25.自動車産業を後押ししよう
大正9年(1920)6月1日 東京砲兵工廠
「「「かんぱ~い!」」」
俺たちは砲兵工廠の一角に集まり、乾杯をしていた。
何のための乾杯かというと、俺たちが過去にタイムスリップして15周年のお祝いだ。
てんでに酒を飲み干すと、それぞれが思い出を語りはじめる。
「いや~、気がつけばもう15年か。あっという間だったな」
「だよな~。やりたいことばっかりで、忙しかったからな」
「うん、ほんと、そうだよね。大変だったけど、充実はしてたかな」
「せや。歴史を改変するっちゅうんは、なんかこう、たまらん満足感があるな」
「おまけに結婚もできたしな」
「「「だよな~」」」
実は俺たち、大戦さなかの1915年に、まとめて結婚させられていた。
この時代にきて10年も経ち、それなりに信頼されたのに加え、逆に体制に取りこもうという狙いもあったのだろう。
相手は全て元老と縁のあるお嬢さんがたで、まあ美人といっていい人ばかりだ。
そして俺たちが国の重要な役目を担っていると、あらかじめ言い含められていたのだろう。
それなりによく尽くしてくれるので、まあまあ上手くいっている。
ていうか、俺なんかはベタ惚れだな。
だってかわいいんだもん。
嫁さんにとっても、現代の感覚で接する俺の態度は、好ましく映ったようで、相思相愛の仲と言ってよいだろう。
かくしてそれぞれに所帯を持った俺たちは、今は自宅からの通いになっている。
「それにしても、日本は成長したよな? こんなに上手くいくとは思わなかったぐらいだ」
「そりゃあ、歴史を知っていて、未来の知識もあればこんなもんだろ」
「まあ、そうだね。電気産業もこの大戦中に、大きく成長したし」
「化学産業もや。ここまでくれば、いろいろとやれるで~」
「みんなはいいよな。俺なんかコンピューターが発明されない限り、腕の振るいようがないからな」
「そんなこと言って、ぎょうさん稼いどるやないか」
「まあな。それが最大の慰めってやつだ」
そんな話のなか、中島が俺に振ってくる。
「そういう意味では、祐一の成果もいまいちなのかな?」
「うん、まあ、自動車を買えるような層が、まだ日本では育ってないからね」
「ああ、そういうこと?」
たしかに俺たちの介入で、自動車保有台数も史実の1.5倍ほどにはなっている。
しかしその多くが輸入車であり、国内メーカーはあまり育っていないのだ。
一応、1910年代でも、東京自動車製作所、国末自動車製作所、快進社自動車製作所、宮田製作所などが、ほぼ国産のクルマを作っている。
しかしその販売は思うように伸びず、すでに国末自動車と宮田製作所は撤退していた。
その後、三菱造船、石川島造船、実用自動車、東京瓦斯電気工業などの大手が参入しているものの、どこも業績は振るわない。
なにしろ自動車というものは、現代価値に直せば数千万円もするシロモノなのだ。
それらがもっと売れるには、大量生産で価格を下げ、なおかつそれなりに収入のある中流層が育たなければならない。
あいにくとこの日本は、まだまだその水準にはほど遠いのが実状だ。
それでも俺は、国内メーカーを育成するために、いろいろと手を打ってきた。
可能な範囲で助言を与えてきたし、愛国商会から多少の資金援助も行っている。
そしてこの大戦中に、行政も動かすことができたのだ。
「でも今回の戦争で、自動車の存在が見直されたんだ。おかげで農商務省も動いてくれた」
「ああ、そうみたいだな」
今大戦では山東への出兵から始まり、欧州の戦闘でも、トラックが大活躍した。
日本から持ちこんだトラックが輸送に役立ったし、また欧州での普及状況を、多くの日本人が見ている。
それを受けて1915年頃から、国産車製造の奨励政策が検討された。
そして1916年に実施されたのが、以下の政策だ。
・官公庁などの自動車は、できるだけ国産車を採用する
・自動車生産者や部品業者には、低利の融資や税制優遇を実施する
・輸入完成車には100%の関税を課す
・原材料の関税はゼロとし、逆に加工品は等級を定めて関税を課す
(エンジンは60%、点火プラグは20%など)
これらの政策は、史実で快進社の橋本増次郎などが提案していたものの、採用されることはなかった。
当時の官僚には、その必要性を理解できる者がいなかったからだ。
実際に政府が国産車の保護に動き出したのは1936年なので、この世界では20年も前倒しした形になる。
そしてこれによって、海外メーカーからの輸入にブレーキが掛かり、国産車の比率が増えている。
史実では9割以上だった輸入車シェアが、7割ほどになっているのだ。
この調子でいけば、国内メーカーの成長は大きく加速するかもしれない。
そしてそれは、日本を真の強国に押し上げる、大きな力となるはずだ。




