26 ホームレス
その人はあまり怯えた様子は見せなかった。むしろ興味津々といった目をしている。
「腹へっとるんか?」
A65はあのおじさんの顔を思い出して、少しほっとする。
ほっとしたら、また腹が鳴いた。
かっこ悪い‥‥。
「まあその顔じゃあ、炊き出しやらフードバンクやらに行くわけにもいかんもんなぁ。」
そう言ってその人は首にかけていた汚れた大きな袋の中をゴソゴソやって、ぺしゃんこにつぶれた菓子パンか何かの袋を取り出した。
「消費期限は昨日だけど、まだ食えるで。ほれ。」
そのぺしゃんこの袋を社の基壇の端に置き、そして少し後退った。
A65を恐れてそうしたというより、A65が恐れているだろうという配慮のようだった。
まるで猫に餌でもやるような感じだ。
A65はその食料に手を伸ばしたいと思うが、一方でまだ警戒を解くことができないでもいる。
ひょっとしたら、手を伸ばして隙ができた瞬間にあのゴミ拾いのハサミで喉を突くつもりかもしれない。
法律はA65のような人権剥奪者に危害を加えないが、遺族はどうだ?
遺族はA65の駆除に賞金をかけているかもしれない。それが動物愛護法の罰金より大きな額だったら?
こういう人たちは、運よく宝を見つけたように思うんじゃないだろうか?
ホームレスの人はまん丸の目を開いてA65を見ている。その口の端は少し上がって笑顔になってはいる。
害意はなさそうに見えるが‥‥。
A65は警戒の目を向けたままで、そうっとその包みに手を伸ばす。
手の先にビニールの包みが触れた瞬間、それをつかんでさっと後ろに身を引く。
ハサミを持つ手はぴくりとも動かず、だらんと下に下がったままだった。
まだ警戒の目を向けながら、A65はビニールの包みを破った。
中に入っていたのはつぶれたアンパンだった。
ぎゅううぅ‥‥と腹が鳴る。
ほとんど反射的にそれにかぶりついて、それから一瞬アンパンに集中してしまった視線をホームレスの方に戻す。
その人はしかし、今度は目も笑ってこっちを見ているだけだった。
「ほっほっほ。」
子猫が餌を食べてくれたときみたいな嬉しそうな声を出す。
「今はそんだけしかないが、またもらってきてやるで。ここに居れよ。人に見つかるなよ。まあ、ここはあんまり人の来るとこやないが。」
その人はそれだけ言うと、くるりと向きを変えて社の正面の方へ回っていった。
ガラガラという袋の中の空き缶の音が参道から表の道の方に遠ざかってゆく。
なんだったんだろう?
アンパンを全部食べてしまってから、A65は不思議に思った。
ありがたい、というより不思議に思った。
フードバンクや炊き出しという言葉が出てくるくらいだから、あの人だって日々食べるのにさえ困っているんだろう。
なのになぜ、なけなしのアンパンを俺にくれたりしたんだろう?
たしかに、俺の腹の虫は鳴いていた。
だけど‥‥
それだけで、そんなことするか?
自分が食べるはずだったものを、見ず知らずの‥‥いや、それどころか、人殺しの人権剥奪者に‥‥与えるのか?
なんのために‥‥?
なぜ恐れなかったのだ?
あの親切なおじさんだって、最初はゴルフクラブを持って出てきたのに‥‥。
さっきのホームレスの人は、全く恐れるようなそぶりさえ見せなかった。
A65はまるで別世界の生き物を見たような気さえした。
彼がまだ「聖」だった頃、ホームレスなんてものは社会の脱落者であり、唾棄すべき底辺の存在でしかなかった。
少なからず軽蔑していた。
ああなっちゃオシマイだよ。
そのホームレスから恵んでもらったものを食べてる俺は‥‥。
そうだった。俺はもう、「人」ですらなかったんだ。
俺はすでに「獣」であって、あの人は最底辺とはいえ——たぶんそうなんだよな?——まだ「人」なんだ。
あの「人」はきっと、それこそ猫の仔に餌でもやる感覚で俺にこのアンパンをくれたんだろう。
そうとでも思わなきゃ、理解できない‥‥。
口の中にあんこの甘さがまだ残っていた。




