9 普通の人
鈴木栄太郎は立ちすくんだ。
まさか、まだいるとは思わなかった。
「周りを見てくる。」
妻が止めたが、そう言ってゴルフクラブを持って出てきた。
妻と2人で暮らすこの家がどの程度の危険に晒されているのか、妻がいるからこそ確認しておきたかったのだ。
昨夜、突然スマホが警報音を鳴らした。
半径50m以内に人権剥奪者が近づいたことを知らせるアプリ。
念の為にと入れておいたアプリが、まさか実際に警報を出すとは実のところ思ってはいなかった。
まあ、どこかで遭遇した時の用心のため——くらいの感覚でダウンロードしておいたものだ。
有料版だと500m先までマップで追跡できるらしいが、そこまで必要ないと思っていた。
それが昨夜、鳴った。
駐車場の人感センサが働いて、明かりをつけたようだった。
車でも盗みにきたか? と駐車場に面したキッチンの小窓からのぞいてみると、素っ裸の人間が車の脇にしゃがんでいた。
そいつが顔を上げると、その顔には大きく『X』の刺青が‥‥。
人権剥奪者だ!
目が合うと、そいつは逃げ出した。
栄太郎は玄関にあったゴルフバッグの中からアイアンを1本取り出し、外へ出た。
見回すが、すでにあの人影は見えない。
駐車場で水音がしている。
行ってみると、洗車用の蛇口から水が出っ放しだった。
水を飲んでいたのか‥‥。
すでにスマホの警報は鳴り止んでいる。
50m以上は遠くに行ったということだが、50mなんてすぐそこだ。
栄太郎は用心深くそいつが逃げていった山の方を見ながら、水道の蛇口を閉めた。
その夜は戸締りを確認し、シャッター付きの窓は全てシャッターを下ろして明かりをつけたまま寝ることにした。
スマホも枕元に置いて寝たが、そのあとは一度も警報が鳴ることはなかった。
朝、もう一度家の周辺を見回ってみようと、昨夜あいつが逃げた山の方にゴルフクラブを持って歩いてみたのだ。
相手はクマとかじゃない。
剥奪者といってもニンゲンなのだから、武器さえ持っていなければこれで十分撃退できる。
学生時代には剣道をやっていたので、その心得もある。
この近くに「特別拘置所」があるのだろうか?
その場所も数も、一般には公開されていない。
リタイア後は自然の近くで畑でも——と思って購入したささやかなマイホームだった。
それがまさか、そんな危険なものと隣り合わせだったとは思わなかった。
少なくとも、半径5キロ以内の住民には知る権利があるのではないか?
だいたい、なぜそんな危険な殺人者を野放しにする?
人権を剥奪したからって、危険なことには変わりあるまい。
人権を剥奪したんならもう、放逐しないで殺処分してくれりゃいいのに——。政府の責任放棄じゃないか?
ため池のところまで行って居なければ、とりあえず戻ろう。
そう思ってゆるい坂を登っていくと、音が聞こえて相手に察知されたら危険だとマナーモードにしていたスマホがポケットの中で震えた。
緊張が走る。
誰かからの電話かメールかもしれない‥‥。と自分を落ち着かせながら見てみると‥‥‥
はたして‥‥!
それは接近警報だった。
あたりに目を配りながら、ゴルフクラブを竹刀のように中断に構えてゆっくりと歩く。
警報は鳴り続けている。
近くにいる。
ため池の角までくると、そいつの姿が見えた。
そいつは汚れたスポーツタオルを1枚腰に巻いただけで、ぼうっとした様子で山の方を見て立っていた。
背中に大きく『X』の刺青。
その背中はしかし凶暴というより、ひどく弱々しく、むしろひ弱という言葉の方が似合うようだった。
見ようによっては今にも泣き出しそうにさえ見え、死んでしまいそうな儚ささえ感じさせる。
栄太郎に気付いてもいないようだった。
栄太郎はゆっくりと、構えていたゴルフクラブを下ろす。
「やっぱりまだいたんだな。」
栄太郎がかけた声に、びくっと身を縮めてそいつがふり返る。
目が怯えていた。
逃げるでもなく、何か言うでもなく、ただ怯えきった目で英太郎を見ている。
どうしたものか。と栄太郎は思ったが、もう一声かけてみることにしたのはその青年があまりにもか弱く見えたからかもしれない。
「人権剥奪者だろうと、言葉はわかるんだろう?」
「は‥‥い‥‥」
しばらく恐怖に固まって突っ立っていたそいつは、ようやく、かろうじてという感じで返事をした。
声がかすれている。
「な‥‥何も‥‥しませんから‥‥、見逃して、ください‥‥」
凶悪な殺人犯——というイメージしか持っていなかった「人権剥奪者」というものの実物を目の当たりにして、栄太郎は戸惑った。
そこにいるのは、素っ裸で怯えきったひ弱な青年でしかない。
都会で働いている自分の息子と同じくらいの歳だろうか。
そう思ったら、息子の顔が浮かんだ。
今の年齢の顔ではない。幼かった頃、夜の暗がりに怯えて「パパ、トイレについてきて」と言った時の息子の顔だ。
それが、目の前の青年の顔とふと重なった。
「み‥‥水、飲んで‥‥ごめんなさい‥‥。」
まるで子どものようなことを言って恐怖に震えるその顔の、大きな『X』がひどく不釣り合いだった。




