16.工業規格を作ろう
明治41年(1908年)1月 東京砲兵工廠
俺が東京自動車製作所に肩入れしている間、仲間たちも活動していた。
まず後島は、製鉄所の建設に奔走している。
ちょうど1907年に設立されようとしていた日本製鋼所に介入し、なんとか他社との合弁をまとめ上げたらしい。
これは海軍も仲介に入り、シーメンスとヴィッカースも巻きこんだ合弁会社だが、その高炉の建設で他社にも出資させた形だ。
これによって複数社の資本により、室蘭に銑鋼一貫の製鉄所が建設され、各社がそのノウハウを学べるようになった。
そのノウハウを提供するのは、主に田中製鉄所なのだが、そこは政府が出資した株式を譲渡される形で、協力することになっている。
もちろん、いろいろと主導権争いでもめたらしいが、政府の強権と補助金で黙らせたそうだ。
いずれにしろ、これで国内の新規業者にも銑鋼一貫生産のノウハウが伝わり、さらなる製鉄産業の強化につながると見られている。
次に中島だが、発電業界の運営に助言をしながら、電気関係の企業を支援していた。
この頃だと後の東芝やNEC、沖電気がすでにあって、通信機器や電気部品を作っていた。
そこに農商務省の役人と一緒に押しかけ、状況を確認して回ったらしい。
基本的にまだ積極的に介入するつもりはなかったのだが、俺の方から自動車の電装部品の製作依頼が入った。
そこで使えそうな企業にアドバイスして、無理矢理つくらせたらしい。
しかしいくら輸入品があるとはいえ、独力ではその実現にずいぶんと時間が掛かったはずだ。
そんな部品を、いろいろと過程をすっとばして実現させたため、かなり驚かれたようだ。
ちょっと不自然とは思うが、なんとか部品を間に合わせてくれた中島には、けっこう感謝している。
それから佐島の方だが、こっちは油田開発に走り回っている。
まずは樺太のオハ油田の開発契約を、イギリスと交わしたところだ。
史実同様に北樺太石油という会社を作り、日本政府、イギリス政府、ロイヤル・ダッチ・シェル、そして国内の企業が出資する形になる。
今後、開発用の機器をイギリスから輸入し、油田開発を進めるんだとか。
そんな活動の傍ら、佐島は化学系の企業の調査を行っていた。
しかしまだまだその裾野はせまく、テコ入れするにも時期尚早な状況らしい。
そこへ俺が、タイヤを作れないかと話を持ちこんだ。
最初は嫌そうだったが、やがて三田土護謨製造って会社を見つけてきて、タイヤを作ってくれた。
もっとも、この当時のタイヤなんて大したもんではなく、ゴム引きのキャンパスをチューブ状にした粗末なものだ。
それでも国産化できた意義は大きく、東京自動車製作所にとっては、大助かりだった。
こうしてみんなでいろいろやっていたのだが、そこである問題点も浮上してくる。
「やっぱり工業規格が必要だな」
「ああ、それは同感」
タクリー号の量産化を進めるにおいて、工業規格の必要性を痛切に感じた。
なにしろ共通規格であるべきネジなどの小物部品が、バラバラなのだ。
おかげでヤスリを掛けたり、旋盤で削りなおすなど、余計な作業が発生して、足を引っぱられた。
そこで俺たちは、少し早いが、国内の工業規格を立ち上げるべく、動きだしたのだ。
一応、史実でも日本標準規格(JES)といって、1921年に工業品統一調査会が設置され、規格の検討が始まっている。
その後、41年までに520件の規格が制定されたらしいが、それだけでは不十分であり、戦中さらに931件の臨時JESが制定されたとか。
「う~ん、ここの公差、どうするかなぁ?」
「今の時代に、この強度を要求するのは、酷かあ?」
「この時代の電気部品に、性能を求めても意味ないよね」
「あかん、ゴムの規格とか、どうしたらええねん」
「まあ、最初はゆるゆるでいいんじゃねえ」
そんな感じで、まずはタクリー号で必要になった仕様について、規格の叩き台を作った。
そしてそれをもって、工業品統一調査会の設置を農商務省に迫り、後は官僚に任せた。
どうせすぐには進まないだろうが、少なくとも10年は早く、国内の工業規格が始まるはずだ。
後は軍部を中心に、官需品に規格の適用を強制していけばいい。
