13 A65 サトシ
「なに、この点数?」
母親のそんな声がもう頭の中に響いてくる。
聖、小学2年生。
暗い顔で帰り道を歩いている。一緒に帰る友達はいない。
今日のテストの答えを、頭の中で繰り返し再現してみる。
出来が悪かった‥‥。
少しテスト勉強をサボったのと、それを補おうとして賭けたヤマが外れたことで、いつもにない出来の悪さだった。
どう考えても80点はかなり危ない。
「遊んでる暇があったら勉強しておきなさい、サトちゃん。どういう学校に行ってどういう企業に就職できるかがその後の人生を決めるのよ。それが現実ってものなの。あなたのためを思って言っているのよ。」
怒った母親の顔が浮かんでくる。
まだ答案が返ってもいないのに、聖は家に帰るのがひどく憂鬱だった。
点数が80点以下になると始まる母親の追求と、反省文と今後の学習計画の策定‥‥。
時間、戻せないだろうか?
いっそのこと、今から戻って職員室に忍び込んで‥‥‥
そんなこと、できないし‥‥。見つかったら大変なことになる。
いい子でいなければ大変なことになるし、外では優しそうにふるまう母親が家に帰れば豹変する。
聖の足は重かった。
聖の小学校の成績は良かった。
それは主に母親の顔色をうかがうことで成り立っている。本来、頭はいい方でないのかもしれない。
運動の方はからっきしダメで、友達も少なく、おとなしい目立たない子というイメージだったようだ。
のちの周辺の人々の証言である。
「聖はお父さんに似たのか、スポーツはダメねぇ。いい学校に行って一流企業に入るには体も鍛えないと。塾だけじゃなくて水泳教室にでも行く?」
母親の勧めで水泳教室にも通ったが、アバラの浮き出た体を同学年の女の子たちに見られるのが嫌で、いつまで経ってもうまく泳げない自分を周りがバカにしているように思えて‥‥
「勉強の時間が取れないから‥‥」
と言ってやめさせてもらった。
後にも先にも、小学校時代の聖が母親の言うことに逆らったのはこれだけだった。
「珍しいですよ。普通これだけ成績が良いと、クラスのリーダー的存在になるもんなんですが‥‥。この子はそうならない。あまり『将来』『将来』と言ってプレッシャーをかけ過ぎない方がいいですよ、お母さん。」
(先生、それは、将来はダメになる‥‥って意味ですか?)
「あんな先生は見返してやりなさいよ。リーダーの勉強をするためにも、生徒会にでも立候補したら?」
母親の言葉に逆らいきれず、6年生の時に立候補してみたが‥‥。結果は惨憺たるもので、かえって学校中の笑い者になった。
聖はいよいよ誰とも話ができなくなってゆく。
4年生くらいからは、あからさまなイジメもあった。
しかし、聖は誰にも言わない。
先生になんか言ったら親にも話が行くだろうし、親に知られれば‥‥。
小学校時代の聖にとって、世界とは母親を通した向こう側にしか存在しなかった。
大人に言ったからイジメが止まるわけじゃない。むしろもっと酷いことになる、とわかる程度には聖には状況予測力はあった。
波風立てないのがいちばん——。
遠足の水筒に小便が入れられたこともあった。
知らずに口に入れてしまってから、ぶべっ、と吐き出したが、少し飲んでしまった。
べっ、べっ、と唾を吐きながら、公園の水飲み場に走る。
水飲み場の蛇口は、いつものイジメグループの1人が独占していた。体が大きく腕力が強く、ケンカなんかしたらあっという間に聖はねじ伏せられてしまいそうなジャイアンみたいなやつだ。
聖は唾を吐きながら待つが、いつまで経っても蛇口は空かない。そいつは水を飲み続けている。
後ろの方で何人かのくすくす笑いが聞こえる。
ようやく水飲み用の蛇口が空いた時には、聖は唾を吐きすぎて口の中がカラカラになっていた。
「どっひぇ〜。腹がタプタプだぜぇ〜。」
ジャイアンやろうが腹をゆすってみせる。どっと笑いが起きた。
蛇口をいっぱいに開けて、吹き上がる噴水で口の中を洗う。顔にもかかったがちょうどいい。涙をごまかせる。
洗っても洗っても汚いままのような気がした。
あいつらの誰かの小便を飲んでしまった‥‥。
それでも誰にも言わなかった。
言ったところで、事態は何も好転しない。
同級生というのは、正解のない薄汚れた何かだった。母親は正解をくれない。いや、そもそも母親に正解を求めても無駄だ。
その点「テスト」はいい。
常に正解がある。




