29 人の住む世界
A65はフードを深くかぶって、うつむき加減に歩いた。
途中商店のガラスに映った自分の姿をちらりと見て、ああ、ホームレス2人にちゃんと見えそうだな、と確認した。
同時に自分の現実を思い知らされてひどく落ち込みもする。
最初は包帯ぐるぐる巻きの顔にギョッとされたが、フードバンクで働くボランティアの人たちはA65にも分け隔てなく接してくれた。
「サトやんは火傷の痕がひでぇで。」
と茂さんが言い訳してくれて、一応皆それを信じてくれたようだった。
ただ、何人かの人は気がついたようで、スマホをいじってちらちらとA65の方を見たりしていた。
それでも追い出すようなことをする人はいなかった。
スマホを見ていた中の一人で、50代くらいの女性がいろんな食品が雑多に詰め込まれていた段ボールを持ってきた。
「よかったらこれも持っていって、サトさん。期限切れちゃってるけど、今日中に食べるなら大丈夫だと思うから。」
期限切れは本来渡してはいけないことになっている。
「野中さん、いいんですか?」
学生みたいな人がその人の顔を見て聞いたが、野中さんはその学生に小さくウインクしただけだった。
「おお。ジンケンが行くと、戦利品が豪華だな。」
ゲンさんがそう言って嬉しそうな顔をする。
「え?」と食べるために包帯を外したA65が怪訝な顔をすると、ゲンさんはカラカラと笑った。
「人権剥奪者に渡す分には、もし食中毒になっても責任は問われんからな。」
え? そういうことなのか?
「仁美さんは気がついとったで。サトやんがジンケン博だって。」
「人権剥奪者。」
ゲンさんがすかさず茂さんにツッコミを入れる。
「ほいで、よーさんくれたんだて。」
茂さんがほややんとした顔でそう言う。
「なんにしても有難いこっちゃ。この期限切れは俺が食ってやろう。酒で消毒しながら。」
A65は苦笑いするしかない。この人たちは‥‥。
「俺らは病気になっても助けを呼べば医者にも診てもらえるが、人権剥奪者はそういうわけにはいかんだろ。」
「シッ! シッ!」
少し離れたところでタラやんが稽古をする声が聞こえている。
茂さんは、一言でいうならお人よしだった。
誰かの役に立つことが嬉しいらしく、誰に対しても親切なんだとゲンさんは言う。
「わしぁターケだで。」
茂さんはなんの屈託もなく、自分のことをそんなふうに言う。「ターケ」は茂さんの出身地方の方言で「バカ」のことだそうだ。
ゲンさんによれば、茂さんは「困ってる」と言う友人に金を貸したままドロンされたんだという。
アパートの家賃が払えなくなって路上生活者になってからも、親が病気で高校進学を諦めると言った中学生にアルバイトなどで稼いだ金をみんなやってしまったらしい。
「困っとる人は助けたらんと。」
ゲンさんはそんな茂さんが好きで、何かをやってもらったらできるだけ「ありがとう」と言うようにしていると言った。
「その言葉を聞くと茂さんが嬉しそうにするからな。」
ゲンさんはそう言って、ちょっと照れたような顔をしてワンカップをちびっと舐めた。
A65はあれ以来、よくフードバンクについて行くようになった。
「若いもんにいろいろ持ってもらうと助かるで。」
お礼を言わなきゃならないのは、俺の方だ。茂さんのおかげで、また人間らしい暮らしができるようになったんだから。
A65はゲンさんの話を思い出し、思い切って言ってみることにした。
「茂さん。‥‥ありがとう‥‥。」
そう言葉にした途端に、涙があふれてきて止まらなくなった。
「なんだ? どうしたや、サトやん?」
ここは温かい。
この高架下のダンボールの集合住宅は——。
こんな場所があったんだ‥‥。
まだ、「人」のままで来ることのできたはずの場所が‥‥。今ではもう手遅れだけど‥‥。
A65は自分がどれほど狭い世界しか見ていなかったかを思い知った。
もっと早く知っていれば、俺はこんなことにならずに済んだかもしれない‥‥。




