92 焦りと後退
セティは焦っていた。
目の前の写しは、ソフィーを狙うのを諦めていない。少しでも隙を見せたらその攻撃はソフィーに向かうだろう。
ソフィーはサンキエムと対峙している。本当はセティだって、ソフィーを助けにいきたい。
けれどセティは写しを食い止めるのに必死だった。セティも写しも細かな傷は増えていたが、決定的な一打はお互いに与えられていない。
(悔しいけど、こいつは本当に完璧な写しなんだ)
知識も、強さも、何もかもがセティと同じ。戦うときの動きも同じ。だからセティには写しの攻撃を防ぐことはできた。何を考えているかはわかるから。
でも、それは相手も同じなのだ。セティの攻撃は軽々と防がれてしまう。
地面を転がって泥だらけになって、写しに組み敷かれて動きを封じられる。
「炎の蝶!」
目の前に現れた炎の翅に、写しはのけぞった。セティの腕を捉えていた力が緩む。セティはその隙に写しを蹴り飛ばして抜け出した。
セティも写しも地面を転がって、すぐにまた立ち上がる。
「白輝の一角獣」
セティが、白銀に輝く槍を手元に呼び出せば、写しも同じように槍を手にする。
「白輝の一角獣」
セティと写しは泥だらけのまま槍を構えあう。
(このままだと、お互い疲れて閉じるだけだ……なんとか、なんとかしなくちゃ……)
踏み込んでくる写しの穂先を避けて、セティも槍を突き出す。当然のように避けられる。
なかなかつかない決着に、セティは焦っていた。
◆
ソフィーの目の前で、壊れた本が地面に落ちる。
その本を壊したのは、使っているサンキエムなのか、それともサンキエムを攻撃するソフィーなのか。
サンキエムは本が壊れるたびに笑う。
「また壊したね。これで幾つ目?」
その声に苛立って、それでも冷静でいなければとソフィーは息を吐き出した。
(このままじゃ、ただ本が壊れるだけ……なんとかして、サンキエムを止めないと……)
けれどソフィーには、有効な手立てが思いつかないでいた。
セティは近くで写しと戦っている。今はお互いに槍を持って攻撃しあっている。さっきまで地面を転がっていた二冊は、服も体も顔も泥だらけだった。
二冊とも、だいぶ疲弊しているようにも見える。
(時間が欲しい。少し考えて、体勢を立て直す時間が……)
サンキエムは積極的にはソフィーを攻撃してこない。ソフィーの出方を伺って楽しんでいるのだろう。ソフィーと一定の距離を保って、手のひらで開いていない本を弄んでいる。
そうやって余裕ぶっている様子は腹立たしいが、油断している今がチャンスとも言えた。
攻めあぐねて次の手を考えている振りをして、ソフィーはサンキエムを睨む。横目でセティの様子も観察する。
写しが突き出した槍をセティがぎりぎりでかわす。左腕に穂先がかすって、白いシャツが破けて肌が裂ける。流れ出した知識の黒い液体を気にすることもなく、セティは写しに槍を突きつけた。
写しが避けたのもぎりぎりだった。写しの顔に黒い筋ができる。知識でできた黒い液体が、頬を伝い落ちる。
ソフィーはセティと写しの間に水の塊を生み出した。そして破裂させる。咄嗟に二冊は後ろに跳んで避ける。
サンキエムと写しの前に水でカーテンのような幕を作る。水の揺らぎが、視界を遮る。そしてセティの腕を引っ張ってシダの茂みの中に身を隠した。
「わっ!?」
咄嗟のことにセティは声を漏らしたけれど、ソフィーの表情を見てすぐに唇を引き結んだ。
水の幕を写しの槍が突き破る。そのまま薙げば、水は消え去った。けれどそのときにはもう、ソフィーもセティも身を隠した後だった。
「なあんだ、逃げたんだ。つまんない」
サンキエムは、ソフィーとセティの姿を探すように周囲のシダに目を向けた。ざわざわと葉が揺れているが、どこにふたりが隠れたかまではわからない。
「隠れても無駄だよ。この辺り一体を焼き払ったって良いんだから」
苛立つようなサンキエムの声。どうやらソフィーとセティを見失ってくれたようだった。
ソフィーはシダの葉陰で小さく息を吐くと、小声でセティに問いかけた。
「セティ、傷は大丈夫?」
「このくらい……表面だけだ、どうってことない」
セティは紡ぎ手の蜘蛛を使って、自分の傷ついた腕に蜘蛛の糸を巻きつけた。傷を完全に修復するには時間が足りない。それでも何もしないよりはましだろう。
蜘蛛の糸を巻いた腕を見下ろして、セティは悔しげに唇を噛む。
ソフィーも心配そうに、セティの傷を見ていた。
セティを傷つけてしまっていること。たくさんの本を壊してしまったこと。全てサンキエムの策略だ、サンキエムが悪いのだ、と切り捨ててしまうことは、ソフィーには難しかった。
自分はサンキエムとは違う、本を壊したいわけではないのだ、確かにそう思っていても、実際に傷ついたセティを前にして、ソフィーの心は不安に揺れてしまっていた。
「たくさんの本を壊してしまった。セティまでこんな傷を……」
ソフィーの悔恨の声に、セティは唇をあげて睨み上げる。
「それは全部サンキエムが悪いんだ、ソフィーが気にすることじゃない」
「そうだとしても……それでも、確かにわたしが壊した」
ソフィーはつらそうに眉を寄せて、セティの腕の傷を見ていた。その傷以外にも、セティの体には細かな傷がたくさんできていた。いつもは真っ白いシャツも泥に汚れてぼろぼろだった。真っ黒な綺麗な髪も、ぐしゃぐしゃだった。
ソフィーの瞳が揺れるのを見て、セティは悔しそうに唇を曲げる。泣きそうな顔で、しがみつくようにソフィーの腕を掴んだ。
「ソフィーがいつも本を大事にしてること、本にはわかってるから」
「え……」
思いがけない言葉に、ソフィーはぽかんとセティを見る。セティの瞳はわずかに潤んでいて、そして真っ直ぐだった。
「だから、ソフィーはちゃんと本たちの……俺の所有者なんだ」
セティは少し言葉足らずだった。それでもそこに込められた思いは、ソフィーに確かに伝わった。ソフィーの胸の奥に、セティの言葉が温かな光となって、灯った。
セティが「わかってる」と言ってくれる、所有者として認めてくれる、それだけでソフィーは、まだ戦える気がした。




