりと死んだ。
あの悲しみは今も忘れられない。思い出す頻度が減っただけで。
「それが三年前ね。わたしはすぐに次の子を産むつもりだったけど、前夫がビビっちゃってさ」
家同士のつながりが弱い恋愛婚では、心の調整に失敗すると互いを結びつける絆もまた希薄になる。
「あげく別の女を孕ませておいて 『きみを大事にしたいから』 などとぬかすもんだから大喧嘩になっちゃって。離縁されて実家に戻ったわけ」
嫁の告白に、婿はしばらく考えてから頭を下げた。
「話してくれてありがとうございました」
「いいのよ。いずれ話すつもりだったしね」
「お返しに、ぼくに望むことがあればいってください」
「そうねー。前夫と違って今回は家同士の結びつきが大きいから、そこは気楽ではあるんだ」
死んだ夫のことを思うと今も胸が痛い。
あれだけ好きだったのに。あんなに幸せだったのに。悲しい結果になってしまった。
実家に戻ってから今日まで、何が悪く、どうすればよかったかを考え続けた。
嫁は目の前の婿を見る。出会ったばかりの少年。夫というより弟にしかみえない。今はまだ。
「悪い意味じゃないのは理解してほしいんだけど……」
「はい」
「わたしにあなたを好きにさせないで」
「え」
婿の顔がこわばる。嫁はあわてて手を振る。
「家族として好きになるのはいいの。恋をしちゃうのがダメって意味」
「違いがよくわかりません」
「今の関係なら大丈夫ってこと。この関係を保って家を盛りたて、田を耕し収穫を増やしましょう」
「それならわかります」
恋をすると相手との距離感が失われる。体も心も。境目なく結ばれたくなる。
だけどそれでは駄目なのだ。男と女。家と家。夫婦はどこまでも別の存在であり、互いに適切な距離を保つよう瀬踏みが求められる。夫婦とは何よりもまず共同経営者なのだ。
「この十年、田んぼを管理してくれた義兄の家にはこれからも力を貸していただきたいです」
「そうね。じゃあそのために必要なことをしましょうか」
「はい。まずは来年の種籾ですが──」
婿の言葉が途切れる。嫁が膝をにじらせて間合いを詰め、しなだれかかってきたからだ。
温かく柔らかい。
「そうじゃないでしょ。殿原の力を借りたいならわたしを孕ませないと」
「え、いや、ぼく、もちろん、でも」
「でもはなし。自分の甥か姪ができれば殿原は争いを通さず田を手に入れる方法を選択肢に残し続ける」
ごくり、と婿の薄い喉仏が上下する。
「わかり、ました。でも、ぼく、はじめてなんで。うまくできるか」
「そこはお姉さんに任せなさい」
嫁は灯明皿をまわして灯りを消した。
翌朝。
まだ暗い中、婿は目を覚ます。
少年の中で何かが変わっていた。
昨夜はいろいろあったが、あれで子が成せたかどうかはまだわからない。
それでもいずれ嫁は孕む。子が産まれる。自分の子だ。
(田がほしい)
昨日まで田を手に入れることは少年にとって義務であった。家を継ぐ筋目のひとつとして、田を求めた。
今は違う。嫁を子を食わせるため少年は田を欲した。誰かと争い、奪ってでも。
この田は誰のものか。
(ぼくのものだ)
少年は迷いなく答えた。




