15.国産化を進めよう
明治40年(1907年)1月 東京自動車製作所
タクリー号は有栖川宮威仁親王に納入され、おおいに喜ばれた。
そして親王殿下は記者会見を開き、その優秀性を喧伝してくれたのだ。
実際に欧米からの輸入車に比べ、乗り心地や速度性能で勝っていた。
これも俺が現代知識を基に、多くのアドバイスをしたおかげだ。
もっとも、どうしたってこの時代の技術や工作精度に縛られるから、なんでもできるわけじゃない。
あくまで俺は技術を補完しただけで、それを成し遂げたのは、吉田さんと内山さんの努力なのだ。
そして親王殿下の後押しもあって、注文が入りはじめたのはいいが、新たな問題にぶち当たった。
「ダメだ~っ! どうやっても生産が追いつかない」
「しかしこの機会を逃したら、顧客を逃してしまうぞ」
「でも俺、もう1週間も家に帰ってないんですよ……」
そう、生産が圧倒的に追いつかないのだ。
なにしろほとんどの部品が手作りの、オールハンドメイドである。
手間が掛かって仕方ない。
史実でも1907年中に、たったの17台を売った程度。
そんなものだから値段も5千円と、メチャクチャ高い。
現代価値に直すと1900万円にもなるのだが、それでも当時の輸入車の半値だったとか。
そんな超高級品を買うのは、当然ながら富裕層である。
そして史実のタクリー号は、富裕層にはあまり受けなかった。
輸入車に比べて小型で見栄えがしないから、すぐに飽きられてしまったのだ。
あと、富裕層の好むシルクハットを、かぶったまま乗れないとかもあったらしい。
そこで俺は吉田さんたちに、アドバイスをした。
”飾り付けに気を使って、屋根も高くした方がいいですよ”、なんて感じで。
そのおかげでこの世界では、すでに30台もの予約が入っている。
そのオーダーをさばこうと、吉田さんたちは必死になっているのだが、到底おいつくはずがない。
そこで俺は東京自動車製作所を訪れ、助言を行った。
「吉田さん、内山さん。自分たちで全部つくるのは諦めましょう。思いきって外部に、部品を発注するんですよ。この際だから、輸入部品もできるだけ国産化しましょう」
「なんだって? そんなこと、できるはずないだろう」
「いえ、できますよ。探せば腕のいい職人だって、それなりにいるはずです。そういう人たちに部品は任せて、ここでは組み立てに専念するんです。それに内山さんには改良にも取り組んでもらわないと、すぐに飽きられちゃいますよ」
「た、たしかに……だけど、できるかな?」
「いや、俺も分からないけど、大島さんの言ってることには一理あると思う」
戸惑い気味に顔を見合わせている2人に、ダメ押しをする。
「できるかどうかじゃなくて、やるんですよ。まず外に注文するために、正確な要求仕様を図面に書かないと。俺も手伝うから、さっさと始めますよ」
「「お、おう……」」
そこから俺たちの、挑戦が始まった。
まず外に出したい部品を洗い出し、その図面を作成する。
今まではなんとなくでやっていた要求仕様や、寸法公差もちゃんと決め、図面に書きこんだ。
ここまでやって今度は、腕の良さそうな加工屋を探し、そこに部品製作を依頼する。
ほとんどの加工屋は、”公差なにそれ、おいしいの?”って感じだが、根気よく説明して、まずは作ってもらう。
しかし一発で合格するところなんて、まずない。
”公差とか細かいこと気にすんな”とか、”こっちの方が良さそうだから、直してやった”なんてことを、平気で言ってくるのだ。
当然、不良品をつっ返して再度、根気よく説明する。
そのうえでなおやろうという加工屋に、再び注文を出す、ということを繰り返した。
いや~、辛かった。
この時代の職人をなめてたわ。
腕のいい人は多いんだけど、”一品物こそ至高”とか、”形が変わるから、モノも良くなるんだ”なんて、マジで考えてるんだぜ。
