14.自動車を作ろう
明治39年(1906年)7月 砲兵工廠
俺たちは久しぶりに集まって、それぞれの成果を確認していた。
「それで、道路の方はどうなんだ?」
「うん、そっちの方はおいおい、大都市から拡幅と舗装化が進んでくよ。自動車はなくとも、馬車はあるからね」
この時代、クルマといえば馬車や人力車だった。
もちろん自転車もあるが、まだまだ高価で普及にはほど遠い。
ちなみに10km/h程度で走る馬車ですら、よく事故を起こしたというのだから、実にのんびりした時代である。
しかし先に政府が公表した道路の整備により、史実よりも舗装化が早く進む。
これが輸送効率を底上げし、さらに自動車の普及にも結びつくとよいのだが。
「そういえば、道路工事なら土木機械がいるんじゃね?」
「そんなの、もっと機械化が進んでからだって。ぼちぼち開発はしてくけどね。そっちの方こそ、どうなのさ? 製鉄能力の増強は、工業力の底上げには必須だよね」
「ん~、あんまり思わしくないな。八幡と釜石以外は、全然おいついてない」
「まあ、そうなるわな。でも民間も増強には乗り気なんやろ?」
「ああ、それはそうなんだが、資金が圧倒的に足りてなくてな」
「ふ~ん、なら合弁でやらせりゃええやん」
「当然、そういう話はしてるさ。そしたらどこが主導権を握るかで、揉めてなぁ」
「あ~、目に浮かぶわ」
この時代、八幡製鉄所と釜石鉱山 田中製鉄所以外は、相当に弱小だ。
後の住友製鋼所や神戸製鋼所、川崎造船所、日本製鋼所、日本鋼管などが続々と生まれつつはあるが、高炉を使った銑鋼一貫生産ができていない。
それならとりあえず、複数社合同で高炉を立ち上げて、八幡や釜石から技術指導をすればいいとなった。
しかしそうなると、”誰が主導権を取るんだ?” ”どこに高炉を建てるんだ?” みたいなことで揉める。
今はその辺を、農商務省が間に入って、調整してるそうだ。
おそらく国が補助金を出して、バランスを取ることになるのだろう。
「お前の方こそ、化学業界はどうなんだよ?」
「あ~、それがまた貧弱なんよ。当面は現代でも生き残ってるような企業に投資して、状況を加速させるしかできへん。せやさかい、油田開発と精製技術に注力しようおもてな~」
「あ~、そっか。まあ、石油はいくらあっても困らないからな」
「せやせや」
どうやら化学業界へのテコ入れは、しばらくは難しいらしい。
「それじゃあ、電力業界の動向は?」
「うん、こっちもまだまだだね。特に送配電網が整備されてないから、需要地の近くに火力発電所を建てるのが、ほとんどなんだ。だけどこれから電力需要は急増するから、遠隔地に水力発電所を造って、高圧で送る方向になるね」
「ふ~ん、そうなんだ」
「おっ、それなら周波数の統一ができんじゃね?」
中島と話していると、後島が提案を持ちかける。
すると中島は、当然のようにそれに応じた。
「それはもちろん、進めるつもりだよ。今なら費用も安く済むからね」
「そうかそうか。何気に不便だからなぁ、周波数違い」
これは商用電源周波数が、東は50ヘルツ、西は60ヘルツに分かれてしまった問題だ。
元々は1896年頃に、東の東京電灯、西の大阪電燈が、それぞれアメリカとドイツから、発電機を輸入して使いはじめたのが発端だ。
その他の電気事業者もいろいろ分かれていたのが、徐々に統合されていったにもかかわらず、東西の統一だけはならなかった。
当然、統一しようという動きは何回かあったものの、変更費用の問題でまとまらなかったらしい。
しかし現状であればその影響は少ないし、国が強く指導すれば、まとまるだろう。
現代では2種類の周波数に分かれてる国なんて、日本とバーレーンぐらいしかないのだから、ぜひまとめてほしい。
「状況をまとめると、まだまだみんな、派手な動きはできないってことね」
「そりゃそうだよ。日本なんて、まだまだ弱小の後進国なんだから」
