27 人の住む世界
そこを動かなかったのはなぜだろう?
昼間出歩いて見つかることを恐れたから、だけだろうか?
それとも、あのホームレスがまた食べ物を持ってきてくれることを期待したからだろうか?
ホームレスが言ったとおり、その小さな神社は人の来るような場所ではなかった。
しかし改めて周りを見回してみると、少しだけ石段を上がる短い参道や、畳2畳分くらいしかないような小さな社のまわりにはあまり雑草が生えていない。
一応手入れをしている人がいるらしい。
ということは、そういう人がやってきたらここは隠れる場所がない。周りが藪で、逃げ道もない。
ここにとどまり続けることはかえって危険かもしれない。
そう思ったが、一度公園の水飲み場へ人目を避けて水を飲みに行った以外、A65は日が西に傾くまで社の裏にじっととどまっていた。
動かなかった理由は、自分でも今ひとつわからない。
あのホームレスの言葉を信じたのかもしれない。あるいは信じたかっただけかもしれない。
社の壁の板の上をヤモリが這って登っていった。吸盤で先がふくらんだ指を目一杯広げて、不器用に体をくねらせながら登ってゆく。
トカゲなんかに比べると格段に動きが遅い。
A65の視線を感じるのだろうか、時おりじっと止まって警戒しては、しばらくするとまた動き出す。
止まったって安全なわけじゃないのにな——と思いながら、一方で同じ言葉がA65自身にも返ってくる。
俺も‥‥こいつと同じ。じっとしてれば安全なような気がしているだけかもしれない。
夕暮れが迫って狭い境内が暗くなってきた。
入り口の鳥居の先の空に赤みが差し始めたころ、誰かが鳥居をくぐってくるのが見えた。
A65は、さっと社の後ろに隠れる。
じゃり、じゃり、と山道の小石を踏む音が近づいてくる。
「ほーい。まだ居るかぁ?」
あのホームレスの声だった。
なぜかA65は泣きそうになる。
「食うもん、もらってきてやったぞぉ?」
誠実。
という言葉が浮かんだ。
A65は泣きそうな顔のまま社の陰から出て、その人に姿を見せた。
「おお。約束どおり居ったか。ええ子じゃ、ええ子じゃ。」
ホームレスのおじさんは袋をひっくり返して、中の食料を全部社の基壇の上に出して見せた。
「どれでも好きなやつ食え。ジンケン博にやるんだちゅーたら、フードバンクの人も期限切れのやつまで全部くれた。よーさんあるで、好きなやつ食え。」
なんで、こんなに親切なんですか?
フードバンクの人も、人権剥奪者に渡すと聞いたらどうしていっぱいくれるんですか?
A65になってから、「人」ではなくなってから、俺は親切な人にばかり会う。
A65は食べ物に手をつける前に社の正面に回って、手を合わせた。
なんで? 神様‥‥。俺は、どうしようもない人殺しなのに‥‥。
「ええ心がけや。どうする? ここで食うか? それとも、わしがねぐらまで来てそこで食うか?」
フードを被って顔が見えないようにして、A65はホームレスの人について歩いた。
「わしの名前は茂夫だ。みんなは茂さんと呼んどるで。おめさんもそう呼んでくれてええで。‥‥んで、おめさんの名前は?」
「お‥‥俺は‥‥A‥‥65‥‥です。」
「そっちじゃなて、そうなる前の名前や。」
A65はそう聞かれて、なんだか恥ずかしいような奇妙な気持ちになった。
「さ‥‥サトシ‥‥です。」
「ほうか、ほうか。サトやんか。」
そんな話をしながらも、茂さんは人に会わないような道、人家の少ない警報が鳴りにくいような道を選んで歩いてくれているようだった。
茂さんのねぐらはひと頃流行った「新交通システム」の高架下にあった。
鉄道とバスの中間みたいな車両が、高架の上を走ってベッドタウンを結ぶというやつだ。
高架下の使い道はあまりなく、駅の近くは駐車場になっているところもあったが、たいていはただの空き地で金網のフェンスで囲われている。
その金網の破れた一角に段ボールでできた「ねぐら」があった。
その場所には、他に2人のホームレスが陣取っていた。
「ほう。それが茂さんの言っとったやつか。」
ダンボールの傍で酒を飲んでいた髪に少し白髪の混じったホームレスが茂さんに声をかけた。
「おう。ジンケン博だが。」
「人権剥奪者。」
その白髪混じりのホームレスが訂正を入れる。
「そんな早口言葉みたいなの、わしぁよう言わん。この人はゲンさんな。あっちの若いのはタラやんだ。」
白髪混じりのゲンさんが、ワンカップをひょいと上げてにまっと笑う。
もう1人の目つきの鋭い若い男は、あまり笑わずにぺこっと頭を下げた。
「で、このジンケン博はサトやんだ。」
A65もぺこっと首を前に出すようなお辞儀をした。
ここの人たちは、まるでA65が「普通の人」であるかのように接してくれる。
これもA65には驚きだった。