そんな連中とやり合いながら、”工業部品とはどれだけ正確に、同じモノを作れるかが大事”、という思想を広めていった。
それについてきてくれる加工屋を選別し、外注化を進めた結果、多くの部品を買えるようになっていく。
そして東京自動車製作所は、外に出せない部品生産以外は、ボディ製造と組み立て作業に専念することにより、劇的に生産性が向上したのだ。
「やった! 外注部品で動くクルマができたぞ!」
「ううっ、長かったなぁ」
「ああ、だけどこれで、月に10台は作れるぞ。いや、慣れればもっと多くだって」
半年ほど、タクリー号の生産はそっちのけで、部品外注化と生産性向上に取り組んだ結果である。
その間、顧客に頭を下げて納入は待ってもらっていたのだが、ようやくその成果が出たのだ。
外注部品を使った自動車が無事に稼働し、その生産スピードも見違えるほどにアップした。
これによって生産コストも下がったので、今後は値下げも検討している。
さらにそれらと並行して、真の国産化も進んでいた。
「まさかエンジンに電気部品、タイヤまで作れるようになるとはな。大島さんには本当に感謝してるよ」
「いえいえ、たまたま詳しい仲間がいたんですよ」
そう、今までは海外から購入していたエンジンと電気部品、タイヤの国産化にも成功したのだ。
これには当然、仲間たちの力を借りている。
後島には主にシリンダブロックの鋳造、中島は電気部品、佐島がタイヤの生産に知恵を貸してくれたのだ。
これによって、それまでボッタクられていた部品も安くなり、輸入による時間ロスも改善できた。
やはり持つべきは、頼りがいのある友人である。
そして吉田さんたちには、クルマの改良も進めてもらった。
動力性能、乗り心地、そして耐久性能の改善を進めたのだ。
特に耐久性能の向上が、喫緊の課題だった。
なにしろこの時代の自動車なんて、壊れるのが当たり前である。
元々、信頼性が低いのに加え、道の悪さもそれに拍車を掛けてくれる。
あちこちで路上停止するので、呼び出されることなんてしょっちゅうだ。
吉田さんたちにはその修理を最優先で対応してもらい、故障のデータを集めた。
そのうえで俺たちの助言を踏まえ、故障対策を進める。
これによって東京自動車製作所は、アフターサービスの良さが知れ渡るとともに、クルマはより壊れにくくなっていった。
さらに外装にも工夫を施している。
漆塗りの木製品なんかを使って、日本らしさを強調したのだ。
さすがにこれは好みがあるから、ある程度は顧客の要望を反映できるようにした。
これは富裕層の虚栄心をくすぐったらしく、その注文はひきもきらない。
その辺をまた、有栖川宮殿下に広めてもらったので、クルマの受注状況も順調だ。
庶民にとっては超高級品なので、注文がさばききれないほどにはならないが、月に10台程度は売れている。
ちなみに皇室や5元老の方々にも、買ってもらっていたりする。
その噂はすぐに広まり、またまた注文が集まったのはいうまでもない。
「東京自動車製作所の方、順調みたいだね」
「ああ、ようやく軌道に乗ってきた感じだ」
「さすがは祐一。うまいことやったな」
「いやいや、これもみんなのおかげだって」
「当然だ。鋳造の調整、メッチャ大変だったんだぞ」
「そうだよ。こっちも忙しいのに、電気部品を作れだなんて」
「ほんまやぞ。タイヤを作ってくれ言われた時は、途方に暮れたわ」
後島と中島、佐島に噛みつかれた。
たしかに彼らには、ちょっと無理を聞いてもらったのだ。
「だから悪かったって。でも工業の裾野が広がるのは、みんなにとっても有益だろ?」
「まあ、それもそうなんだけどね」
「結果的にはそうやな」
「そういうことで、今後も協力していこうよ」
「調子よすぎや!」
「「そうだそうだ」」
そんな愚痴をこぼされつつも、日本最初の自動車会社の成功に、手応えを感じていた。




