23 人として死ぬために
「行け! こいつらの手の届かない遠くへ。ぐずぐずするな! その子を守れ!」
叫んだA61の声と剣幕に母子はビクッとしたが、しかしすぐに事態を覚ったようだった。
子どもを抱え、支払うはずだった金の封筒を鷲掴みにすると靴を履いて玄関から飛び出していった。
A61はそれを静かに見送っている。その目にそれまで失われていた光が戻っていたが、本人はまだそのことに気づいてはいない。
足元を見ると、さっきまでA61の飼い主だった健次が青白い顔色になって目を見開いたまま床に寝ている。
ごめんね、健次さん。
これまで食べさせてくれてたのに‥‥。
これで、あたしは間違いなく駆除される。
不思議とそのことに、あまり大きな恐怖は感じなかった。
あたしはなんで、こんなに激情にかられたんだろう?
そんなことを他人事のように考えながら、A61はふとあることに気がついた。
母親が健次の血を踏んでしまったらしく、アパートの外廊下に転々と足跡がついてしまっている。
マズい。
このままあたしが逃げたら、あの母子が犯人だと疑われるかもしれない。
ヤクザ者を殺したんだ。
ただでは済まない。
だったらあたしが発見されるまでずっとここに立っていれば、あたしが殺ったとわかるだろう。
いや、それではダメだ。
あたしが駆除された後、あたしのせいにして逃げたのかもしれない——と疑われる可能性もある。
ヤクザ組織に疑われたら、裁判のような公正な審議などない。疑いがあるというだけで消されるのがこの世界なのだ。
A61は健次の血溜まりを踏んだ。
そのまま廊下へ出て、あの母親のつけた足跡の上を慎重にたどって歩く。
幸い母親は靴底全部に血を付けていたわけではなく、つま先の一部で血を踏んだだけだった。しかも片足だけ。
A61はその跡を覆い隠すように自分の足跡を付けてゆく。
階段の途中で血の痕跡はなくなり、母親の足跡はわからなくなっていた。
階段を下り切ったところで、A61は走り出した。
駅とは反対方向へ角を曲がる。
おそらくあの母親は駅の方へ走っただろう。
どう逃げれば、より捕捉されにくいか?
A61は懸命に考えながら走った。これほど頭を使ったのは人権剥奪者になってから初めてのことではないだろうか。
犬に臭いを追跡されないために、一旦川に入る。川の中をそこそこ進んでから反対側の岸に上がって、堤防の上を走る。
それからまた橋を渡って再びもとの右岸へと戻り、住宅の少ない場所を目指す。GPSがスマホの警報を鳴らして通報されたりすることをできる限り避けるためだ。
そんなことをしたってGPSがついている限り、いずれは捕捉されて駆除されるのは時間の問題でしかない。
それでもA61は知恵の限りを使って逃げた。
人の少ない倉庫や資材置き場のあるエリアに逃げ込み、人の来そうにない場所に隠れて夜が来るのを待つことにする。
なんとかしてGPSを壊すことはできないか?
そのことも考えてみたが、方法がない。そもそも、そんな簡単に外せるようなものならこの制度に使えるわけもないのだ。無理に切断したりすれば爆発して足が吹き飛ぶとも聞かされている。
いっそ足首から先を切る?
いや、血止めができず、すぐに衰弱して死んでしまうだろう。それでは何にもならない。
生き延びたいのか?
と問われれば、いいや、と答える。
狩られるまでの時間を稼ぐのが目的だ。その時間が長ければ長いほど、あの母子は安全な場所まで逃げられるはずだ。
わたしは駆除されて死ぬ。
それでいい。
もともと、それでよかったのだ。
人ではない——と言われたあたしが。
まだ人であるような気分で死んでゆける。
いいえ。
気分ではなく、真に人として死ねるのだ。
あの子の未来を、この命で贖うのだから。
人として死ぬために。
誰にも認められなくてもいい。
あたし自身が、自分はまだ「人」だったと認めるために。
あたしはできる限りの時間を稼いで駆除される。
あの「サチコ」を逃すために、「サチコ」の未来のために!
今のあたしの命を捧げる。
だから! 神様!
あの「サチコ」を幸せにして!




