12 都市へ
「2度あると思うな。」
表札に鈴木と書かれた家のオヤジは、ゴルフクラブを持ったままでそう言った。
A65は何度も頭を下げる。
今は裸ではなく、穴の開いたポロシャツを着て膝の抜けたスラックスをはいている。足には擦り切れたサンダル。
「どうせ捨てるつもりだったものだ。必要なら持ってけ。」
そう言って玄関先で放り投げてくれたものだ。
A65は何度も頭を下げた。
殴り殺されるのではないかとばかり思っていたA65に、どういうわけかこのオヤジさんは着古しとはいえ服をくれたのだ。
食べかけの食パンの袋までくれたのだ。
どうしてこんなに親切にしてくれるんですか?
人を殺して人権を全て剥奪されたような俺なんかに‥‥。
そう聞きたかったが、言葉にはできなかった。
もともと思いを口にするのは苦手な方なのだ。
「山の方へ行こうが街の方へ行こうが勝手だが、二度とこのあたりはうろつくな。」
「ありがとうございます‥‥。」
A65はもう一度、相手の目を見ずにぺこぺことお辞儀をして、それから街の方に向かって道を歩き出した。
他人からこんなに親切にされたのは、これが初めてだった。
いや、実際はそうではないのかもしれないが、少なくともA65の意識の中ではこれが初めてだった。
サンダルが足に優しい。
歩くほどに、A65の目にじんわりと熱いものがにじんできた。
古い団地だ。
70年も前に開発された戸建て中心の小さな団地で、子供世代が都会へ出てしまったため高齢者世帯が多く、空き家も多い。
それだけに、昭和の面影のある団地のたたずまいにはどこか風情もある。
もちろん、そんな団地の歴史はA65の知るところではない。
A65はそんな団地の中の道路を、トボトボと歩き続けている。
庭に草が生え放題に生えている家はたぶん空き家なんだろう。
そういうところに入り込んでしまえば、雨露はしのげるだろう。
そうは思ったが、周辺の人の住んでいる家の中ではスマホに「人権剥奪者」の接近警報が出ているに違いない。
今のところ、人にも車にも出くわさないし、家から誰かがゴルフクラブを持って出てくることもない。
窓のカーテンの隙間から、恐れと嫌悪を浮かべてこちらを覗いている目があるのかもしれないが‥‥。
不思議とA65に恐怖の感情は湧いてこなかった。
服を着ることができたからだろうか。
あのオヤジさんの親切に満たされたからだろうか。
+ + +
なぜあんな施しをする気になったんだろう?
あの青年が息子と同じくらいの年恰好だったからだろうか?
それとも、雨に打たれた野良犬みたいに震えていたからだろうか?
そのようでもあるし、どれも違うような気もする。
栄太郎はまだ玄関の外に立ったまま、歩いてゆくA65の後ろ姿を見ている。
この距離だともう栄太郎のスマホは警報を鳴らさないが、どこかの家では警報が鳴っているだろう。
誰も出てこないところをみると、息を潜めて見ているといったところだろうか。この団地は高齢者が多い。
「泊めてあげる?」
半開きの玄関ドアから顔を出して妻が聞いてきた。
「バカを言え。人殺しだぞ?」
栄太郎はくるりと向きを変え、玄関の中に入った。
間違いなく、あいつは殺人者だからこそ「人権剥奪刑」になったのだ。
殺された被害者がいるのだ。
それが自分の知っている人や家族ではないから、あんなことができたのか?
居間のソファに尻を落ち着けても「なぜ」の疑問が消えない。
適切な答えが見つからない。
+ + +
A65は街の方に向かった。
服を着たらなおのこと、山で暮らせるような気がしなかった。
街の方がなんとかなるような気がする。
狩られる危険性もあるかもしれないが、廃棄食品なんかをあさることもできるかもしれない。
もしかして、皆が皆A65を憎むべき殺人者として見るのではなく、あのオヤジさんみたいに親切な人だっているかもしれない。
そう思ってから、A65はその考えを頭から追い払おうとした。
そんな甘いものなら、俺はきっとこんなふうになってはいない。そんな甘い希望にすがっていたら、きっと酷い目にあう。
地方の住宅地というものは、案外昼間は人がいないものらしい。
A65は泥に汚れたスポーツタオルを頭からかぶって、なるべく顔の『X』が見えないように俯いて歩いた。
やがて少し大きな川に出くわした。
その堤防を少し下りて橋の下の陰になるようなところに腰を下ろし、もらった食パンをかじる。
少し硬くなったパンで口の中をいっぱいにしながら、A65は泣いた。
何に対して涙が出るのかわからなかったが、涙が流れるままに泣いた。