もちろん積極的に規格を採用する企業には、国と優先的に取り引きができるとか、認証を与えられて信頼度が高まるなどの、アメを用意する。
まだまだこれからだが、早めに定着させたいものだ。
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明治41年(1908年)6月
俺たちが工業化の促進に取り組んでいる間に、日露戦争で獲得した地でも変化が起きていた。
まず樺太のオハ油田だが、無事に試掘が済んで、生産が始まっている。
元々、ここはロシア人により石油の露頭が確認されており、地質調査も行われていた。
そこで英国資本の入っているロイヤル・ダッチ・シェルに協力を仰ぎ、採掘に取り組んだ。
探査や採掘用の器具をバンバン輸入して、精力的に進めたおかげで、わりと早期に原油生産が可能になった。
まだ日量で数百バレルといったところだが、今後も順調に伸びるだろう。
それから南満州鉄道だが、順調に復旧が進んで、早々に稼働していた。
ハリマンが主導する米国資本が、ガンガンと投資するので、沿線の開発も進んでいる。
それに加えて清国も参入したため、中国人の流入も増えていた。
ちなみに日露戦争で勝ち取った権益は、遼東半島南端の”関東州”、長春ー旅順間の東清鉄道、日本が建設した安奉鉄道、そして線路を中心にした幅62メートルの付属地である。
さらに付帯事業として、撫順炭鉱と煙台炭鉱の経営、鴨緑江沿岸の森林伐採権、遼東半島一帯の漁業権なども含まれている。
そして史実だと、長春や奉天などの付属地に、日本人街が形成されるんだが、それは控えてる。
なぜなら満鉄の経営権は、1940年には返還されることになっているからだ。
史実では第1次大戦中のドサクサで、延長させるのだが、それは中国の対日感情を悪化させてしまう。
基本的にいずれは手放す権益だということにして、満州への移民は原則、禁止となっている。
それからこれらの権益を守るため、史実では2個師団もの戦力を駐屯させていたが、これも控えてもらった。
清国や英米を刺激しないよう、旅順に1個大隊を置くのみとし、いざという時には韓国に駐留している1個師団が駆けつけることになっている。
ただしそれだけではアメリカも不安なため、退役軍人による民間部隊が1個大隊、奉天に駐留していた。
しかし日本は現地への干渉を控えているため、まだマシだが、アメリカへの反発が高まっているらしい。
いずれアメリカの部隊が増強され、現地との軋轢が強まる可能性も否定できない。
そんなことにならなければいいのだが。
そして大韓帝国だが、こちらは完全にスルーである。
史実だとすでに保護国化して、1910年には併合に至っている。
しかしこの世界では防衛同盟のみ結び、外交も軍事も好きにさせていた。
そのうえでいくつかの鉱山の採掘権を譲り受け、北部の鉱山で採掘を行っている。
一応、大使館にアドバイザーみたいなのを置いてはいるが、それを聞くかどうかは韓国の勝手。
その代わりに、余計な金はいっさい出さない。
もちろん融資の依頼はあるので、鉱山などを担保に金を貸すぐらいはしている。
この方針について、韓国上層部の反応はまあまあだ。
とりあえず自分たちの尊厳が守られれば、さほど文句はないのだろう。
日清・日露戦争で日本の優越権が確立されため、他に頼りどころがないのも事実だ。
しかし庶民の生活は悲惨らしい。
元々、韓国は両班という支配階級に牛耳られていて、発展性に乏しい国だ。
無理矢理にでも変えようとする外圧でもなければ、なかなか変われないんじゃなかろうか。
満州にしろ韓国にしろ、なんでこんなに消極的かというと、それが一番、金が掛からないからだ。
史実ではどちらも強引に植民地化したが、その結果は猛烈な反発と、それに対する弾圧だ。
おかげで泥沼の消耗戦に巻きこまれた挙句、最後には何も残らなかった。
未来を知っている俺たちとしては、そんなことはぜひ避けたい。
あいにくとまだまだ、”韓国や満州が日本の生命線だ~”なんて信じてる奴らも多いのだが、国内が豊かになれば、それも治まっていくだろう。
そう信じて、粛々と国内の強化に努めるつもりだ。