「そうやんな~。でもとりあえず樺太はぜんぶ取ったし、軍にくさびを打てたのはでかいやろ」
「うん、どんなに国力を上げても、軍が腐ってたら意味ないからね」
「だな。戦前の日本は、本当に残念な軍人が多かったからな。特に海軍」
「「「同感~」」」
みんなで酒を飲みながら、そんなおしゃべりをするのは楽しかった。
しばらく忙しかったのもあって、本当に解放された気分である。
しかし同時にみんな疲れていたのか、1人また1人と、寝入ってしまう。
「なんか懐かしい光景だな。ひょっとして次に目が覚めたら、現代に戻ってたりして」
「アハハ、少なくとも今はないんじゃないかな。まだ俺たち、ほとんど何もできてないし」
「だよな~。とりあえず俺たちも寝るか」
「ああ、おやすみ」
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明治39年(1906年)12月 東京自動車製作所
「こんにちは、吉田さん、内山さん」
「やあ、大島さんかい。いつもご苦労さまだね」
「いえいえ、こっちは修行させてもらう身ですから」
「そうかい。だけど大島さんの意見はとても参考になるし、手伝ってもらえるんだから、こっちも大助かりだよ」
「そう言ってもらえると、俺も嬉しいですね」
最近の俺は、東京自動車製作所に入り浸っていた。
ここは吉田真太郎が起こした会社で、”日本で最初の自動車会社”と呼ばれるところだ。
そしてそこのエンジニアが内山駒之助であり、吉田さんとタッグを組んで自動車を作っていた。
彼らはすでに輸入エンジンを用いた車を作っており、その実績を皇族の有栖川宮威仁親王に認められ、国産化を奨励されていた。
そこで彼らはこの会社を立ち上げ、日本独自の車の製作に取り組んでいるのだ。
それを知っていた俺は、親王殿下の紹介状を持って、彼らを訪ねた。
俺の肩書は、陸軍で自動車の研究をしている軍属技術者、ということになっている。
史実でも日露戦争での物資輸送の問題を受け、研究が始まっているので、さほど不自然でもない。
そして俺は彼らと一緒に油にまみれ、製造に取り組んでいた。
しかしいざ車を作るといっても、その苦労は想像以上だった。
なにしろ輸入車をバラして、部品のスケッチを描き、それを一品一品つくっていくのだ。
それも工場内にある旋盤やボール盤などの工作機械だけで、作るしかない。
その労力もさることながら、抜群の工作センス、機械センスがなければ、到底まともな自動車などできはしない。
そしてここで俺の知識が、おおいに役立った。
なにしろ彼らは部品をまねることはできても、その形状の持つ意味や原理などは、想像するしかなかったからだ。
おそらく史実での開発は、そうとう難航したことだろう。
しかし俺は大学で現代工学を修め、旧車の分解整備だってしたこともある。
そんな俺が手伝うことで、彼らの開発は一気に進展を見せたのだ。
そしてそんな彼らの苦労は実を結び、新型車が完成した。
エンジンや電気部品、タイヤを除き、多くを国産化した吉田式1号車が、自力で走りはじめたのだ。
それはガタクリガタクリと、のどかに走ったことから、タクリー号と呼ばれる。
「おお~、動いた。動いたぞ!」
「ええ、吉田さん、やりましたね」
「ああ、こんなに嬉しいことはない。大島さんも、本当によく手伝ってくれたね」
「いえ、皆さんのがんばりのおかげですよ」
史実では製作に1年数ヶ月を掛け、1907年の4月に完成したというから、4ヶ月も早まっている。
しかもその性能は、俺の助言もあって史実より高い。
史実のタクリー号ですら、欧米車にひけをとらなかったというのだから、確実に上回っているだろう。
俺と吉田さんたちは、手を取って喜びあったのだ。
タクリー号はエンジンも国産だったという説がありますが、実際は輸入品を使っていた模様。
内山さんはウラジオストックで整備を学んだ程度の経歴なので、さすがにエンジンを作るのは無理だったかと。




