35.東京自動車の行く末
昭和5年(1930年)5月 愛知県 刈谷町
その日、俺は愛知県 刈谷町に、豊田自動織機製作所を訪ねていた。
それも1人ではなく、東京自動車製作所の吉田さんを伴って。
「お久しぶりです、豊田さん。欧米旅行はどうでした?」
「やあ、大島さん。とても有意義なものでしたよ。アメリカでは、フォードの工場を見てきました」
「それは良かったですね。さぞかし大規模なものだったでしょう」
「そうなんですよ。国内にある工場なんて、比べ物になりません」
そんな話をしている相手は、豊田喜一郎。
後のトヨタ自動車を立ち上げる、歴史上の人物である。
彼は豊田自動織機の常務であり、イギリスのプラット社と特許権譲渡の交渉をしてきたばかりだった。
彼の父親である豊田佐吉の発明したG型自動織機は、世界に認められる優秀な織機だ。
これに目をつけたプラット社が、特許を10万ポンド(100万円)で購入した。
この資金は後にトヨタを立ち上げる際、役立ったという。
史実では1933年9月に、豊田自動織機の中に自動車部を立ち上げ、37年にはトヨタ自動車として独立する。
しかし喜一郎さんはその前から自動車に興味を持ち、小型エンジンの研究を進めていた。
それを知っていた俺は、数年前から彼に接触し、自動車産業への興味をあおってきたのだ。
そして特許の交渉をまとめ、欧米を視察してきた彼に、俺は重大な話を持ちかける。
「こちらが、以前からお話ししていた、吉田真太郎さんです」
「吉田です」
「ほう、豊田です。東京自動車製作所の噂は、かねがねうかがっていますよ」
「光栄です。もっとも商売としては、いまだに微妙なんですけどね」
そう言って吉田さんは、自嘲する。
たしかに東京自動車製作所の経営は、行き詰まっていた。
元々、大倉喜七郎という後援者や、愛国商会の支援で、なんとか続けられていたという事情がある。
大倉さんは大倉財閥の御曹司で、大のクルマ好きとして有名だった。
そんな彼は、史実でも東京自動車製作所の支援にのめり込み、少なくない資産をつぎ込んだそうだ。
しかしあまりの浪費に怒った父親が介入し、強制的にビジネス体系を変えられてしまう。
その結果、意見を異にした吉田さんと内山さんは、1909年に会社を去らざるを得なかった。
この世界では俺の介入によって、大きく経営が改善し、いまだに事業は続いているが、それでも苦しいのが実情だ。
それに拍車を掛けたのが、フォードとGMの日本進出である。
1923年の関東大震災で、日本は多くの自動車を求めた。
史実ではそのほとんどが輸入車だったのに対し、この世界では半分を国産車がまかなっている。
しかしフォードとGMが日本市場に目をつけるには、それでも十分だ。
やはり1925年と27年に、それぞれフォードとGMが進出してきた。
ただし史実と異なり、国内企業との合弁会社でだ。
これは俺たちの意を受けた商工省の斡旋で、フォードは三菱造船と、GMは石川島造船と、それぞれ合弁会社を設立し、国内に工場を建てた。
出資比率は三菱と石川島がそれぞれ51%を出資し、残りが外資である。
国内メーカーからすれば大量生産のノウハウを学べ、外資は参入リスクを減らすことができる。
ある意味、ウィン・ウィンな関係だ。
しかし史実では政府が無関心だったため、外資単独の進出を許してしまう。
もっとも、後で失策に気づいた政府は、国防を理由として、外資を締め出すのだが。
合弁会社の生産能力は年1万台ぐらいで、それぞれフォードT型とビュイックを造っている。
そしてこれが、国内の自動車産業に革新をもたらした。
なにしろ国内では、せいぜい年に数百台程度の生産者しかいなかったのだ。
そこに10倍以上の生産システムが持ちこまれた。
ベルトコンベアーによる生産ライン。
それを支える部品産業の、急激な成長。
そして大量生産を実現する、品質管理の思想。
それら全てが、多くの日本人の想像を、はるかに超えていた。
そこで雇われた日本人は多くのことを学び、徐々に大量生産への理解が深まっていく。
大手はそれをまねて、大量生産のシステム構築を、検討しはじめている。
しかしその動きについていけないのが、大きな後ろ盾を持たない零細企業だ。
自動車の大量生産方式を導入するには、莫大な資本がいる。
それを捻出できない企業は、パトロンを見つけるか、同業とひっつくしかない。
おかげでにわかに自動車産業の、再編機運が高まった。
当然、東京自動車製作所にも、その波は押し寄せた。
そこで吉田さんたちは、まず大倉財閥を頼ろうとした。
史実よりも格段に高まっている技術力に、大倉の資本を合わせれば、なんとかなるのではないかと期待したのだ。
しかし残念ながら、吉田さんの期待は裏切られる。
元々のパトロンだった喜七郎さんは乗り気だったものの、その周囲が自動車に大きな価値を見出さなかった。
なまじフォードやGMが参入していたため、競争が激化すると見て、出資を断られてしまう。
その後もあちこちを当たった吉田さんだったが、条件が折り合うことはなかった。
吉田さん側にも大きな出資を望むか、外資との提携が前提なとこばかりだったのだ。
国産技術にこだわりの強い吉田さんにとっては、到底飲むことができない条件だった。
それを知っていた俺は、数年前からある計画を温めていた。
そしてそれを実現するため、今日ここに来たのだ。
「それで豊田さん、以前から相談していたこと、考えていただけましたか?」
「……」
豊田さんはしばし沈黙し、その理知的な目を向けてくる。
やがて思いきったように、口を開いた。
「私自身は、ぜひ一緒にやらせてもらいたいと、思っています」




